116 瀬戸際で
今度は先程よりも勢いが強く、グステルは、そのまま床に叩きつけられるように転んだ。
倒れた石の床には、さきほどアルマンが配下に乱暴を働いたときに散らばった様々なものが散乱していて。大小さまざま、雑多なもののうえに投げ出されたグステルは、太ももと手のひらにゴリッと食い込むような痛みを感じ、顔を苦痛で歪めた。
同時に片方の足首も捻ったようで、これにはしまったと思った。
虚しいことだが。やはりこうして手加減もなく向かってこられると、男女の力の差が明確になる。
いくら相手が愚かでも、世の中にはこうした暴力で無理やりねじ伏せられてしまうことが多々ある。──悔しいが、それが現実であった。
しかしだからこそ気持ちで負けてはおしまいだと、グステルは奥歯を噛み締めてアルマンを睨んだ。
「っ小娘小娘とおっしゃいますけどね……! 小娘でもものは考えますし、多少なりと道理だってわかります!」
気丈に発するが、途端、アルマンが噴き出した。
男は床のうえに下した娘を、勝ち誇った顔でじろじろと眺め、愉悦に浸って嘲笑する。
「道理⁉︎ ガキが道理だと⁉︎ 笑わせるな、野垂れ死にし損ねた小娘が! 何が道理だ!」
しまいには、アルマンは顎を上げて大笑い。
公爵家の娘を名乗ったグステルを侮辱するため、わざと大袈裟にふるまっているのだろう。腹を抱えてヒステリックに笑い、背を曲げた男の視線は床に落とされた。
その一瞬を、グステルは見逃さなかった。
アルマンが自分から視線を外した瞬間、グステルは、後ろ手にさっと床の上を探った。するとすぐに固い感触が指に触れて。ハッとした彼女は、それを手のうちに隠した。
その動きに気がついたのが、言葉もなく彼女を見ていたロイヒリンだった。
呆然とそこにいた男は、グステルが床の上にはわせた手でつかみ、背の後ろに隠したものを見て咄嗟に声を上げる。
「ぁ……あ──ア、アルマンさん!」
「あ?」
ロイヒリンの声に、アルマンが笑いを収めて視線を下ろす。
おそらくその存在をすっかり忘れていたのだろう。縛られたまま、床にひざまずいている男の顔を見て、アルマンは片眉を上げた。
「なんだロイヒリン、今更命乞いか?」
「も、もうやめてください! まだ子供も同然ですよ⁉︎」
ロイヒリンは必死な顔で懇願した。
彼は不安で仕方なかったのだ。
すっかり頭に血がのぼったアルマンの行動もそりゃあ恐ろしい。しかしそれ以上に。
このままでは、目の前で思い詰めたような顔をしている少女が……せっかく父である公爵と再会したのであろう令嬢が何か無謀なことをしでかしそうで恐ろしい。
ロイヒリンには分かっていた。父親のもとへ向かったはずの彼女がここへ駆けつけたのは、きっと自分を救うためだ。
「っアルマンさん! どうか冷静になってください! 閣下のお嬢様です!」
傷つけるなんてどうかしていると叫ぶロイヒリンに、しかしアルマンはやはり鼻を鳴らす。
「知ったことか。身の程も考えず、この俺に噛み付いてきたこいつが悪い。……待っていろロイヒリン。この小娘の次はお前だ。ここまで見られたからには生かしてはおけん。悪く思うなよ」
言ってアルマンは薄く笑った。嘲笑う男の持つ刃がロイヒリンに向き、短刀を突きつけられた商人が絶句して──
その光景に、グステルは突き動かされた。
──これは前世でのことだ。
そのとき、“ユカ”という名前だったグステルは、夫だった男の浮気相手に、包丁で襲われたことがある。
子供と一緒に公園で遊んでいる時のことだった。
鬼女のような形相で襲いかかってきた女に戦慄しながらも、彼女はこう強く感じた。
『自分が死んでも──この女を殺してでも、この子を守らなければ……!』
その時感じた覚悟は、恐怖とともに魂に深く刻み込まれて。アルマンが振りかざした白刃がそれを蘇らせていた。
自分がどうにかしなければと強く思い詰めた。
ロイヒリンも、アルマンの子供も。絶対に死なせるわけにはいかないと思うと、動悸が激しくなって。
自分のせいで誰かを死なせるわけにはいかないと思うと、とても立ち止まっていられなかった。
……この時もし、グステルが機敏に動くことができれば。まだ彼女の心にも余裕もあったかもしれない。
しかし、くじいた足の痛み具合から、彼女は自分がもうそう動けやしないのだと感じていた。
ならば、ためらっている場合ではない。
グステルは、ロイヒリンを嘲笑っているアルマンに襲いかかった。
一気に距離を縮め、後ろ手に握っていたものをその男めがけて振り上げる。
グステルの手のうちで、それは鈍い光をたたえて鋭利に輝いた。
手のひら大の、グリーンのガラスの破片。
部屋のはじに置いてあった酒瓶が、先程アルマンが配下を突き飛ばした拍子に割れて、そのかけらが一つグステルの足元にまですべってきていた。
焦燥感のあまり、思わず破片を握りしめた手のひらには血が滲んだが、不思議と痛みは感じなかった。
気がついたロイヒリンが何かを叫んだ。
しかしその制止は、グステルの目には入ってこなかった。
怒りのあまりか、必死のあまりか。その瞬間、すべてのものが無音に静まり返っていた。
聞こえるのは、自分の心臓の音だけ。
彼女の瞳が捉えるのは、急な反撃に驚き、のけぞったアルマンの顔。
男はギョッとして、咄嗟に持っていた短刀をグステルに向けた。
残忍な輝きが自分の顔に迫る様子が、やけにゆっくりと見えた。
ひるむな、
ためらうな。
そう己に命じ、グステルはアルマンの身体に狙いを定め、思い切り腕を振る。
この無慈悲な男にわずかでも一矢報い、痛みという枷を与えることができたら。その少しの時間で、協力してくれたロイヒリンや、この男の子供が難を逃れることができるのなら。
たとえここで死んでも本望だと思った。
多分、その思いは“あの子”に重なっていて。
おかしな話だが、これで、あの子を救えるのだと、どこかで思ってしまっていた……。
「っアルマン!」
振りかぶった手からは血のしずくが方々に飛び散った。
だが、その刹那のことだった。
グステルの脳裏に、ある声が蘇る。
──絶対に危険なことはしないでください……!
そう言って、今生の別れのように悲痛に顔を歪めていた青年のことを思い出した。
その瞬間、グステルはハッと自分の過ちに気がついて愕然とする。
捨て身でも、絶対にこの男を下すと心に誓ったが。
自分がを狂おしいほどに“あの子”を守りたいと願うのと同じく、自分が死ねば悲しむ人がいるのだと。当たり前のように思えることを、彼女はこの間際で初めて実感した。
──悲しませてしまう!
怒りに満ちていた心に、その想いが突き刺さる。
冷静でいたつもりが、頭に血が上りすぎていた自分を悟り、グステルは息を呑んだ。目の前に、白い輝きが迫っていた。
「っ!」
咄嗟に身をよじり、辛く床のうえに倒れこんだ。
危うく顔面を貫かれるところをかろうじて避けたが、それでも差し出された刃を避けきれず、頬にチリ……ッと、焼かれるような痛みを感じた。
しかし息をつく間もなく、そこへ気のふれたような怒号が降り注ぐ。
「ペテン師が! 死ね!」
「!」
アルマンの振りおろした刃が、黒衣を貫いた。




