119 グステル、火がつく
エドガーの言葉に、グステルがえっと目を息を呑んだ。
「領都を……出られた……?」
思いがけない報せだったのだろう。
まるくなった目で凝視されたエドガーは、いささか気が引けたがそれはおくびにも出さず、戸惑っている彼女に続けて聞かせた。どうせ隠しては置けないこと。言いづらくても、ここは伝えてやるほうがいいだろう、と。
「ヘルムートは、ラーラのところに戻ったようです」
「え⁉︎」
それを聞いた途端、飛び上がって驚いたのはヴィムである。
「そ──そんなことあるわけないです! だって、ヘルムート様がステラさんに挨拶もなく……」
狼狽えもあらわに、エドガーに食ってかかるように言って、ヴィムはすぐにグステルを心配そうに見た。
ソファに座るグステルは、表情を凍らせて沈黙していた。
その茫然とした様子には、ヴィムはおろおろしている。(兄もちょっと事情がつかめなかったがおろおろしている)
だがグステルは、この時ばかりは青年をなだめてやる気持ちの余裕がなかった。(兄のことは意識的に無視した)
彼女の大地色の瞳がじっとエドガーを見つめた。
この青年は、限りなく冗談や嘘がうまそうだが、どうやら今回の言葉は嘘ではなさそうだ。
それを読み取ったとたん、グステルの胸には大きな落胆が押し寄せてきた。
いや、挨拶などはどうでもいい。
ただ、再会を喜び、感謝を伝え、怪我の具合を確認させてほしかった。
窮地を救われた喜びは限りないほどだったし、そのために彼に怪我を負わせてしまったことに対する不安と罪悪感は底なしだ。これらの感情は、とても人伝ての言葉などではおさめられそうになかった。
普段はあまり感情をあらわにしないグステルも、つい苦悩が顔に出てしまう。歪められた顔に、ヴィムが悲壮な顔をして、兄が猛然とエドガーを睨んでいる。
でも、そういえば、と、グステル。彼女の冷静な視点は落胆の中でも失われず、ヘルムートとの再会の時のことを思い起こさせる。
(……さっきのヘルムート様は、少し様子がおかしかった……)
気のせいかと思っていたが、彼は少し自分と距離を取ろうとしていたふしがあった。
それをグステルは、怪我の具合が悪いからなのかと案じていたのだが……どうやらこれは、他にも何か理由がありそうだ。
となると、一番にその理由として思い当たるのはラーラのこと。
(もしかしたら……あちらの状況は、私が思っているよりもずっと悪い……?)
グステルは胸騒ぎがして、居ても立っても居られない気持ちになってソファを立つ。しかし、立ち上がったグステルは、その場でもどかしそうに拳を握りしめる。
すぐには彼を追っていくわけにはいかない。それはできないのだ。
ここにはまだまだ問題が山積している。
病の父や、家族のこと、領地のこと。王都にいる偽物のことも、公爵家として今後の対応を話し合う必要がある。そしてアルマンに投げ出された気の毒な母子のことも気になった。
せめてそれらの指針を母や兄と話し合うまでは、ここを離れられない。
グステルは、さらに硬く拳を握りしめる。
それを傍らで見ていたヴィムの目には、彼女がはやる気持ちをなんとか抑え込んでいるように見えた。
「……そうですか、わかりました」
静かにこぼされた言葉を、エドガーがあいかわらず何を考えているのかわからない表情で聞いている。
じっとこちらの反応を伺うような目に、しかしグステルはそれ以上の感情をあらわにはしなかった。
落胆はどうしてもある。
だって、とても会いたいのだ。本当に。
心配とか、感謝とか、そういったことの前に、どうしても彼に会いたい。
ただ、ヘルムートはここに駆けつけてくれた。遠い道のりをわざわざ王都へ戻ったのに、再びここへ戻ってきてくれたのだ。
(私を助けるために……)
そう思うと、悲しさの中にも温もりが芽生える。切なくて胸が引きちぎれそうだったが、今はこの事実だけで十分だと思った。
グステルはふっと息を吐き、なんとか肩の力を抜いた。そうして自分の出方をうかがっているらしいエドガーを、真っ直ぐに見つめる。
「……ヘルムート様は、ヘルムート様の為されるべきことを為すために戻られたのでしょう。ならば私も、私のやるべきことをやります」
穏やかにいった彼女は寂しく微笑んで、しかし直後、その目にグッと力が宿る。
グステルは、猛々しく宣言した。
「そして、私は必ず、ヘルムート様のもとへ参ります」
部屋を出て、廊下を猛然と急ぐグステルは真剣な顔で独りごちた。
「……絶っ対にっ! 最短で片をつけてやる‼︎」
──どうしても、会いたいのだ。彼に。
……が。
そんな気合のみなぎった娘のあとを、慌てた青年が追いかけていく。
「ま、待ってください、ス、ステラさんてば! ちょ、あ、あの……! いったいいつまでその破れたメイド服を着ているおつもりですか⁉︎」
アルマンの配下たちを騙すために破いて、さらに燃やしたメイド服は、スカートがウエスト間際まで裂けている。立ち止まっていれば、エプロンもあるゆえまだマシだが……グステルはそのまま全速力で走っているものだから、おもしろいくらい太ももがあらわであった。
これは侯爵家の使用人であるヴィムからすると、あり得ない。
だって、彼女はこの公爵家の令嬢なのだから。
とにかくお召し替えを! と、哀願しながらグステルに追い縋っていくヴィムはのちに、この時の彼女のことを、『……まるで闘牛を追いかけているようでした……』と、評した。
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