エピローグ 歪な三角形
たとえ…それがどれだけ歪だろうと、いつか終わりのあるものだろうと。
朝の日差しが、昔から苦手だった。体質とかではない。新しい一日の始まりは、だいたい私にとって憂鬱でしかなかったのだ。
洗面台の鏡の前で支度を整える。相変わらず陰鬱そうな顔立ちの女が私を見つめているが、前に比べて嫌悪感は湧かなかった。
あの日、水姫と和解した後、彼女と真宵は教師陣にこっぴどく絞られていた。センシティブな作品を本人の許可なくコンクールへ応募した真宵は言わずもがな、公衆の面前で真宵に暴力と暴言を振るった水姫もだ。
結局、掲示板に貼り出したのは真宵の言った通り、美術部の顧問だった。顧問曰く、私が描き出されているということに気が付かなかったとのことだが、真偽は定かではない。学校内での地位を高めるために、自らが担当している部活の実績を公にしたかったのかもしれない。少なくとも、真宵はそう考えていた。
絵は撤去され、真宵の家へと運ばれているが、すでに多くの生徒が私のあられもない姿を目撃しているし、世の中にだって出てしまっている。
今さら、真宵の功績にケチはつけたくなかった。そのため、私も一応、事後承諾という形は取った。とはいえ、私だってそれで真宵をお咎めなしにするわけにはいかない。
(…今日で約束の期間は終了。さて、どんな顔をしているかしらね…)
鏡の前を離れ、時計を確認しにリビングへと向かう。家を出る時間、ぴったりだ。
戸締まりを終えて玄関から外に出る。学生服はいつだって息苦しかったが、今日は少しだけマシだった。
ガチャリ、と扉を開ければ、家の門の内側に二つの人影。
真宵と、それから…。
「あ、莉亜、おはよう!」明るい声でそう告げたのは、水姫だ。「今日も――えっとぉ…び、美人だね」
「…ありがとう」
昔とは違う口調の褒め方。その言葉が私の心を震わせてしまうということは、もう分かっているからだろう。
「ちょっとぉ!人の彼女を勝手に口説くなよ、お前!」
横から口を挟んだのは真宵だ。朝から不適切な大声に、思わず顔をしかめる。
「口説いてないし。私は昔から、莉亜とこうなの」
「だ、だからっ…そういう気遣いのない発言が莉亜を――」
売り言葉に買い言葉といった様子で諍いを起こそうとする真宵に、私はぴしゃりと言い放つ。
「『お前』ではないでしょう、真宵」
「うっ…」
苦虫でも噛み潰したみたいな顔で、真宵が言葉に詰まる。久しぶりに交わす言葉がこんなものだというのは、なんとも嘆かわしい気分にさせられた。
無許可で人の絵画をコンクールに応募した代償――それは、『一週間は口を利かない』ということ、そして、『水姫と最低限、仲良くする』ということだった。
私と水姫は、親友であるという在り方を選んだ。それが可能である限りということだが、互いの気持ちを知った今なら、多少の嵐には飲まれない確信もあった。
それに、幸か不幸か、水姫はまた独り身に戻ってしまっている。ヒロが、彼女のことをふったのだ。
乱暴な一面を見せた水姫に幻滅したから、私のことで必死になりすぎている彼女に別の疑惑が浮上したから…色々な憶測が飛び交った。だが、ヒロは誰に対しても真実を口にしなかった。それが何かを守ると信じているみたいに。
自分と距離を置くなら水姫ともそうしてくれ、とごねた真宵の意見を突っぱね、私は今日まで、かつてのように水姫との時間を過ごしていた。
それについても、様々な意見が飛び交っているのが分かった。ただ、彼女がふられたという噂のおかげで、同情的な意見も少なくはなかったようだ。
「…そいつと仲良くなんて――」
「真宵」
「…日乃と仲良くなんて、難しいよぅ」
「そうでしょうね」と短く告げて、私は彼女らの間を縫っていく。
学校に着けば、また好奇の目線にさらされる。私たちの在り方に疑惑を抱く者も少なくはないだろう。
だが、そんなことは関係ない。私の在り方は、私が決めるのだ。
未だに動き出そうとしない二人を振り返る。くるりと、ラインの入ったスカートが円を描いて広がる。
「行きましょう、遅刻するわよ、二人とも」
ふっ、と思わず微笑みが漏れる。ぽかんとした顔で並んでいる二人が、妙に似ているように思えたのだ。
親友の水姫、そして、恋人の真宵。
これが、理想の形ではないだろうか。『大切』に色の違いはあれど、同時に存在できないわけではないはずだ。
たとえ…それがどれだけ歪だろうと、いつか終わりのあるものだろうと。
「…げ」相手の顔を見た瞬間、開口一番、私は悪態を吐いた。「うわぁ、何で莉亜より先に日乃がいんの」
学校の昇降口で、秋雨がしとしとと降るのをじっと見つめていたのは、おじゃま虫――もとい、日乃水姫だった。
「…莉亜は忘れ物を取りに教室に戻ったの」
「へぇ」
興味なさげに相槌を打つ。それから、二人分くらい距離を置いて、水姫の隣に並び立った。
五分ほどだろうか、長い沈黙があった。こういう時間も少し前までは地獄のように感じていたが、今ではすっかり諦観の中で習慣化されつつある。
示し合わせたみたいに、同じタイミングでため息を吐く。それで互いに顔を見合わせたのだが、笑顔はない。考えていることが同じ、というだけに過ぎないのだ。
「…莉亜にやられたね。絶対、忘れ物なんてしてないよ」
「私もそう思う。変な気を回されてるんだね、莉亜に。…昔から、そういうところあったから」
昔から、という単語を使われると、マウントを取られているような心地になる。莉亜マウントだ。
もう一度、長い沈黙が横たわる。最終下校時刻が近づいているため、もう生徒はほとんどいない。そのため、雨の音以外、私と水姫の間にはなかった。
ちょうどいい機会なのかもしれない、と私は雨を見上げながら、ずっと水姫としたいと思っていた話の口火を切った。
「日乃さ、変に莉亜に期待持たせないでよ」
「…どーいうこと」
「察しが悪いなぁ…『可愛い』とか、『綺麗』とか、何も考えずに言うなってこと。あと、ボディタッチもやめろ。私の莉亜に触んな」
「何が『私の』なの。ばっかみたい、莉亜は誰のものでもないでしょ」
「正論乙」と小馬鹿にすると、水姫は不愉快そうに私を睨みつけた。「うざっ…」
水姫と一緒にいる時間が増えて思ったが…顔はとても可愛らしい。性格は忌々しいが、莉亜が天使と形容するのも頷ける。顔だけなら、十分に『範囲内』だった。
それにしても、どうも私はこういうときは駄目だ。本心を水姫と交わす必要性を感じていながら、どうにも彼女のことが気に入らなくて、話が進められない。
莉亜に相談したら、何と言われるだろう。変わろうと思っているかどうか、を確認してきそうだ。
くそ、と内心で吐き捨て、話の方向を変える。
本当は、口にするのも嫌気が差す内容だった。
「…まだ、莉亜はお前のことが好きだよ」
「え…?」
「そうじゃなかったら、恋人の前でボディタッチされたら拒絶するでしょ」
しかし、水姫は私の言葉に対して、それはどうだろう、と否定的な態度を取ってみせる。
「莉亜は本気で、私とは昔みたいな関係を維持して、葉月とは恋人のままでいたいんだと思うよ」
「そうかなぁ…」
「そうだよ」
きっぱり言い切る水姫にムッとしつつ、ため息混じりで応じる。
「…たとえそうだとしてもさぁ、日乃にそれっぽい仕草とか、言葉とかを口にされてたら、どうなるか分かんないじゃん」
これは正論だと思ったのだろう、水姫は困惑した様子で俯いた。
こういう無頓着なところが、結局、莉亜を幾度となく傷つけたのだとなぜ分からないのだろう。
「それでまた同じように傷ついたら…今度こそ、私はお前を許さない」
抜き放たれた太刀の如く、ぎらりと光る怒りを瞳にみなぎらせる。誇張はなかった。次は叩かれる前に殴り飛ばす…それくらいの気概はあった。
だが、水姫は噛みつき返してくるどころか、しゅん、と肩を落とし、明らかに気落ちした姿を私にさらした。これをライバル役の私の前でできる純粋さは、彼女の美しさなのかもしれない、と不覚にも考えてしまう。
空を見上げてため息を重ねる。空は曇天。行く先は怪しい。
もう一つ、聞くべきかどうか迷っていることがあった。
相手の返答次第では、私の心に大きな波が立つ。聞かないほうが、よほど精神的に健やかでいられるかもしれない。
…いや、駄目だ。気になって仕方がない。聞くしかない。
「…あのとき、莉亜にキスされてたら、日乃、どう思ってたと思う?」
あのとき、とは美術準備室での出来事の話だ。彼女もすぐにピンときたらしく、目を丸くしてから、落ち着かない様子で空を仰いだ。
また、沈黙が流れる。長考するというのが、答えとも捉えることができるだろう。
「…そんなの、分かんない」
「…そーですか…」
「でも…」と口ごもる水姫に嫌な予感がして、彼女を横目で捉える。頬を染めてなお、天を真っ直ぐ見つめることができる水姫が、なんだかすごいと思った。
「想像だけ、想像だけなら…嫌じゃ、ないかも」
「…あぁ、そーですかぁ…」
何となく分かっていた返答に、ため息交じりで応じる。
それが事実なら圧倒的に不利な戦況だが…私だって、そう簡単に譲るつもりはない。
「…負けないから」
「だ、だから、想像だけだって――」
「うっさい。その顔の、どこが想像だけなんだよ」
指摘された水姫は、ますます赤い顔になると弾かれたように視線を背けた。悔しいが、愛らしい仕草だった。
莉亜が知ったら、喜ぶだろうか?いや、教えてなどやらない。こんな奴の幸せを後押しするなど、死んでもごめんである。
水姫が勇気を出すより先に、莉亜に心の底から私を選ばせればいい。そうすれば、万事解決である。
そうして決意を新たにしていると、校舎のほうから高い足音が聞こえてきた。
「ごめんなさい、二人とも。こんな天気の中で待たせてしまって」
「…よく言うよ。策士め」
八つ当たり上等でぼやくと、莉亜はすぐに事態を察していたずらっぽく笑った。この表情がまた可愛くて、胸がきゅっとなる。
「ふふ、さすがね。でも、二人が口を開けば小言しか言わないのも悪いのよ?」
よく笑うようになった、これは私の功績だろう。そう考えて水姫を一瞥すれば、彼女は私と同じものを見たらしく、むず痒そうに唇を固く結んでいた。
「さぁ、帰りましょう」と上品に微笑み、傘を広げて雨の中に潜る莉亜だったが、私と水姫はそれに続けなかった。「どうしたの?二人とも」
水姫と互いに顔を見合わせる。言いたいことは分かった。まさか、お前もか、という顔だ。
「…もしかして、二人とも傘を持ってきていないの…?」
「あー…うん、ごめんね、莉亜」と先んじて水姫が謝る。すでに莉亜の傘に入れてもらう気満々だ。
「莉亜、相合い傘といえば、恋人の特権だよね!」
先を越されてなるものかと、莉亜の傘の中へと飛び込む。
どうだ、と水姫を見やれば、狼狽えている彼女へと莉亜が救いの手を差し伸べた。
「それなら、水姫も一緒に入るといいわ」
「え、いいの…?」
「ええ、もちろんよ。何を遠慮する必要があるの」
げ、という私の抗議は一睨みで返され、私たちは、莉亜を中心にして三人仲良く一つの傘に入りながら、舗装された道路を歩いた。
「うえぇ、肩が濡れちゃうよぉ」
「傘を持ってきていない貴方が悪いわ。文句を言わないの」
私が冷たくあしらわれる一方、莉亜は水姫が濡れていないか心配そうにしていた。
「大丈夫、水姫?濡れすぎていないかしら?」
「あ、うん…!大丈夫だよ、ありがとね、莉亜」
面白くない。極限に面白くない。
これじゃあ、どっちが恋人で、どっちがおじゃま虫かが分からないではないか。
そう思った私は、恋人にしか許されない行為で自分の優位性を証明するべく、莉亜の頬に唇を寄せた。
「きゃっ!?が、学校で何をするのよ!」
「ふーんだ、恋人の前で他の女とイチャイチャする莉亜が悪いもんね!」
すると、全くもう、と怖い顔をしている莉亜の腕を、横から水姫がぎゅっと引っ張った。
体を押し付けるようにした仕草に、莉亜が狼狽える。
莉亜越しにぶつかった水姫の瞳に私と同じ何かを感じて、負けてはいられないなと、私は強く莉亜の腕を引っ張るのだった。
最後までご覧頂き、本当にありがとうございます。
みなさんの評価やブックマークなどのおかげで、最後まで更新することができました。
終わりの形としては、…どうでしょう、中途半端だったかもしれません。
ただ、私個人としては、水姫との在り方を『恋人』か成りようもない『他人』か、という二者択一的なものにしたくなかったのです。
みなさんはいかがだったでしょうか?
今後も百合作品を投稿し続けるつもりです。
少しでも今回の作品を楽しめた方は、また今後の作品でも出会えると嬉しい限りです。
よろしければ、評価(もちろん、低評価でも全く問題ありません!)や感想を頂けると嬉しいです。
もっとこんなふうな終わりだったら、という意見も大歓迎ですので、何の遠慮なくお言葉を頂ければと願っています。
それでは、本当にありがとうございました。
叶うのであれば、また違う作品で。




