121 シスコン発生中 ①
その日から、グステルは猛然と事後処理にあたった。
母や兄と協議を重ね、昼夜問わず領都を奔走。
ただし、彼女の身分は依然伏せられたままだった。
もちろん、公爵邸内では薄々彼女が何者かをわかっているものは大勢いるだろう。
しかし、グステルは、今でも対外的にはハンナバルト家の使用人のふりをしたまま活動している。
本日も公爵邸の事務室の中で黙々確認作業を進めていると、彼女が着席した机の上に新たな書類を運んできた童顔の青年が、ふと、問う。
「ええと……部外者の僕が口を出すことでもないと思うのですが……ステラさん、本当に、それでいいんですか?」
「ん? それで?」
顔を上げるとヴィムが、困ったような顔で自分を見ている。一瞬なんのことだっただろうかという表情をすると、ヴィムが続けた。
「あなたの身分の件です」
せっかく晴れて実家に戻ったというのに、令嬢としての身分を取り戻さなくていいのか。偽者をそのままにして、その権利をすべて奪われたままにしておくつもりなのかと心配そうな青年に。グステルはあっさりと返す。
「ああ、それは別にいいんですよ」
……ずいぶん軽い返事である。
これにはヴィムは、いつも戸惑ってしまう。
侯爵家で使用人をしてきた彼からすると、令嬢というものは、蝶よ花よと大事にされて、うやうやしく扱われるものだった。
ただ、彼のこの常識は、ヘルムートに厳重に守られていたラーラを基準とした考えだから、若干偏りもあるかもしれない。
それでもよその令嬢たちだって、きれいに着飾った姿でゆったり構え、たくさんの使用人に囲まれて。自分たちでは脱いだガウンや落とした手袋ですら持たないという娘も珍しくない。
それが公爵令嬢ともなれば、王女に次ぐような身分なわけで。
ヴィムはグステル以外の公爵令嬢を間近にしたことはないが、それはつまり、ものすごく大切にされるべきお人なのでは……と、彼が戸惑うのも無理はなかった。
しかしそれをヴィムが言うと、グステルはいつも笑って「生命はすべからく大切にされるべきですよ」と、なんだかとても大きな話で返してくる。
言われていることはわかるが、どこか誤魔化されているような気がしてなんとも納得がいかなくて。それで何度も訊ねてしまうらしい青年に。グステルは、仕方ないなぁと作業の手を止めて彼を見上げた。
「あのですねヴィムさん。そのヴィムさんの令嬢たちの捉え方は、貴族社会で生きるあなたには必要な常識です。ですから変に矯正してはいけないと思っていたので否定はしなかったのですが」
ヴィムはこれから先も、ハンナバルト家の使用人として生きていくのだろう。
ならばその社会で常識と捉えられていることを『違う』と言ってしまうことは、彼の今後の仕事に影響してしまうかもしれない。特にこの青年はとても素直だから。
グステルのような変な──前世の記憶持ちの、精神還暦過ぎの令嬢なんてそうそういるわけではないのだから、自分を令嬢の基準にされては困るのだ。
だが、あまりにも彼が何度も確かめてくるもので、グステルはここはきちんと話しておこうと思いたったようだった。
「ヴィムさん、あのですね、人は価値観はさまざま。私は令嬢でいるよりも、自由でいたいんです」
グステルからすると、落とした手袋は足元にあるというのに、自分でそれを拾うことも禁じられ、わざわざ侍女たちの手を借りなければならないなんて立場は、面倒がすぎる。
「でも、これはあくまでも私の考えですから。よその令嬢たちがそうだとは思わないでください。あれです、多分私は他の令嬢たちより面倒くさがりなんですよ」
「……えぇ?」
真顔で言われたヴィムは、思わず彼女の周りを埋め尽くすように机の上に山積みにされている、帳簿や書類の束を見た。
彼女が座っている席は、本来この邸の執事が使う机で、置かれた書類らはすべて公爵家の財産に関わるものだった。
アルマンがこの邸に来てから数年の帳簿は何十冊もあり、彼女はこれらすべてに目を通そうとしている。
つまり、アルマンたちがどれだけ邸の家財に手を付けたのかを調べているのだ。
その作業を、黙々、粛々と続ける娘が、“面倒くさがり”とは。
あまりにも、そぐわないように感じて。ヴィムはとても納得のいかなそうな顔。が、グステルは構わず淡々と言う。
「だって拾う手袋と自分の間に、わざわざ他人の思考を挟むなんて……まどろっこしい……だってその人は、心の中で『ち、なんで手袋なんて落とすんだよ』とか思っているかもしれないじゃないですか? 面倒ですよ。自分でさっと拾えばいいじゃないですか」
「はあ……」
グステルの説明は、ヴィムにはわかるようなわからないような微妙な言い分であった。
それは面倒くさがりと言うんだろうか……と、つい考えていると。グステルはそれに、と続ける。
「現状当家としても、私を令嬢と認めることにはいささか障りがありますしね……」
グステルは、ひょいっと肩をすくめた。
現在、メントライン家を牛耳っていたアルマン一味は捕らえられたが、王都にいる叔母グリゼルダや、偽者の令嬢はそのままだった。
兄フリードなどは、さっさと捕らえさせろと吼えたが。それをグステルが(真顔で兄の両頬を引っ掴んで)止めた。
そちら側は慎重に対処すべきというのが、彼女の考えである。
「なにせ、ことはすでに王太子殿下を巻き込んでいます。それはアルマンと叔母が国を欺いたということであり、叔母の身内たる我々公爵家としては、かなりの大事です。父が病に伏せていたといっても、公爵家は大いに監督責任を問われる事態です」
偽者の令嬢が身分を偽り王太子に接近しているのはもちろん大きな罪となる。
加担しているのが公爵の妹という構図は、公爵家も当然関与を疑われる事態。
悪人に騙された、では、すまぬ話なのである。
であれば、と、グステル。
「この先どう始末をつけるかがとても重要なわけです。その流れ方によっては、公爵家は爵位や領地も失い兼ねませんから、私の身分がどうとか言っている場合ではないんですよ」
そう肩をすくめて見せると、ヴィムもようやく少し納得したようだった。
これだけの話なのだから、本当はすぐに説明してやりたかったのだが、ここ数日は慌ただしすぎて、これだけの話をしてやるだけの余裕もなかった。
(まあそれに……その一件にはラーラの恋愛も絡んでるもの……彼女と王太子の状況が見えぬ今は、下手には動けない)
ヘルムートの様子がおかしかったことからも、グステルはラーラのことを危惧していた。ゆえに余計に慎重に動かなければと考えたのだ。
と、ヴィムが訊ねてくる。
「えっと……では……これからどうするんですか?」
「うーん、とにかく今は領都の平定が先決です。アルマンの処罰やらは兄がやってくれていますが、疎かにされていた領民たちの救済も速やかに行わなければなりませんし……そのためには費用もかかりますから、財産の把握も必要ですし……」
グステルは改めて、机の上の書類を眺めて、ふっと疲れた様子で笑う。
現在、グステルたちは母らと三人体制でことに当たっている。
アルマンたち一味や関わったものたちの捕縛と断罪は兄。
領地の現状調査、領民たちへの対処は母。
そして、商売人としての経験も長いグステルは、公爵邸の財産や内務の調査を担っている。
なんといっても、公爵家の中枢を牛耳っていたアルマンたちが捕らえられた今、人手が圧倒的に足りなかった。信頼のおける者、ということになると、余計である。
この事態には、一同はとても困っていたのだが……。
しかしことが収まった数日後、公爵邸では思いがけないことが起こったのだ。