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籠の外のカナリア  作者: null
二章 風を待つカナリア
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風を待つカナリア.3

『約束』って言葉は、それだけで素敵な感じがしますよね。


それでは、お楽しみください。

 ドクン、とこれまでにないくらい、心臓が強く鳴った。


 ――踏み込まれた。汚れと後悔に満ちた私の聖域に。


 きっと、悪魔だってここまで平然と土足で入って来ないだろう。そう思えるくらい、真宵の顔は冷血に見えた。


 ガタン、と木の椅子が動く音がした。何事かと思ったら、動揺した私自身の足が、椅子に引っかかった音だった。


 こめかみを走る血流が、時を刻むみたいに拍動する音を聞きながら、何とか言い訳の術を探すも、畳み掛けられる真宵の言葉に、それすらできなくなる。


「一応、忠告。余計な言い訳はしないこと。本当、無駄だから。それと…、ああいうのって、同族が見るとすぐに分かっちゃうから、気をつけたほうがいいよ」


 先程までの、叱られた子犬みたいな態度はどこへ行ってしまったのか。今の真宵は、傲岸不遜とした、あの日、初めて出会った葉月真宵と同じ顔をしていた。


「…」言葉を失い、俯く。


 規則的にみっちりと並んだ木の板の隙間に、逃げ場のない自分の行末を連想し、憂鬱となる。しかしながら、真宵が呟いた、『同族』という言葉に、ほんの少しではあるが安堵したのもまた事実だ。


(本当に、女の人が好きな、女の人なんだわ…)


 親近感、などというチープな言葉では、その安らぎは表現できない。


 何もかもが焦土と化した不毛の地で、やっと見つけた他の生命の痕跡…というと、さすがに大げさだろうか。


「それじゃあ、聞いてくれるかな?莉亜」

「…それしか、私に許された選択肢はないんじゃない」

「んー、可愛げないけど、しょうがないか」


 真宵は笑ってそう言うと、小さな動きで私を手招きして呼んだ。秘密の共有を図るときの動きだ、と漠然と考える。


 仕方がなく、真宵のそばに近寄る。ちょうど、彼女の反対側の席に身を乗り出して座る感じだ。


 ふわり、と金木犀に似た彼女の匂いがする。それだけで背徳的な感じがしたし、耳から何か注ぎ込まれて、下劣な思考を埋め込まれているような気がした。


「耳貸して」とさらに近づくよう、真宵が要求する。「ここからでも、十分聞こえるわ」

「いいから、ね、お願い。他の子に聞かれたくないの」


 小首を傾げる真宵に従い、片耳を寄せる。すると、彼女は手をメガホンみたいにして私の耳に連結すると、ぼそぼそとした口調で言った。


「私、莉亜の絵が描きたいの」


 鼓膜をくすぐる言の葉が、酷く卑猥に感じられた。


 ぞわりとした電流が、背筋を駆け上がるのを自覚しつつも、体を彼女から離し、不審がるような顔で相手の意図を確認する。


「どういうこと?貴方、もう私の絵を描いたじゃない。しかも、勝手に」

「あんなの、描いたうちに入らないんだよ」


 唇を尖らせた真宵は、淡々と説明を始める。


「きちんと用意して、莉亜を描きたいの。あんな、記憶の断片に縋り付くようなもんじゃなくて…、私の望む構図で、しっかりと、私と目が合ったままの莉亜で」

「え、ええ…!?」


 真宵が何を言っているのかは分からなかったが、彼女が発するパッションの旋律や脈動は、ひしひしと伝わってくる。その上で、私は顔を左右に激しく振った。


「む、無理よ!」

「何で!?」

「何で?あ、当たり前じゃない!恥ずかしいに決まってるわ!」

「えぇ、恥ずかしくなんてないよ。別に、ヌードになれって言ってるわけじゃないんだからさぁ」

「ぬ…」


 私はその単語を聞いて、完全に思考が停止してしまった。正確には、頭の中に美術の教科書などで見た裸婦画が、泡沫のように浮かんでは消えて、まともな思考が機能していなかったのだ。


 蛍光灯の白い光を吸い込む、透けるような青白い肌。


 どこか責めるような、恥ずかしがるような瞳。


 私が脳裏に描いた、その起伏に乏しいシルエットは、一瞬で見慣れた幼なじみのものに変わった。


 空想の中の視線に貫かれて、私はハッと我に返ると同時に、大きく咳払いをした。


 頭の中を覗かれたわけでもないのに、強烈な羞恥心を覚えていた。


 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、真宵は自分のテンポで話を進め始める。


「ねぇ、いいでしょ?」真宵が両手を眼前で揃え、拝むようにお願いしてくる。「絵を描かせてくれたら、絶対に色々と黙っておくからさぁ、お願い、莉亜」


 色々…、と頭の中で反芻する。


 過去という名の墓標を立てることが出来なかった、水姫への想い。


 なかったことにしたい、真宵との交錯。


『散り桜』とか言う、無礼極まりない作品。


(…最後のは黙っておくのではなくて、燃やして灰にしてほしいけれど…)


 私は大きく、今日何度目かのため息を吐いた。


 どうせ、真宵の言うことを聞かざるを得ない状況だ。無理難題を押し付けられているのであれば、全力で抵抗する気力も湧くものの、彼女の提案は私がちょっと我慢すればやれてしまいそうな、絶妙なラインのものだった。


 美術準備室の窓の向こうからは、美術部員が騒いでいる音や、おそらく、片付けをしているだろう音が聞こえてくる。


 ぶら下げられている古臭い時計の針は、最終下校時刻の三十分ほど前を指していた。


「…本当に、黙っておいてくれるのね」


 ほぼ承諾を意味する私の言葉に、真宵はぱあっと破顔する。


「うん!もちろん!」

「嘘吐いたら、絶対に許さないわよ」

「やだなぁ、嘘なんて吐かないってば」

「はぁ、どうだか…」脅しつけるような言葉にも飄々と応じる真宵に向けて、肩を竦めて続ける。「分かりました。葉月のお願い、引き受けます」


 それを聞いて、「やったー!」と子どものようにはしゃぎ回る真宵に、「ただし、本当に絵のモデルになるだけだから」と念押しするも、暖簾に腕押し。彼女は聞いているのか聞いていないのか定かではない相槌を打ちつつ、席を立ってくるくると回った。


 傘みたいに広がる真宵のスカート。白と赤のラインが回転に巻き込まれて、不思議な形を描く。この行為に、一体どれだけの意味があるのかは私には分からない。


 真宵はハイテンションのまま荷物の片付けを行った。鞄を片手に準備室を出る頃には、すでに他の部員たちの姿は消えていた。


 真宵が戸締まりをしている間、私は外の様子を見るフリをしながら、ふらりと、『散り桜』の近くまで移動した。


 キャンパスの中で、風の中を舞う桜吹雪を追い抜くみたいに駆けている私は、涙の軌跡を残し、今にも絵の枠の外側へと逃げ出して行きそうだ。


 ひと目見て、『逃亡している』ことが伝わってくる、この言葉にならない悲壮感は、見る者に書き手の豊かな表現技法を嫌でも知らしめている。


 それにしても、自分はこんなに綺麗だっただろうか。


 多少の誇張があるとしても、さすがに本物から乖離し過ぎている。


「気に入ってくれた?それ」と片付けを終えたらしい真宵が、鍵をくるくる指先で回しながら問いかけてくる。「別に…、こんな日、思い出したくもないもの」

「そりゃそうだ」


 愉快そうに笑う彼女の神経を疑いたくなって、私は真宵のほうを振り向く。


「叶う見込みのない恋心なんて、抱くだけ傷を増やすだけだもんね」


 詩的な言い回しを聞き、真宵がふざけているのかと思った。しかしながら、彼女は憂鬱そうな面持ちをしており、むしろ、どこか私のことを気遣う素振りさえ見せた。


 その言葉に返事も出来ずに、真宵の後を追う。鍵のシリンダーを回したあたりで、彼女が言う。


「じゃ、今週の日曜日は画材の買い出しに駅前の商店街まで行くから、デートついでによろしくね」

「は?」きょとんとして呟く私の声を無視して、真宵は昇降口へと歩いて行く。「ちょっと待って!どうして私が――」

「どうしてって、絵を描くのって、画材選びからスタートだからだよ」

「そんなの、説明してなかったじゃない!」


 真宵は私の必死さを笑って受け流して、そのまま足を進め続ける。


 それだけ私が必死になるのには、理由があった。


 もちろん一つは、そんなお願いまでも聞き入れたつもりがないから。


 そして、もう一つは…。


「待ちなさいって!私、日曜日はもう用事が入ってるの」

「用事?」そこで初めて真宵は立ち止まり、こちらを見据えた。「うぅん、大事な用事なの?」

「そうよ」一拍置いて、私は答える。「ふぅん」


 人差し指を頬に当てたまま、ゆっくりと靴箱に近付いた真宵は、自分の棚からショッキングピンクのスニーカーを取り出すと、視線を足元に向けたまま言った。


「その用事が、日乃水姫と関係ないならいいよ」

「え、あ…」


 心のうちを読まれたような気がしてしまい、言葉を詰まらせる。それが駄目だった。


「ふふ、じゃあ駄目だよ。莉亜」


 夕焼けが、嘲笑を浮かべた真宵の頬を染める。


 透き通るようなオレンジの中、幽霊の細腕みたいな白メッシュが、きらりと赤光を跳ね返し、輝くのだった。

次回の更新は金曜日になります。

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