120 エドガーの予感
その娘が寂しげにうつむいたのはほんの一瞬だけのことだった。
落胆のよぎった瞳のふちには、光るしずくが見えた気がしたが、彼女はそれを素知らぬ顔でぬぐいとった。
それからすぐに椅子を立ち、気遣うヴィムをなだめ、エドガーと二、三言葉を交わし、彼女はまとわりつく兄をめんどうくさそうにあしらいながら(『ちょ、お兄様いまさら懐かないでちょうだい!』)、ヴィムと共に部屋を出て行った。
公爵家の広く美しい応接間に残されたエドガーは、一行が出ていった扉を見つめたまま何事かを考えていた。
「……」
と、そこで閉じたばかりの飴色の扉が軽くノックされ、ゆっくりと開かれる。
「エドガー様」
現れたのは彼の家の者で。男は部屋に入ってくるといつものようにエドガーに頭を垂れる。
この家人は、彼がヘルムートに付き添わせていた男である。
先ほどのヘルムートの出立の報せも、この男によってもたらされたもの。
だが実は、家人の報告はまだ他にもあった。
彼の話によると、ヘルムートは、ここ公爵領に戻るために、妹ラーラに跪いて懇願したらしい。
驚いたエドガーが、その時の状況をさらに詳しく語らせると、家人は、「それはまさに、激情と激情のぶつかり合いでした」と、ため息をついた。
ほんの数日、そばを離れて公爵領に戻りたいという兄の必死な頼みに、ラーラははじめひどい拒絶を見せたらしい。
こんなに不安なときにそばを離れて欲しくないと。
亡き側室の子である彼女は、正室の顔色をうかがう父との間にはよそよそしさがある。頼れるのはお兄様だけと、家にいてくれるように哀願する妹に。しかし、ヘルムートは引き下がらなかった。
ヘルムートは、妹の前にためらいなく両膝を突き、真剣な顔で『すまない』と言った。
『……すまない、頼むラーラ。ほんの数日でいい』
兄は絞り出すような声で、とてもではないが、じっとしていられないんだと訴えた。
そんな兄の苦しげな様子に、ラーラはしばし呆然としていた。
『なぜなの……? だって、私、知っているのよ……お兄様、その方のために、ここでも人を使って色々やっているでしょう? それで十分じゃない!』
そう声を荒げる妹に、ヘルムートはそういう問題ではないと首を振った。
『……会いたいんだ』
その深々とした一言には、ずっと部屋の入り口のそばで気配もなく控えていた家人が、つい顔を上げて青年の背に見入ってしまった。
耳にした声は震えるような響きで、青年のたまらない想いがこめられていた。
妹の前に膝を突き、うなだれた青年は言う。
『帰ってきてみて、彼女と離れて、余計に身にしみた。彼女と離れることが苦痛だ。こうしてお前のそばにいても、彼女のことばかりが頭を占める。ここに身を置いても、心がどうしても彼女に飛んでいこうとする』
こんな状態では、と、歯噛みするように言って、青年は愕然としている妹を見上げる。
『私は抜け殻も同然。何も手につかない。せめて一目でも彼女の無事をこの目で確かめねば、お前を守ることもきっと十分にできない』
苦しげに吐き出された言葉に、ラーラは目を見開いて、はっ……と、肩で荒く息を吐いた。
絶望のあまり、身動きもできず、湧き上がる怒りを持て余しているように見えた、と家人は言う。
そして彼女は、拳を震わせながら声を絞り出したそうだ。
『……分かったわ……だけど、条件がある!』
その女を助けに行くのはいい、だが、状況が改善したらすぐにこちらに戻ること。
そして、絶対に、と、ラーラは強く前置いて兄に突きつけた。
『その女とは言葉を交わさないで! 私は、あれから王太子殿下と一言だって交わせてもいないの! お顔すら……っ!』
そこまで言って、ラーラは顔をおおって激しく咽び泣きはじめた。
これまで堪えていたものが溢れ出たように。泣き崩れる姿は、見ているだけで胸が痛んだと家人。
彼女が偽物のグステル・メントラインと衝突した日から、王太子の足は次第にラーラのもとから遠のき、今では訪れはなくなり手紙も届かなくなっていた。
その代わりに聞こえてくるのは、彼とメントライン嬢の仲睦まじい噂。
それが次第に令嬢の心を削っていったようだ、と、家人は報告した。
『でも、驚いたことに、』と、男は一度言葉を切った。
今でも見たものが信じられなかったと物語るような戸惑いをにじませて、
『これまでは……あんなにラーラ様に甘かったヘルムート様が、それでも……折れなかったんです』
この男は、エドガーについて歩き、兄妹のこともよく見てきた。
ヘルムートは弟妹のことをとても大切にしていて、彼女たちの頼み事は絶対に断らなかったし、彼女たちの望みを押しのけてまで自分の希望を通そうとしてきたことはなかった。
それゆえに家人は、あんなヘルムート様を初めて見ました、と、しみじみと言った。
『以前なら、ヘルムート様は、ラーラ様がちょっと涙ぐんだだけでも外出を取りやめていらっしゃいました。それなのに……』
その言葉の中には、戸惑いだけではなく、小さな感動のような感情もにじんでいて。エドガーは静かに息をはいた。
なるほど、それでヘルムートはあの娘と言葉を交わすこともなくすぐにここを発ったのか。
しかしエドガーとしては複雑な気持ちだ。
ラーラはかつての彼の想い人であり、今でも心の中にはその時の、焦がれるような気持ちが残っている。今でもとても大切に思っている。
だが……正直なところ、彼はヘルムートを責める気持ちにはなれなかった。
彼にも想う相手から望まず離れなければならなかった経験がある。そのつらい気持ちはよくわかった。
それに、成り行きであるとはいえ、グステルと行動を共にしたエドガーは、すでに彼女のことをそう嫌いではなくなってしまっていた。
ラーラの敵とうとむには、彼女は機知に富み真っ当で、そして今回の行動を見てもわかるが、勇敢で、思いやり深い娘だった。
先ほどヘルムートが去ったと知ったときも、けして感情的にはならず、自分がやるべきことを優先させた。
彼女が一瞬見せた落胆の瞳の中には、確かにヘルムートへの想いがあったのに、静かに感情を収めた様子は見事だった。
家人から、ラーラの取り乱しようを聞いたゆえに、余計にそう感じるのかもしれない。
「……だが、これは大変だぞ……」
エドガーは渋い顔で言って頭を掻いた。
あの兄に愛しまれて当然という気持ちでいたであろうラーラが、このヘルムートの反旗に対し、果たしてどういう反応を見せるか……考えただけでも頭が痛い。
「……これはもう一波乱ありそうだな……」