保健室
こういう時、普通の家庭に生まれていたら、と思う。
いくらかは誘拐される危険性が減るんじゃないだろうか。過敏に反応することも、周りの人を疑うことも。
こんな時、お父様や赤い髪の子のように力があれば、また違うのだろうけど。
実際の僕は、めまいにふらつきながら保健室にたどり着き、ドアをノックするくらいしかできない。情けない。
中から「どうぞー」と早川先生の声がした。
引き戸を半分まで開け、「失礼します」の「す」まで言い切らないうちに、僕は手と、おまけに足もすべらせた。
「うわっ」
文字通り転がるようにして、保健室に入室。
「あいたた……」
頭を押さえて目を開けると、そこに先生がいた。
紫の長髪をハーフアップにして、眼鏡をかけた男性――早川先生がにやりと笑う。
「相変わらずのドジっ子……ダイナミックな入室ねぇ、高山君」
「はは……」
もう笑うしかなかった。
先生は僕を気遣い、ベッドに寝かせたまま傷の手当をして、酔い止めの薬もくれた。
「高山君は相変わらず身体が弱いわね。
一回吐いて楽になっとく?」
「いえ、横になったらマシになったんで……。
もうすぐホームルームの時間ですし」
僕はそろそろと起き上がる。うん、教室で座っておく分には大丈夫そうだ。
「真面目ねぇ。
困ったことがあったらいつでも遠慮しないで言うのよ」
早川先生は女性らしい言葉遣いで優しく微笑む。
「困ったこと」。
そのワードに、頭の中を駆け巡るものがあった。
誘拐されそうな不安、自分の自信のなさ、お父様からの重圧……そして周りにも警戒せざるを得ない、この状況……。
どれもこれも話せそうにない。
「ありがとうございます。大丈夫です」
先生は肩をすくめ、「難儀ねぇ、お金持ちのお坊っちゃんっていうのも」と言いながら開け放たれた入り口に目をやった。先ほど引き戸を閉めようとしたのを僕が止めたのだ。
申し訳ないけど用心のため。今は密室も怖い。
優しい先生は、そこには言及しなかった。
保健室を出る。薬が効いて、早足でも歩けるようになっていた。
時刻は八時半前。もうすぐホームルームが始まる。
――用心しないと。特にいつもの状況と違うことには要注意。
改めて自分に言い聞かせる。
例えば、臨時の先生とか、見慣れない学校スタッフ。
それに、転入生。
「どうか何事もありませんように」と胸のうちで祈る。