風を待つカナリア.1
二章の始まりです。
「水姫、あのさ――」
「何、なんか用」
不機嫌さを隠そうともしない水姫の声に、出かかっていた言葉が喉奥に帰ってくる。
そのまま口をつぐんで、水姫の膨れた顔を上から覗き込む。すると彼女は、自分の席から素早く立ち上がってバックから財布を取り出し、教室の出入り口まで早足で移動した。
中庭にある自動販売機にでも行くのだろう、と水姫の華奢な背中を見送っていると、弾かれたように、くるりと水姫がこちらを振り返った。
「もう!莉亜も来るの!」
「え、あ、はい…」
目くじらを立てた水姫にせっつかれ、慌ててその後ろ姿を追う。一方的な小言はあったが、言葉もろくに交わさないまま中庭に向かう。
ピンクと白の二色に色づいた見事な梅の下を通ると、メジロの愛らしい声が聞こえてきた。見上げれば、梅の花が引き裂いた春光に照らされ、目の縁を白く彩られた小鳥がいた。
「莉亜ってば!」
無意識のうちに立ち止まっていた私を厳しく叱咤する声に、驚いてメジロが飛び去る。
(もったいないことをするものね…)
嘆息を漏らすと、数秒も我慢できなかったらしい水姫が、ドカドカと足音を鳴らして近寄ってきた。
「莉亜、何してるの」
いくら愛しの水姫がすることとは言えど、こんなにも一方的に責め立てられるのは、さすがに我慢ならない。
「…水姫こそ、何をそんなに怒っているのよ」
「怒ってないし」バツが悪そうに視線を逸らした水姫が子どもっぽくて、呆れの混じった微笑が浮かぶ。「もう…、どうかしたの?」
こちらの雰囲気が柔らかくなったためか、水姫もほんの少しだけ相好を崩した。やがて、いたずらを指摘された子どもがするみたいに頭の後ろをかくと、私の隣に並んだ。
「最近、やたらと葉月さんと仲良くない?」ぎゅっと、水姫が両腕で抱くように私の左腕を取った。「どうでもいいけどさぁ」
梅の花の匂いと、水姫の甘い匂いが混ざり合って、くらくらする。
辺りがモヤに包まれたみたいに、おぼろげだった。
水姫が私の前に現れて、少しした頃から、こうした水姫の何気ないスキンシップや台詞にドギマギした。そこにありもしない意味を添えたことも、一度や二度ではない。
頬を肩に添えて、聞こえもしない声量でぶつぶつと何か言っている水姫は、じっと斜め前の地面を見つめていた。
そのふわふわした髪を上から見ていると、どうしようもなくかき抱きたくなる衝動に駆られる。
(あぁ…、まただわ。馬鹿みたい)
こんな愚かな勘違いを、あと何回、月と太陽が入れ替わったらやめられるようになるのだろう。
てっきり、水姫に恋人が出来たら何かが劇的に変わるものだとばかり思っていたが、実際は違った。
ヘドロみたいな未練は、どう頑張っても拭えはしない。
「そんなことないわ。ただ、一方的につきまとわれているだけよ」
「そうなの?」
くりくりした瞳が、下から私を見上げた。
「ええ、物好きなものよね」
「…困ってる?」と小首を傾げる水姫。「別に困ってはないけれど…」
否定の言葉の途中で、水姫の両腕に力が込められた。鮮烈になる柔らかい感触に、下劣な昂りを覚え、私は空いた手で拳を握り締めた。
「駄目だよ、莉亜。困ってるなら、困ってるって言わなきゃ」
少し怖い顔でそう指摘した水姫は、そのままの口調と表情で、葉月真宵について語り始めた。
「やっぱさ、葉月さんって美術特待生なだけあって、変人なんだよね。あ、私だけが言ってるんじゃないよ、変人で有名なんだって。授業も平気でサボったりするし、校則だってろくに守らないけど、学校側としては、学校の知名度さえ上げてくれれば、どうでもいいんだよねぇ、きっと。見て見ぬふりだよ、ありえない、本当」
水姫が口にしたように、葉月真宵は本学園唯一の美術特待生であった。
別に美術面で有名な学園でもないので、彼女がどうしてここに入学してきたのかは不思議だが、特待生の名に恥じぬ受賞歴を持っているとのことだった。
真宵の白メッシュや、最終下校時刻を過ぎても自由に美術室を使えるのは、その恩恵らしい。
それを聞いたとき、リアリストが支配しているこの世の縮図みたいに思えて、多少なりと鼻白んだのを覚えている。
それにしても、根っこが善良な水姫が人の悪口を言うなんて、とても珍しかった。
「…葉月さんのこと、嫌いなの?」
もしかすると、私を取られたようで嫉妬しているのか、と楽観的な考えがよぎったが、単純に異端分子を弾き出そうとしているだけだろう。
集団がもたらす、自然な淘汰だ。淘汰される側としては、嫌でもその執拗さを知っている。
私だって、日頃から寡黙で、背丈がでかくて威圧感があるためか、度々集団から弾き出された。
直接的な嫌がらせを受けた経験はないが、遠巻きに見ているクラスメイトたちの視線からは、明らかに自分を特別扱いしている様子が感じられるのだ。
「別に。なんか、苦手なだけ」
とにかく、聞いていて決して気持ちの良い内容ではなかった。ただ、水姫が一生懸命話しているから真面目に頷いていたが、最後に添えられた言葉に衝撃を受けて、それもできなくなった。
「しかも、葉月さんってソッチ系らしいよ」
「え?」
あまりに間の抜けた返答に、『ソッチ系』の意味が分からなかったと思ったのか、水姫は丁寧に補足した。
「えっと、ほら…、同性愛者ってやつ。女の子なのに、女の子が好きなんだって」
「へ、へぇ、そう、なの」
自分のことを指摘されているわけではないのに、胸が激しく高鳴る。絡め取られた両腕から、心臓の鼓動が水姫に伝わらないか、本気で心配だった。
「だから莉亜も、警戒しなくちゃ駄目だよ」
「私は、別に大丈夫よ。背ばかり高いし、目つきも悪くて、可愛げのない女だもの」
淀みなく言葉を紡げたのが、我ながら不思議だった。それほどまでに、気分は法廷の罪人の如く落ち着きがなかった。
「ほぅら、そういうこと言う。莉亜なんて、特に気をつけなきゃいけないのに」
「どうして?」
「どうしてって、莉亜、スタイルは良いし、顔も美人じゃん」
その言葉を聞いた刹那、ぶわっと顔が熱くなり、紅潮したのが分かった。それがあまりにも恥ずかしく思えて、とっさに両手で頬を覆う。
「そ、そんなことないわ、私なんて…」
「あーもー、心配だなぁ。そういうあざと可愛い仕草をやって許されるのは、莉亜が美人だからだよ」
「ちょっと、やめて…」
本気でやめてほしいと思って言っているのだが、水姫はなぜか嬉しそうに自分の頬を腕に擦り寄せていた。
こちらの話など聞く気もないらしい彼女は、やがて、大きなため息を吐くと、忌々しそうに眉をひそめた。
そんな敵意剥き出しの様相が水姫にしては珍しく、私は黙って彼女の出方を待った。
「…ホント、気持ち悪いよね。莉亜をそんな目で見てるなんて。許せないよ」
――気持ち悪い。
ずくり、と胸が抉られるような心地になった。
(そんな目で貴方を見ていたのは、私なのに)
春の日差しと、愛しの水姫に抱きしめられて、温かくなっていたはずの心と体が今にも震え出しそうになる。
水姫は、こちらの鬱屈とした想いなど知る由もなく、自動販売機のところまでそうして私を引っ張って行った。
「とにかく、葉月さんとはあんまり関わらないほうがいいよ」
器用に腕を組んだまま小銭を投入口に入れていた水姫の表情は、こちらが危惧していたほど冷徹ではなかった。むしろ、どこか明るい光すら見え隠れしているようだ。
ホッとしたような気持ちになった私は、自由なほうの手で、水姫の頭を撫でようとした。昔から、いつもやっていた仕草だ。水姫も、猫みたいに喜んでいたのを覚えている。
最近は、自分の役目ではないことぐらい心得ていたのでやらなくなっていたのだが、つい、無意識でやろうとしていた。
直後、水姫の体が声と共に離れた。
空を切る私の細く白い手の先で、水姫が声を高くして言った。
「わぁ、ヒロも飲み物買いに来たの?」
朗らかな声音で応対していたのは、水姫の彼氏であった。彼は紳士的にこちらへ頭を下げると、そのまま彼女の相手を続けた。
美男美女、とまではいかないかもしれないが、二人のことを羨望の眼差しで見つめる生徒が少なくないことも事実だ。それぐらい、両者とも異性からの人気が高い。
(…馬鹿みたい。いつまでも昔のままでいられると思っていた頃から、私は何も変わっていないのね)
先程以上に、胸が強く痛んだ。空気を奪われているみたいな息苦しさに耐えかねて、くるりと背を向ける。
ふと、校舎の二階の窓に人影が見えた。目を凝らすまでもなく、それが誰かが分かった。
(葉月真宵…)
真宵は私と目が合うと、静かな微笑を浮かべた。普段の軽薄な様子が偽りだと思わせるに十分なほど冷ややかだった。
何もかもを見通すような瞳が気に入らない、と睨みつける一方、自分と水姫の会話が聞こえていたのではないかと不安になる。
誰でも陰口を叩かれるのは辛い。まだ面と向かって言われるほうがマシだ。
自分は口にしていないものの、それでも、わずかばかりの罪悪感を覚えずにはいられなかった。
すると、真宵の顔がほんの少しだけ傾いた。首を傾げているのではなく、視線の位置を変えるような動きだった。
「莉亜」ぐっと、また体が引かれた。水姫だった。
彼女は、依然としてこちらを眺めている真宵を、射殺すような目つきで見上げていた。段々とおおっぴらになりつつある水姫の敵対心に、胸がざわつく。
「ほら、行こ。私の話、忘れたわけじゃないでしょ」
そう言って腕を引っ張られながらも、私は得も言われぬ嫌悪感で顔が曇るのを止められなかった。
(あの男を抱いていた腕で、私に絡みつかないでよ…)
振り返る二階の窓には、ぺろりと舌なめずりしている真宵の姿が見えた。
次回の更新は火曜日になります。