カナリアの絵.2
彼女に与えたかったものは、喪失ではなく幸せだ。
『水姫と葉月さんが、君の絵のことで揉めている』
教師たちの尋問から解放され、美術室準備室を出てきた私に、ヒロが焦った様子でそう言った。
その言葉だけで驚愕した私は、彼にどこでそんな事態が起きているのかを確認すると、急いで現場へと向かった。
場所は掲示板前。最悪だ。だって、そこに絵が掲示されてしまっているわけなのだから。担任の教師は事実確認ができ次第すぐに絵を撤去すると言っていたため、おそらく現場にいるのだろう。
階段を上がるとすぐに、聞き慣れた声で、聞き慣れない怒号が響いてきた。
絵のことを私に知らせていなかっただの、そんなの知らなかっただの、私を苦しめていただの、返せだの、返さないだの…。
私は人垣から少し離れた場所でそのやり取りを聞いていたわけだが、それだけで、とても複雑な気持ちにさせられる内容だった。
真宵に対しての怒りはもちろんあるが、彼女自身、絵を貼り出すことは許可していなかったと聞いて少しだけ安心した。もしもそうでなければ、今すぐにでも彼女を殴りつけていただろう。
水姫に対しては、正直、胸が疼くような想いにさせられた。未だに私を大事に想ってくれているがゆえに、水姫は激昂している。しかも、その中には明らかに私と真宵への嫉妬が含まれていた。
やがて、私に気がついた生徒たちが少しずつ、こちらに道を譲り始めた。誰もそんなことお願いしていないのだが、この事態の収拾を担うのは、私であるべきだとも思う。
コツ、コツ…と前に進み出る。視線の集中砲火を浴びているのが分かる。
昔の自分には受けきれなかった量だが、真宵と一緒にいるせいで耐性ができていた私は、自分でも驚くほどに堂々とランウェイを進んだ。
とうとう、二人の元に辿り着く。彼女らは教師陣に羽交い締めにされながらも、汚い言葉で罵り合っていた。
両者、普段の様子からは考えられないほど興奮した様子だ。自分のためにこんなふうになってくれているわけだが、ありがたくともなんともない。
ほぼ同時に二人が私に気づく。私の登場で多少は冷静になったのか、もう羽交い締めにする必要もないくらいには彼女らは大人しくなった。
「…莉亜」二人の言葉が重なる。こういうときは息ピッタリだ。
私は二人に声をかけるより先に、掲示板に貼り出された絵のほうに引き寄せられた。
黒のネグリジェ、はだけた胸元。誘惑するような眼差しと、青い月明。
記事の写真などではなく、実物大で見る真宵の絵は、たしかに素人の私の目から見ても優れたもののように思えた。
生々しく、艶やかで、美しい…描き手がモデルの蠱惑さに狂いそうだというのが伝わってくる。
(このモデルが私だということが、最大の問題ね…)
コンクールは学生を対象にしたものではなかったから、審査は通ったことだろう。だが、これを学生掲示板に載せるとなれば、問題だ。少なくとも、私と学校側にとっては。
はぁ、と深いため息を吐く。
もうこうなってしまった以上、取り返しはつかない。今さら焦っても無駄だ。
行くところまで行ってしまっている、という感覚が、不思議と私を冷静にさせた。
「…真宵、どうして言わなかったの」
「ち、違う、莉亜、聞いて。私も本当に知らなかったの。貼り出すなんて聞いてなかった」
「それは信じるわ。でも、コンクールに出すことまで知らなかったとは言わせないわよ」
「あ…う、それは…」
「貴方だって、恋人のこんな姿、クラスメイトに見られたくなかったでしょう?」
ざわざわ、とオーディエンスが何かを呟いている。もはや、どうでもいいことだ。
真っ直ぐ真宵を見つめれば、彼女は深く反省した様子で俯き頷いた。
よく見れば、真宵の頬が赤くなっていて、唇は切れて血が出ていた。
「真宵、唇から血が出ているわ」真宵に近づき、ハンカチで血を拭く。「あ、ありがとう…」
誰が真宵の頬を打ったのか、考える必要もなかった。
「…どんな理由があっても、暴力はいけないわよね」
自分自身への戒めも含めて、私は水姫を一瞥しながら告げる。
「わ、私は…ただ、莉亜がかわいそうだと思って…」
「ありがとう――でも、これは私と真宵の問題だわ」その一言に、明らかに水姫が表情を暗くする。
「真宵の頬を平手打ちするにしても、その権利は私にこそあると思うの」
その言葉を耳にして、真宵がぴくりと肩を動かした。
真宵に関しても咎を受けてもらうつもりだが、今は水姫のことが先だ。
話すなら、今しかない。不幸中の幸いで湧いて出た絶好の機会だ。
私は事態を静観している教師らに、少しだけ三人にしてもらうよう依頼した。最初は渋られたが、私自身がかなり冷静であったこと、そして…忌々しくもヒロが口添えしたことで、一時間だけという条件付きで承諾してもらうことができた。
二人を伴って、静かな場所へ向かう。
行く先は、美術準備室。
三人だけになれる、夜みたいに静かな場所だ。
遮光カーテンを開き、外界の光を取り入れる。美術準備室は毎日真宵が使っているため、その名前から連想させるような埃臭さはない。
真宵が勝手にいつもの席に移動したため、私は椅子を引いて、水姫が座る場所を確保した。
「ありがとう」と青い顔をした水姫が応じる。冷静に戻ったのだろう、とんでもないことを公衆の面前でしてしまったと後悔しているはずだ。
一方、真宵は普段と変わらない表情だ。無口になっている点だけ、彼女らしくない。
私はあえてどこにも腰を落ち着けず、机に寄りかかって二人の間に立った。とちょうど、私を頂点にして二等辺三角形を作っている形だ。
「真宵、貴方への小言は後回しにするわ――少し水姫と話をさせて」
凛とした声に自分でも驚く。一周回って心は氷のように静かだった。
「…莉亜、最初からそれが目的でここに連れて来たんでしょ」
「悪いかしら。貴方が私にしたことに比べたら、可愛いものでしょう?」
「あー…うぅん」
真宵は少しばかり逡巡してみせてから、片手を差し出して自分の膝で頬杖をついた。
どうしてそんなに偉そうなのかと不思議になるも、静かにしておいてくれるのはありがたいのでそっとしておく。
名前を呼ばれて身を固くしていた水姫へと近づいた私は、少しだけしゃがんで彼女と目を合わせると、短い言葉で想いを伝える。
「水姫、急に冷たい態度を取ってしまって、ごめんなさい。それと…あのとき、感情に任せて当たり散らしてごめんなさい。叩いてしまったことも、ずっと謝らなければと思っていたの」
はっ、と水姫が息を飲んだのが分かった。言葉を噛み砕き終わったらしい水姫の瞳からは、大粒の涙が流れ始める。
「な、なんで、莉亜が謝るのぉ…?謝るのは私のほうだよ…!」
音を立てて立ち上がった水姫は、困ったような、狼狽えたような様子で私に近寄ると、しきりに瞬きをして、言葉を編もうと必死になっていた。
懸命な水姫の姿に、場違いながらも、やはり彼女は天使のようだと思った。
懐かしい風が吹くのを感じた。
あの日、橋の上で感じた風だ。
「わ、わ、私、莉亜に酷いことたくさん言ってた…!たくさん傷つけて、陰で泣かせて…それなのに、あいつに盗られたって思っちゃって、とっても焦って、嫌だなって思って、八つ当たりして…私…」
水姫、と声にならない声で彼女の名前を呼ぶ。その声は空気を震わせることは一切なかったが、何かが水姫には聞こえていたのだろう。彼女は顔を上げて、私に飛びかかるようにして抱きついてきた。
「ごめんねぇ、莉亜…」
ずっと前までは、私のものだった温もり。今はもう違う。
そしてそれは、私の温もりもそうだ。今やもう、彼女のものではない。
それでも、今だけはと優しく抱き締め返す。
「私のほうこそ…ごめんなさい」
こんな想いをさせたかったのではない。
彼女に与えたかったものは、喪失ではなく幸せだ。
私ではそれを与えられないと、理解した気になっていたから、歪な形でも離れることを選んだのに。
私は、なにかを間違えたのだろうか。
かつてそうしていたように、水姫の頭をゆっくりと撫でる。
目頭は熱くなったが、涙は流さなかった。
それが、せめてもの矜持だと信じていた。
「貴方のそばにいたかった。でも、私はわがままだから。私を一番にして欲しいと願ってしまったの。それがばれるのが怖かった…」
泣きじゃくっていて、返事はおろか、聞こえているのかも分からない水姫に私は続ける。
これは懺悔だ。聞くのは神だけでいい。
「貴方に触れたいと思う自分が許せなかった、貴方で下劣な妄想をしてしまう自分が嫌だった、そして――それを日に日に抑えられなくなる自分が…怖かったの」
きっと、真宵のそばでしていい話ではない。それくらいは分かっている。だが、だからといって、この吐露をやめられなかった。
「いつか…貴方を汚してしまいそうだったから…私は…」
不意に、水姫が私のほうを見上げた。低い身長から上目遣いで放たれる魅惑の輝きに、理性の全てを失ってしまいそうになる。
真珠を生み出し続ける、水姫の綺麗な瞳。
ぎゅっ、と背中に回された指先が制服を掴む。
頬に手を添え、涙を指先で拭う。されるがままになっている水姫に、私は得も言われぬ感情を抱く。
今、唇を重ねたとしても、きっと水姫は拒否しない…という、根拠のない確信があった。
だが、私はそれを選ばない、選べない。
もっと早く、適切な形で水姫に想いを伝えていたら…。
私たちの形は、違うものだっただろうか。
明日の正午過ぎに、エピローグを掲載致します。
よければ、最後までお付き合いください…。




