思い出の子
「結局、護衛をつけて一日過ごすのか……。
しかし今日くらい、僕は学校休んでもよかったんじゃないか。なぁ、悦治」
バックミラーの中で、眼鏡をかけた初老の男が目を細める。
「学業は坊っちゃまの大事なお仕事ですからね」
執事の宮澤悦治は巧みにステアリングを切りながら毎日違うルートで送迎してくれる。黒塗りの車は防弾車で、僕は安心して座っていた。
「学校に行って、護衛に守られ、帰ってくる。
それだけのことでございます」
平然と言い放つ。僕ははぁ、と本日何度目かのため息をついた。
「それにしても、風又三郎左衛門とはねぇ……。
すごい名前だな」
車窓の外に目をやる。今日は晴れているけど風が強い。街路樹が台風の時みたいに揺れている。
その風景を見て、僕は思い出した。
「悦治、覚えてる? 僕が誘拐された時のこと」
「ええと」
即答できないのは、思い当たる件が多すぎるからで。
僕はヒントを出した。
「小学校入ったばっかりの」
「坊っちゃまが入院中の時のことでございますね」
「そう。退屈してた僕は病院から抜け出して、公園で遊んでた。そこで誘拐されて……港の倉庫街で発見された」
「あれは不思議な事件でした。私どもが駆け付けたときには、犯人の男共は倒れ、坊っちゃまは『赤い髪の子が風で助けてくれた』とおっしゃって……」
そこで僕らはバックミラー越しに視線を交わす。
「まさか」
「いや、名前に風が入ってるからってそうとは限らないけど」
「該当する子供は見つかっておりません。『風で助けてくれた』というのも、当時のアニメの影響かなにかだったのだろう、という話になりました」
「……」
「しかしそれが本当なら、坊っちゃまの命の恩人でございますね」
「……ああ」
たまに夢に見る。
まるで強烈な嵐のような、赤い髪の子。
「ぜったい、ゆるさない!」
「いっちゃんを、かえせ!」
こちらを見据える強烈な視線、強い言葉。数年経っても覚えている。
僕にはあんな言い方はとてもできない。
あんな風にはなれっこない。
だからこそ、頭に残っていたんだろう、そう思っていたら。
悦治が爆弾を落としてきた。
「そういえば、あの後しばらく『赤い髪の子と結婚する!』とおっしゃっていましたね」
「ぶふっ!?」
僕は盛大に噴き出した。
「け、けけ……結婚!?」
顔が赤くなるのが自分でもわかる。
「誘拐事件の後、坊ちゃまは『あの子はどこにいるの?』としきりに聞いてこられまして……。
潤んだ瞳で『もっと一緒にいたかったの。結婚すればずっと一緒にいられるんでしょう? あの子と結婚したい!』とおっしゃってました」
「そんなこと……言ってたんだ」
両頬を押さえる。熱い。
バックミラーの中で悦治が目を細める。
「おや、そんな反応をされるとは。子供の頃の言葉でしょう」
「……そうだけど」
僕はこの顔で注目は集めるけど、彼女がいたことはない。
皆、「今日も推しが美しい……」「全瞬間の画像を脳内保管したい」「見ているだけで幸せ」と遠巻きに見ている感じで。
もちろん人並みに恋人は欲しい、恋に恋するお年頃なのだ。
だけど、色々すっとばして結婚、だなんて。
「ませてるなぁ、小さい頃の僕……」
「お顔が真っ赤ですね。あの頃も今も、一郎坊っちゃまは大変に可愛らしい」
ふふふ、と悦治は笑う。
「からかわないでよ……」
ああもう、早く学校につかないだろうか。
その時、後ろから走行音が近づいてきた。
振り返る。大型バイクが数台、猛烈なスピードで追いかけてくるのが見えた。
「――悦治」
「お客様のようですね。失礼いたします」
ギュルルルル!
タイヤが唸りをあげる。
車はスピードを上げ、あっという間にカーチェイスが始まった。
バイクの男たちが怒号を上げる。「逃がすか!」「追え!」とでも言っているのだろう。
「坊っちゃま、しっかりおつかまり下さいね」
「……ああ」
僕らはこうやって追われるのに慣れっこだ。だが、今日は予想よりしつこい。
「……数が多いですね」
「僕が鍵だって、情報が漏れたんだろうか」
「そんなことはない、と思いたいですが……」
悦治がハンドルを切り、脇道にそれる。右に左に、走り回ることで、バイクを一台、二台とまいていく。
しかし。
僕らの行く手を塞ぐように、次々と車が現れる。
「新手でございますね。坊っちゃま、シートベルトは」
「してるよ!」
必死の思いで声を出す。
映画のように、なんでもなさそうに切り抜けるのがかっこいい、とわかってはいるけれど。体が弱いことには定評がある僕はそうもいかない。後部座席に押し付けられる重力を感じながら、揺れる車の気持ち悪さと戦っていた。
うう、かっこ悪い。
「おっと」
その声に目を開ける。
いつの間にか車は首都高を走っていた。しばらく先が渋滞している。後ろから迫る追っ手。
このままでは、追い付かれる。そして何より。
「……悦治」
僕は限界だ、吐きそう、と伝えようとしたのだけれど。
「お任せください」
悦治はアクセルを思い切り踏んだ。
執事の愛車はブゥン、と唸りを上げてそれに応える。
そして車は渋滞の車にぶつかる直前、横に傾いた。
「うわぁぁあ!?」
窓の下に、道路が見える。
目を白黒させる間に、渋滞する車の隙間を縫って車は傾いたまま走り、追っ手を置いてけぼりにしていく。
やがて、渋滞を抜け、傾いていた車体はやっと元に戻る。速度も落ち着いてきた。
「だいぶまきましたかね。もう少しで学校ですよ」
執事はニコニコと笑う。
「僕、家に帰りたい……」
喉元まで上がってくる吐き気をどうにか抑えながら、僕はぐったりしていた。
「さすがにもう追ってこないだろ……」
へろへろになりつつも、僕はリアガラスから後方を見る。安心しようと思って見たのだけれど、まだ追っ手はいた。バイクが三台。
「うわっ、まだいる!」と僕が言ったのと、
「おや?」と悦治がつぶやいたのはほぼ同時で。
「今度は何!?」
慌てて前を向くと――逆光の中に人影があった。
空いてきた道のど真ん中。中央車線をまたいで、腕組みして立っている。
フードをかぶっているのでよく見えないが、シルエットからして女性らしい。
「危険な印象はありません。護衛かもしれませんね」
ひとまず避けます、と悦治が言うのもどこか遠い。僕の目は彼女に吸い寄せられている。
あれから何年も経っているのに、予感があった。
もしかして、あれは――。
車は微動だにしない彼女の脇をすり抜ける、その一瞬。
目があった。
フードからわずかにのぞく髪は赤く、鋭い目も赤い。
綺麗、だった。
彼女は僕を一瞥した後、視線を前へと戻す。
そこには、バイクがやってくるはずで。
成り行きを見届けようとするも、車は首都高出口へ降りつつあった。
緩やかな傾斜と共に、彼女の姿は見えなくなった。
だけど。
どっどど どどうど どどうど どどう
あの風の音が、聞こえた気がした。