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籠の外のカナリア  作者: null
一章 禁断の果実
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禁断の果実.4

その気がないなら、触れないでほしい

 木の葉が風でざわめく音が聞こえる。春風が奏でる音に耳を澄まし、大きく息を吸い込んだ。


 四月の終わりらしい陽気に、無意識のうちに安堵の吐息が漏れる。うららかな日差しの元で過ごす昼休みの一時は、何ものにも代えがたいような気がした。


 フェンスの下に広がる中庭からは、春の行楽気分を味わおうという生徒で賑わう声と、梅の木に止まっているメジロのさえずりが聞こえてくる。


 梅や桜の香りを堪能できるとあれば、中庭が人気なのもおかしくはない。だというのに、私は誰もいない屋上で、コンクリートと風の匂いを友人に寂しく過ごしていた。


 いつもがいつも、こうしているわけではない。ただ、二、三日はこうして過ごしている。


 風が巻き起こす粉塵が弁当に入らぬよう、細心の注意を払いながら左手を動かしていると、正面の古い扉が音を立てて開いた。


「はぁ…」と渾身のため息を吐き出し、目をつむる。もはや、逃走したり、抵抗したりする気力は残っていなかった。


「あ!もー、やっと見つけたよ、莉亜」


 どんな思考回路をしていたら、この状況で呆れた声が出せるのか不思議だった。


「こんなところで一人飯?変わってるね、ホント」


 私は、辟易とした心地で目蓋を上げ、ツカツカと歩み寄ってくる迷惑千万の権化を睨みつけた。


「こんなところまで追いかけて来るなんて、頭がおかしいとしか思えませんね、本当」

「わぁお、辛辣ぅ」


 風で揺れる、白刃のような前髪を耳にかけつつ、真宵が隣に腰を下ろした。


「隣、座るけど、いいよね」

「もう座ってるじゃないですか…」


 ため息混じりにそう告げながら、この一週間のことを思い出す。


 葉月真宵。突風のような女だ。


 彼女が水姫と私の前に現れたその日から、かれこれ一週間、昼休みは彼女に追いかけ回されている。


 昼食は一人で食べる派だと適当な嘘を吐いても、どこ吹く風と、真宵は執拗に私の隠れ場所を探してきた。


 中庭に始まり、ベランダ、空き教室、果ては体育館裏まで。


 真宵は、やたらに鼻の利く犬のように私の影を追い回し、とうとう今日、こうしてターゲットを捕らえることに成功していた。


 誰彼構わず私の居場所を尋ねていたらしく、今では私の名前だけが独り歩きし、すっかり有名人だ。


 ふてぶてしく座り込んだ真宵は、音を立ててビニール袋を漁っていた。どうやら、昼飯はコンビニ弁当らしい。すぐに、中から香り立つ親子丼が現れた。


 鼻をひくひくさせて、嬉しそうに口元を綻ばせた真宵は丁寧に両手を合わせて、「いただきまーす」と間抜けな声で言った。


 意外と行儀良いのだと思いつつ、その横顔を観察する。未だに不鮮明な真宵の意図を読めないかと考えたのだ。


「そんなに見つめられると、真宵、恥ずかしいの」


 こちらを見もせず、ふざけた調子で真宵が言うも、それを無視して問いかける。


「…大体、何が目的なんですか」

「おぉ、いい匂い!親子丼に三つ葉が乗ってるのは、もはや運命だね」


 意味が分からない、と顔を曇らせながら言葉を重ねる。


「ちょっと、聞いているんですか?どういう理由で私に付きまとうのか、と聞いているんです」

「あー、もぅ、聞いてるよ。いいトコなのにさぁ」


 あろうことか、不服そうに、あるいは、面倒くさそうにプラスチックのスプーンを蓋の上に置いた真宵は、体を半分ほどずらして、こちらに向き直った。


「丼物は、冷めたら致命的なんだよ?」ぴしっ、と人差し指でさされる。その無礼な仕草に、一瞬で頭に血が昇る。「いい加減、ふざけていないで答えて」

「わ、ごめん、ごめんって」


 さすがにこちらの苛立ちが伝わったのか、真宵も舌を出して謝罪した。真面目に謝っているかどうかは抜きにして、こちらの気持ちが読めない、というわけではなさそうだ。


「悪いと思っているなら、真面目に質問に答えて下さい」

「はいはい」と言いつつ、真宵はスプーンを手に取り直し、親子丼を一口すくって口に運んだ。


 幸せそうに咀嚼する姿が、またなんとも腹立たしいが、今度はこちらから催促する前に、真宵の口が動いた。


「言ったじゃん。綺麗だったからって」

 事も無げに言い放つ彼女に、「それだけじゃ、答えになっていません」と返す。


「だからぁ、綺麗だったから、お近づきになりたいって思ったの。これでいい?」

「では、運命とは何のことだったんですか?」

「運命は運命かなぁ」

「また適当なことを言って…」

「適当じゃないよ。本当だもん」

「…まさか、本当にそんなわけの分からない理由で、私をつけ回したんですか?」


 その問いに、真宵は、「どうかな」と曖昧に微笑んで見せた。


 まるで誤魔化そうとしているような物言いに、私はお弁当をつくじる箸の動きを止める。ほんのり焦げ目のついたお手製の卵焼きが、気付けばボロボロになっている。


 ずっと気になっていた、あの夕暮れ時の口づけの意味を問おうかと、頭の中で逡巡していた。


 何となくだが、聞けば後戻りはできない気がした。大げさかもしれないが、それほど勇気を要する質問となるだろう。


 柔らかな感触と、金木犀みたいな甘い芳香。


 初めて触れる、他人の生の温度。


 初対面の女に気安く触られたというのに、張り裂けんばかりに拍動する、忌々しい心臓。


 思い出せば思い出すほど、聞かずにはいられなくなっていく。


 息を一つ吸い込み、勢いで乗り切るしかない、という思いの元に私は尋ねる。


「で、では、アレは、その、どういう意味だったんですか?」


 想像していた以上に言葉に詰まって、恥ずかしくなる。いつの間にか、口の中も緊張で干上がっていた。


 真宵はこちらの問いに、一瞬だけ小首を傾げた。かと思うと、目と口元に三日月状を描き、わざとらしくとぼけた口調で、「アレって、どれ?」と問い返してきた。


「ですから、アレです」

「アレじゃ、分かんないよ?」

「嘘よ、貴方、絶対に分かっているのに、とぼけているでしょう」

「えー、本当なのに。疑われるなんて、心外だなぁ」


 すると真宵は、一席分ほど空いていた二人の距離を、腰を動かして縮めてきた。下から覗き込んでくるような視線には、明らかにこちらをからかうような色が浮かんでいる。


「口にせずとも伝わるってのは、傲慢だよ、莉亜」


 その一言に、私は今まで感じていた羞恥を容易く上回る屈辱を覚えた。


(今の言葉、私が水姫への想いを押し殺しているのを揶揄しているんだわ)


 直感的にそう判断してしまえば、後は、胸の底からせせり上がって来る激情に身を任せるほかなくなるというものだ。


 沸騰したお湯が生む蒸気が、薬缶の蓋を押し上げるように、私は衝動的に口を開いた。


「だから、キスのことに決まってるでしょう!」


 青空に私の大声が木霊すると同時に、中庭のほうから聞こえていたメジロのさえずりが消える。こころなしか、生徒たちの談笑の声も小さくなった気がする。


 しまった、声が大きすぎた。


 後悔に苛まれている私のほうを、満足そうな顔つきで見やる真宵。それを見て、まんまと彼女の思惑に乗せられたのだと悟った。


「…あぁもう、最悪」両手で顔を覆いながら、そう呟く。「ふふ、意外と単純なんだね」


 制服の袖がぴたりと触れ合うほどの近さに寄られ、思わず、びくんと体を震わせてしまう。


「ちょっと、いい加減に――」


 彼女を咎めるつもりで振り向くと、「えへへ」とこちらの責める気持ちを削ぐような、間の抜けた笑顔を浮かべる真宵と目が合った。


 もはや、何を言っても無駄なのでは、という諦観を抱くも、真宵から受けた仕打ちを考えると、そう言ってはいられなくなる。


 じろり、と悠長に昼食を再開した彼女の横顔を睨む。


「それで、どういう意味だったのかしら」

「んー…」と鶏肉を咀嚼しながら、空の青さを見つめていた真宵は、やがてこちらを向くと、いたずらっぽい笑みを浮かべて言った。「逆に、どういう意味だと思う?」


「質問に質問で返さないで。聞いているのは私のほう」

「えぇ、いいじゃん。聞きたい」


 しばらくごね続けていた真宵に根負けし、渋々質問に答える。


「…きょ、興味本位、とか」


 自分で言っていて、恥ずかしくなる。


 何だか、私のほうがそうしたことに興味があるみたいで。


「何で、莉亜が照れてるの?やらしいなぁ」


 図星を突かれ、苦し紛れに、「いちいちうるさいのよっ…!」と睨みつける。


 鈴を転がしたふうに、コロコロと笑う真宵をじっと見据えていると、そのうち笑い飽きた彼女が、ぎゅっと両膝を抱くような姿勢を作った。


 ちょこん、と両膝に顎を乗せた真宵は、数秒、メジロと生徒の声に聞き入るような沈黙を作ったかと思うと、ほんのり頬を紅潮させて、首だけでこちらを向き言った。


「莉亜が綺麗だったから――我慢できなくなっちゃった」


 そのオニキスの瞳に、どこかで見たような暗い熱情が沈んでいるような気がした。


「もぅ…、私だって恥ずかしんだからさ、こんなこと言わせないでよ」


 こちらをからかっている、とは到底思えなかった。


 それほどまでに、熱っぽい囁きだった。いや、それだけじゃない。見に覚えのある劣情が、彼女のうちから感じられたのだ。


 ――俗に言う、下心というやつである。


 おそらく、それだけではない。単に美しいというものを愛でたい、という気持ちもあるのだろう。いや、自分で言うと妙な話なのだが。


「そ、そう…」何と答えていいか分からず、とっさに顔を逸らし、適当な相槌を打つ。


 どんな顔をしたらいいか、分からなかった。


 私が水姫に向けていたような、ビーカーの底に溜まった、澱のような感情。それを今、自分自身に向けられて、私は激しく困惑していた。


 ただ、こんなにも言葉数が少ないと居心地が悪いと思って、無理やり言葉を繋いだ。


「あり、がとう…ございます」


 感謝するのは違うだろう、と心の中で自分を叱責する。


 真宵は、こちらの気持ちなど露も知らないふうに、「どういたしまして」と明るく答えた。


 それから、何かを逡巡するような唸り声を上げると、ややあって、妙に低く、色っぽい声音でこう言った。


「ねぇ、もう一回してみる?」


 調子に乗らせては駄目だ、と分かっていながら、私に出来るのは、無言で相手の顔を睨みつけることだけであった。

本日は夕方にもアップします!

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