111 脱出路と、年長者的責任感
娘が静かに憤慨しながら埃まみれで寝台下から出てくると。続いて、先ほどアルマンが手をかけていた大箪笥の扉がゆっくり開き、中からエドガーが姿を表した。
「いやぁ……肝が冷えましたが、無事やり過ごせましたね」
言葉の割に、楽しげに出てきた男は、しかし手にはしっかり長剣を握っている。これは先ほど気絶させた見張りから彼が奪ったものである。
そんな青年の後ろには、公爵の姿もあった。公はいくつかの衣装を被せられ、窮屈そうに座っている。
まさに、間一髪だった。
つい先ほど。彼らは部屋を脱出しようとしたところで、遠くから近づいてくる騒々しい足音に気がついた。床を蹴る音は幾重にも重なっていて、遠くからでも人数の多さがうかがえた。
それで彼らは咄嗟にそれぞれ身を隠したのだが、見つからずにすんで本当に良かったとエドガーは抜き身の剣を鞘に戻す。
危うく刃傷沙汰である。
だが、腕に覚えのあるエドガーでも、二人を守りながら複数の人間を相手にするのはいささか骨が折れる事。「しかし……」と、青年は難しい顔。
「思ったよりも早く発覚してしまいましたね?」
彼らの予想では、火災の火元を探しに出た者たちはもっと手間取ると思っていた。公爵家の客間は百もありそうなほどなのである。
と、青年の問いに、黙り込んで顎に手を当てていたグステルが、不意に硬い顔で父に問うた。
「……それでお父様、“領主の道”はどこですか?」
聞くと父は頷いて、痩せた指で箪笥の奥を探った。
「この箪笥は奥の板が外してあってな、壁に細工があるのだ。……君、すまないが、そこにある机をどかして絨毯をめくってくれ」
公爵はエドガーに頼み、青年が言われたとおりにすると、箪笥の奥でグッと何かを引く。と、すぐにガラガラと鎖が引き摺られるような音がして、続いて彼らの足元で何か歯車が回るような小さな振動が響く。するとエドガーが場所を開けた床の板がスライドし、そこに、ぽっかりと大きな四角い穴が現れた。中には闇の中に降って行く階段が。下を覗き込んだエドガーが、興味深げに目を丸くする。
「ほう、面白いですね。こんな仕掛けがあるんですか……」
「私も初めて知りました」
この階段から続く脱出路のことは、代々のメントライン家の当主しか知らない。グステルも、先ほど父から聞かされたばかりである。
父によると、戦のある時代を経験した大きな城には、大抵主人が敵に攻め込まれた際に使う秘密の道というものが確保されているらしい。そして、その存在は当主だけに受け継がれる。
「この道を行けば、領都の地下道に続いていて、辿れば行けば領都の城壁の外にも出ることができる」
言ってグステルの父は、エドガーをチラリと見た。その瞳は、彼が公爵であるということを改めて思い出させるような鋭い、どこか厳格な目つきであった。視線の意味を理解して、エドガーは公に恭しくお辞儀をする。
「固くお約束いたします。我が家名にかけて、必ず秘密は守ります」
青年のわきまえた態度に、公爵は深く頷いた。
と、そこで、不意にグステルが二人に思わぬことを切り出した。
「エドガー様、申し訳ありませんが……父を連れて先にここから脱出していただけませんか」
「え?」
その申し出には、さすがのエドガーも驚きと戸惑いを見せた。彼の後ろの公爵も同じである。
「ステラ……? いったい何を……」
父が困惑の表情で尋ねるも、娘の顔は硬い。
グステルは、先ほどアルマンが吐き捨てていった名を聞き逃してはいなかった。
「……どうやら……お父様と私の再会に尽力してくださったロイヒリン氏が、アルマンに拘束されてしまったようです。おそらく何か……気取られるようなことを漏らしてしまったのでしょう」
そうでなければ、直ちにその者と、公爵が消えたことがアルマンの頭の中で結びつくはずがないとグステル。
「……であれば、彼が危ない。放っては置けません」
「ロイヒリン……? 商人のエムレ・ロイヒリンか……?」
父はその名前に覚えがあったようだ。グステルは、あくまでも落ち着いた様子でしっかり頷いた。
「私は彼のところに向かいます。お父様は、エドガー様と先に脱出してください」
その宣言に、父は目を丸くして首を激しく振り、エドガーは目を細める。
「……君が行ったところで、大勢の男を相手にロイヒリンを助け出せるとは思えませんが」
あえての冷たい口調での忠告だったが、グステルはけろりと返した。
「それは考えます」
「…………」
平然としたグステルの顔には、エドガーが厄介なものを見る目で眉を持ち上げる。
きっぱりとした口調は意思が硬い。まるで、頑固で老獪な老大人でも相手にしているようだと、エドガーは思った。そして困り果てる。友のためにもこの娘を無事に連れ出さなければならないが、今彼女を説得して連れ出すのはかなり骨が折れることのように思われた。青年は苦々しく言った。
「……ステラさん……困らせないでください……」
「その通りだステラ! 私はお前をおいていくくらいならここに残る!」
父も必死にグステルを説き伏せようとするが、グステルはあっさり首を振った。
「大丈夫ですよ。お父様たちが先に脱出してくださり、領都の駐在所の兵を動かしてくださればいいだけです。むしろ私が囮になったほうが、お父様は脱出しやすいはず」
城下の街には、領都の治安維持のための部隊が駐在している。
もちろん彼らは領主の命令で動くのだ。いくらアルマンが悪賢かろうとも、さすがに兵部までは手中にできるはずがない。公爵が彼らに命じ、邸に踏み込んでくれれば、グステルたちはなんなくアルマンたちを取り押さえられるだろう。
「大前提ですが、私の中にロイヒリン氏を見捨てる選択肢はありません。絶対に」
言い切るグステルの頑なな目を見て、エドガーは頭に、民を勇敢に守ろうとする女王を思い浮かべ……父は(さすが公爵家の血筋……!)と胸を熱くした、が……。
実の所、グステルがこの時考えていたのは、いつもの通り(よその若者を犠牲にするわけにはいかない)という年長者的責任であった。転生者の彼女からすれば、中年のロイヒリンですら若者なのである。
「しかし……我々が間に合わねば……」
それでも父は悲痛な顔で。それがどうやら自分を案じているらしいと知って、そんな父の様子に慣れないグステルは、どこかくすぐったい思い。少しぎこちなくその痩せた手を握った。
「大丈夫、たとえ捕らえられても、アルマンたちもさすがに私をすぐ殺めようなんてことまではしないはずです。彼らはお父様の行方を聞き出そうとするはずで、私が何者で、なぜこんなことをしたのか知りたいはずですからね」
言って父の手をなでさすり、グステルはエドガーを見る。
「行ってくださいエドガー様。父をすぐに、確実に安全なところに連れていって欲しいんです。アルマンたちに父が押さえられては、私も動きようがない」
父の安全を確実にするためには、エドガーにロイヒリンのところへ向かってもらうという選択肢はなかった。
グステルでも今の父はかつげるかもしれないが、明らかにエドガーのほうが腕力も機動力も勝る。
彼女がもたもた父を運んでいて、途中でアルマンたちに捕らえられれば、親子は引き離されて、父は寝台に逆戻り。グステルは捕らえられ、そうなれば、エドガーだって二人の命を盾に取られたようなもので、無事で済むとは思えなかった。
全員が無事であるためにも、父を確実に外に出すしか方法はないのである。
「私はなんとか粘れます」
その言葉の中には、もし拷問されても、という覚悟が潜められていた。
もしグステルが痛めつけられても、多少怪我をしても、父らが兵と共に戻りさえしてくれたらこっちの勝ちである。
大丈夫です、と、グステルは繰り返し、何か悪い企みでもありそうに目を細める。
「アルマンに怯えたふりして、盛大に誤情報を流してやつらを振り回してやります! ……あ、それとお父様にお願いが。兵はぜひ秘密裏に動かしてください。できるだけ外部には騒動が漏れぬように」
私、まだ令嬢暮らしに戻る気はないので、と、グステルは、ニッコリ二人に微笑んだ。
……要するに……。
自分が公爵の娘だとは知られたくないという意味なのだろう。
その清々しく飄々とした様子には、エドガーはまた呆れ果てる。しかし困ったことに、彼女の様子はあまりにも頼り甲斐があるように見えすぎる。大丈夫だと顎を上げて誇らしげに宣言されると、つい信じてしまいたくなる力強さがあった。
エドガーは苦悩して額を手で覆った。
「ああ……ヘルムートに殺される……」
その名に、グステルの目がほろりと和らいだ。
「……大丈夫ですよ。ヘルムート様は、きっと私が本気で決断したことは否定なさらない」
なんだか妙な確信があった。
その姿を思い浮かべると、心が温かく、全身に力が行き渡り、勇気づけられるようだった。
でも、そうですね……と、グステル。
「あの方を悲しませないためにも、私は私のこともしっかり守ります。だから、大丈夫」
力強く、行ってくださいと言って、グステルは父の手を離し、二人のそばを離れた。
駆け出すと、後ろから追い縋ってくる声は聞こえたが立ち止まらず。一度だけ、扉のところで父に見せるために戯けたようにクルリと回って笑った。
……いってきます
そう、昔家を出たときには言わなかった言葉を、心の中でだけつぶやいた。
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