114 記憶の中の少女
グステルだって怖かった。
アルマンは、理性や、憐れみからくる慈悲といったブレーキを持たず、人を傷つけることをなんとも思ってはいない。
たった一度顔を合わせただけの、他人にすぎない彼女を踏みつけるときも、その目にはわずかなためらいも感じられなかった。
男女の別もなく、相手が自分より遥かに年若であることも、この男には関係がないようだった。
こんな人間の前に放り出されれば、恐怖を感じて当たり前だ。
それは、転生者であっても関係ない。
(……でも)と、グステルは硬い床の上で拳を強く握り締めた。
それでも人は、時にそんな生存本能とも言える感情を凌駕するものを持ち合わせる。
この時アルマンの非道さの前で彼女を動かしたのは、転生してもなお記憶の中に留まる小さな女の子の姿だった。
あどけない顔をして、背丈は大人の半分ほどしかなく、手足はふっくらと柔らか。黒い瞳はくりくりとまるく、髪は自由奔放なくせっ毛。
表情は笑ったり、泣いたり。無垢な感情がそのまま溢れる姿には、時に振り回されもしたが、見ていて飽きるということがなかった。
幸せの塊にしか思えないその姿は──しかし、今のグステルにはいつでも身を刺すような寂しさと恋しさを与え、手の届かない苦しみを与えた。
──最後まで守ってあげたかった。せめて独り立ちできるまででも。
けれど、魂と世界の壁に阻まれて、きっと、もう二度とその姿を見つめることは叶わない。
それを思うと、グステルは今でも気が狂いそうなほどに悲しいし、血の涙が出そうなほどに泣ける夜もある。
そんな時はいつでも飼い猫のユキに縋り、『……きっと元気だ』『もう別の人生だから仕方ない……』と自分をなだめてくるしかなかった。
でももし、今、あの子の行く末がどうなったのかを知ることができるのならば、グステルは、きっとすべてのものをなげうつだろう。
そんな想いを抱えて生きてきた彼女だからこそ。
アルマンが鬼にも勝るような非情な言葉を吐いたとき、彼女は燃えるように怒った。
言うなれば、それはグステルの逆鱗で。子供を害する人間は、誰であろうと許せない。
──いや、彼女にも分かっている。アルマンの言った子供は、彼女が記憶の中でいまだに大切に想う少女ではない。
それでも、どうしても重なるのだ。
その子供も、ヴィムや街の子供たちを見ても。いつも忘れることができない。
だから今、アルマンのその蛮行を止めるためならば、これまで執着してきた“ぬいぐるみ屋のステラ”という自由な身分も、それを得るために生きた十年近い年月も、捨てることは容易く思えた。
そもそも天秤にかけて迷うこと自体がバカらしい。
グステルは、自分にのばされた男の手を猛然と跳ね除けた。
「──お前は仮にもこの家の執事でありながら、この家唯一の娘たる私に逆らおうというの?」
その問いで、この男が態度を改めるとは思っていない。だが、少なくとも戸惑いを与え、隙をつくることは絶対にできる確信があった。
可能ならその隙を突き、この男とここで刺し違えてやろうと思った。
男たちは明らかに悪事に慣れている。庶民暮らしの自分が下せる相手とは、はなから考えていない。
当然容赦なく反撃はされるだろうし、そこで受ける痛みは耐え難いものとなるに違いない。
(……でもきっと、それは自らの親に命を弄ばれる子供の苦しみには及ばない……)
ずっとずっとマシなはずだとグステル。
その危機感とも言える思いを腹に据えた彼女は、憤然とアルマンを睨みつけた。
視線の端では、反撃に備えて室内にある道具に意識が巡る。アルマンが手にしている短刀、その配下が持っている長剣、部屋の片隅に転がっている金属製の蝋燭立ての鋭い軸、ガラスの酒瓶……。
相手より自分が非力だとは分かっているからこそ、何を使ってでも、どんな凄惨なことになろうとも、彼女は男を止める気でいた。
一太刀でも与えてやれば、自己中心的な発言の目立つアルマンのこと。一番可愛い自分の身の危機に、あっさり子供のことは忘れる気もする。そうなってくれれば、哀れな母子をこの男から遠ざける時間も生まれるだろう。
そう考えると、目の前の男を傷つけることへのためらいは消えた。
彼女は普段は善良な性質だが、自分の欲望のために無垢なものを害するような人間には、慈悲をかけようとはさらさら思わなかった。
──これは彼女自身は気がついていなかったが……彼女は今が今生で一番“悪役令嬢”然とした表情をしていた。
憎むべきものを憎み、己の勝ち取ろうとするものに対する強い執着を見せ、絶対に引かないという気概が全身から炎のように噴き出ている。
そして、そんな並々ならぬ彼女の覚悟は、対峙する男たちにも伝わったようだった。
彼らは揃ってぽかんとふぬけた顔でグステルを見ていた。小娘の急な反撃に驚き、その気迫に困惑し、まだ彼女が口にした名前にすらピンときていない。
そんな男たちに代わり、ずっと部屋の端で呆然としていたロイヒリンがグステルを見つめながら、ぽつりとつぶやく。
「……グステル、お嬢様……?」
長く公爵の手伝いをしていた商人は、公の娘の幼い頃を知っている。
もちろん令嬢と商人、しかもその父親の愛人の世話をしていた彼は、あまり本妻の娘とは関らず、たまに姿を見かける程度のことではあったのだが……。
しかし、エーファと名乗っていた娘が、その黒髪のカツラを捨て去って、彼女の本当の色彩が露わになった時。男はとっさに、昔自分が罪悪感を持って見つめた赤毛の少女の利発そうな双眸を思い出した。
昔は、あの瞳が苦手だった。
彼が浅ましい考えで公爵の手伝いをしていることを、彼女の幼い瞳には見透かされているような気がして。
そして現在、その瞳は再び彼の前に現れた。
怒りに燃えて勇ましくアルマンを睨んでいる大地の色の瞳を、ロイヒリンは呆然と見た。まさかという思いに、思わず喘ぐ。
しかし赤毛のかかった横顔は、脳裏に蘇った少女の面影と目鼻立ちが完全に一致。男の胸に──そうか……という気づきが刺さる。
公爵に、嫡男に似ていてるのは愛人の子だからだと思っていた。だが、そうではなかった。なぜ気がつかなかった、似ていて当たり前だ。いや、それどころか、奥方の目にもそっくりではないか。
ロイヒリンはその場で絶句。
全身に鳥肌が立って、震える身体がうまく動かすことができなかった。
「──アルマン」
ロイヒリンが息を呑んで見守る前で、グステルはアルマンを冷淡に呼び捨てる。すると、男たちが目に見えて動揺した。
彼女は冷ややかに顎を上げ、暗澹と男を睨みつけた。
「お前は勘違いしている。お前が“権力”と考えているこの家のものは何一つお前のものではないし、同じくお前の子もお前の所有物ではなく、貴様が軽々しく生命を脅かしていいものではない!」