117 グステル、トドメをさす
向かってきたアルマンの勢いに、もう無傷は無理だと悟り、顔の前で腕を交差させた。
かすり傷ひとつでも悲しませてしまいそうだとは思ったが、それは命があればこそグステルも言い訳ができる。
そう思って歯を食いしばった。生きるために。
その覚悟のうえに、アルマンの刃は容赦なく振り下ろされたのだ。
しかしそのときだった。
床のうえで、自分の頭をかばうように両腕を持ちあげていたグステルの身体が横に引かれた。
「──⁉︎」
次の瞬間、平行に動いた視界の下半分が黒く覆われて、身体は何かにふわりと包みこまれていた。
驚いたグステルがとっさにその何かに目を移したとき、ドスッと鈍い衝撃があった。
半分になった視界の先──誰かの肩越しに興奮したアルマンの顔が見え。グステルは、一瞬何が起こったのかがわからなかった。
ただ、荒々しく息をしているアルマンが、ギョッとしてあとずさっていく。
その手に、切っ先が赤く染まった短刀が握られているのを見て、グステルは蒼白になった。
生々しい色だった。
この瞬間グステルは、自分が誰かにかばわれて、その人が代わりに刺されたのだということを理解した。
そんなと、悲鳴をあげた瞬間、グステルを抱きしめていた誰かは、機敏な動きで身体を反転させて、驚くアルマンに痛烈な蹴りを喰らわせた。
長い足で正確に横っ面を回し蹴られたアルマンは、横むきに吹き飛ばされていった。
あまりにきれいな弧を描いた一撃に、思わず唖然としていると、そこで部屋の中には大勢の男たちが雪崩れこんできた。
グステルとロイヒリンがぽかんと見守る前で、男たちはアルマンやその配下たちを怒号の一つももらさず取り押さえていく。男たちは鎧を着ていて、その表には見覚えのある紋章が刻まれていた。
抵抗する男たちの声で場は騒然となり、しかし踏み込んできた男たちと彼らの力の差は歴然だった。
街のチンピラ程度の力しかないアルマンの配下たちは、統率の取れた乱入者たちにあっけなく捕らえられ、場は、一気に鎮圧された。
「こ……れは……」
正直すぐには怒涛の展開についていけなくて。放心しかけたグステルは、しかし傍らに再び戻ってきた気配にハッとする。
アルマンを蹴り飛ばした人物が、彼女の傍らに跪いた。
その苦しげな顔を見て、グステルは一気に目頭が熱くなった。
「……、……、……ヘルムート様……?」
もどかしくもすぐには声が出ず、やっと出た声も言葉尻が泣いているみたいに揺れてしまった。
なぜここにという困惑と、それよりもはるかに大きく感じた安堵感で、身体が溶けていきそうなほどに力が抜けた。
しかし、涙の粒がグステルの下まつ毛を濡らした瞬間、彼女は先ほど彼にかばわれたことを思い出した。
グステルの顔がさっと青ざめる。
「! 背中……!」
そう、先ほど彼は、彼女をかばって右の肩を刺されたのだ。
床に放り出されたアルマンの短刀は、先から中腹までが赤く染まっている。
その色を見て、うろたえたグステルはすぐにヘルムートの背中側へ回ろうとする。
だが、それを、青年が無言で押し留めた。
そっと優しく制されたグステルは、どうしてという顔。
「み、見せてくださいヘルムート様! お怪我なさったでしょう⁉︎」
叫ぶように願うも、ヘルムートは無言で首を振って、柔らかに口の端を持ち上げた。静かに微笑みながら、大事ない、と、言うように片手を持ち上げ、グステルの肩をなだめるようにさすった。
そんな青年の様子に、グステルは違和感を感じ、顔をこわばらせた。
ヘルムートが、何も言ってくれなかった。
まるで言葉を失ったかのように。
「……ヘルムート様……?」
戸惑いながら青年を見つめていると、青年の視線はグステルの口元を見ている。
途端、ヘルムートの眉間にはグッとしわがよって。グステルは、あっと思った。
彼は、アルマンに頬を叩かれた時に切れた傷を見ているのだ。正直なところ、グステルはこんな傷より、ヘルムートの背中を見せてほしかったが……ヘルムートの瞳に浮かんだ憤りはあまりに強かった。
青年は、瞳に怒りをにじませながらグステルに一瞬手を伸ばしかけ……なぜかそこで、ためらい腕を引き戻した。
その様子が、いかにも苦しげで。握りしめられた拳がこきざみに震えているのを見て。グステルは、彼がこの事態に対し、大きな責任を感じていることを察した。
グステルは、慌てて違うと首を振る。
「ヘルムート様、私、大丈夫ですよ?」
すべては自分と自分の家族のために自分で選んで、進んだ結果だった。
ここまでたくさん助けてくれたのに、罪悪感なんて抱いてほしくない。ラーラのもとへ戻ってと言ったのも、自分なのだから。
「ヘルムート様が助けてくださったから、私、無事です。痛いところもありません。それに父にも会うことができたんです。だから……そんなに悲しまないで」
本当は頬も足も痛かったが、でも、その痛みはグステルにとっては些細なことだった。今、目の前のヘルムートが心を痛めていることに比べれば。
グステルは困ったような顔で手を伸ばし、ヘルムートの頬にそっと触れた。
その瞬間、食いしばられていたヘルムートの口元がいくらか緩んで。
だが、ヘルムートはやはり無言だった。
彼はただ、グステルの顔を見つめ、ずっと、何かに耐えるような表情をしている。
名前も呼んでくれないことを怪訝に思って、どうかしたのかと訊ねようと口を開きかけたとき、そこへヴィムがやってきた。
「す、すれらさぁあああんっっっ!」
泣きながらやってきたヴィムは、二人のそばに転ぶように膝をつき、グステルの顔を見てさらにびゃっと泣き顔を歪める。
「ヴィ、ヴィムさん……」
あまりに盛大な泣きっぷりに、グステルがちょっとギョッとした。
青年は、ぼろぼろ、ぼろぼろ涙をこぼしながら泣き叫ぶ。
「怪我! 怪我してるじゃないですかぁっ!」
「お、おおお落ち着いてくださいヴィムさん……だ、大丈夫だよー心配ないからねー」
泣く子供に慌ててあやしていると、その場からヘルムートが、すっと静かに離れていった。そして彼は、ヴィムに耳打ちする。
「ひぃぃ……あ、は、はい!」
何事かを命じられたらしいヴィムは、慌てた様子で涙を拭いて、グステルを抱き上げる。
「ステラさん! 僕たち医者を連れてきているんです! 今すぐそちらにお連れしますね!」
「え、で、でも……」
グステルは戸惑った顔でヘルムートを見た。
「いや、私はいいです、それよりヘルムート様の背中を先に……」
診てもらってくれ、と、言いかけたグステルの言葉が先細る。
あれ? とグステルは瞳を瞬いた。
一瞬目を離した隙に、ヘルムートの姿がそこから消えていた。
「え……?」
慌てて首を回して室内にその姿を探す。と、そのとき部屋の入り口のほうから、ギャッと大きな悲鳴が聞こえた。
驚いて振り返ると、誰かが苦しむアルマンの腹を踏みつけている。
──ヘルムートではない。
それは非常に大柄な人物だった。赤黒い色の髪を耳元できっちりと結い、背中にまるで獅子の立髪のような巻毛を垂らしている。
白銀色の重厚な鎧越しでも、その下の筋肉の盛り上がりがよくわかるような体格の男で。当然、脚当てをつけた脚も非常に重そうで、見るからに力に満ちていた。
その脚で、容赦なく腹を踏みつけられたアルマンはうめき苦しんでいる。
おそらく肋骨が数本折れたのではないだろうか……。
その光景に、グステルが驚いて目をまるくしたとき、鎧の男が冷たい眼差しで、もう一度足を持ち上げた。
グステルは慌ててヴィムの腕から抜け出した。そこに転がる男から受けた仕打ちも忘れ、グステルは、アルマンに駆け寄った。
「ちょ……な、何やっているんですか!」
アルマンに覆い被さって、男を下から睨みつけると、大男は足をおろし、高慢な顔でじろりと彼女を見た。眉間と鼻の付け根に皺をよせて自分を眺める、その顔を見て、グステルは遅れて(……あれ?)と思った。
どこかで見たような顔だった。
でも、どこで……と、考えていると、男が居丈高に言った。
「……ほう、お前が本物のグステルか」
「……へ……?」
つんとした顔でつぶやかれた言葉に、グステルはぽかんとする。
「なるほど、確かに母上によく似ている」
「え……」
男の言葉にグステルは絶句して、徐々にその顔がひきつっていく。
「ま……まさか…………」
ふるふると震える指を持ち上げながらつぶやくと、男が目を細めて苦々しい顔。いかにも無礼なやつといいたげな表情を見て、昔を思い出したグステルが息を吸ったまま固まった。
凍りついた娘に、男はさらに険しい顔をした。
「貴様、もしや兄の顔を忘れたのか……?」
相変わらずいい度胸だな、と、気難しそうに吐き捨てられたグステルは。この後に及んで足掻く。ぴょっと男から視線を逸らし、
「……、……、……ち──違いま……す……?」
長年家出していた娘の習性か。
幼い頃に別れたはずの実兄の登場に、すっかり気が動転したグステルは、逃げ出したすぎてあとずさる、が、そこにはちょうどアルマンが横たわっていた。
兄に思い切り腹を踏みつけられて倒れていた男の身体に踵をぶつけたグステルは、その上に思い切り尻もちをついてしまった。
ヘルムートの蹴りに続いて兄の二撃目。そこへきて、追加で脚を景気よく踏まれたアルマンの口からは、まるでヒキガエルの断末魔のような悲痛な叫びがもらされた。
「は⁉︎ す、すみません!」
「謝るな!」
兄の叱咤にグステルは、ヒッと首をすくめた……。




