離れる心
「はい、一郎です」
『首尾はどうです?』
「順調です」
『結構。4時半の迎えまで護衛をつけています。うまく使うように』
「お父様、そのことなんですが……」
お父様の地声は大きい。会話を聞かれたくなくて、僕は庭園入り口まで歩き、風香さんから距離をとった。
通話が終わるまで、律儀に彼女は背を向けていてくれた。
表情はもちろん、読み取れない。
「……電話、終わったよ」
風香さんの元に駆け寄ると、「ああ」とそっけない返事が返ってきただけだった。今日ずっと迷いがなかった彼女の目が泳ぐ。
静かになると、校庭から生徒達が遊ぶ声が聞こえてくる。
さっきまであんな風に楽しい雰囲気でお弁当を食べていたのに、この重苦しい空気。僕はさっきの刺客を恨んだ。
「化け物」なんて、あいつが言わなければ。
やがて彼女は口を開く。
「……さっきの話、本当か? 私がお前を助けたことがあるって……」
「本当だよ。覚えてない? 小学生の頃、僕は君に助けられたんだ。
病院を抜け出して、公園で君と遊んだ。その時誘拐された僕を、君は追いかけてきてくれて、悪い男達を今日みたいにやっつけてくれたんだ」
風香さんの目の色が変わる。
「お前……『いっくん』か?」
「思い出してくれたの?」
目の前がぱぁ、と明るくなる感覚があった。
「僕はずっと、君にお礼を言いたかったし、そばにいてもらいたかったんだ。
お父様が言うんだ。僕は弱いから、良い味方をつけなさいとか、周りをうまく使いなさいとか。
だけど僕は『使う』なんて考えてなくて」
「そりゃお前の親父さんが正しい」
言いかけた台詞は、鋭く遮られた。
「風香さん……」
「どうせあと数時間。うまくあたしを使えばいいんだ、この化け物の力を。
それでお別れだ。
お前とは、住む世界が違うんだよ」
「僕、そんなつもりじゃ……」
彼女はパーカーを着て、フードを被る。
横顔すら見えなくなった。
「行くぞ。あと3分で授業が始まる。
お前にちゃんと勉強させるのも契約のうちだ」
風で散乱していたお弁当箱を拾い集め、手早く包みなおし、彼女は先に歩き出した。
速い歩調、他者を寄せ付けない勢いで。
僕はとぼとぼと、その後に続いた。
おいしい昼食を食べたはずなのに、鉛でも飲み込んだような胸のつかえを感じていた。