カナリアの絵.1
--『籠の外の金糸雀』
生き急いだ夏が終わり、烈日も、海も、蝉の声も、波が引くみたいにして去って行った。
七月に真宵の家に泊まってからも、私は彼女とつつがなく時間を重ねた。
地元の夏祭り、海水浴(私は泳いでいない)、あてのない散歩…橋の上から意味もなく夕日を眺めたこともあった。
夏休みの宿題を全くこなそうとしない真宵を叱りつけるのも、ある種の習慣になろうというとき、ふと、思い出したみたいに夏休みが終わった。
こんなにあっという間だった夏休みを、私は未だかつて知らない。
新学期が始まってすぐに、痛々しく顔を背けるようになった水姫と再会した。彼女らしくもない仕草に、酷く胸が痛んだ。
ヒロに言われたこと、忘れているわけじゃない。それどころか、彼はご丁寧に、夏休み例の親友と会って話ができたことを報告してくる始末だったから、忘れようもなかった。
彼が言った、「色々とありがとう」という言葉には失笑で応えた。それでも満足そうな彼を忌々しく思う。
頑張ったのは自分自身だ。私にお礼を言う神経が分からない。勝手に恩義など感じるな。
とはいえ、ヒロが勇気を出したという事実は、私に指先ばかりの焦りを感じさせるには十分な出来事だった。
私も勇気を出さなければならない。
だが…、それは精神論だけで生み出せるものではなさそうだった。それほどまでに、一度拒絶し、罵った水姫と相対するのは私にとっては至難の業だった。
何か、きっかけがあれば…水姫と開き直って話し合えるほどの、何かが…。
そんな機会、果たして本当にくるのだろうか。
先の見えない霧の中をさまようような気持ちになっていた私だったが、その絶好の機会は思いのほかすぐにやって来た。
最も予期せぬ形で、最も私を揺さぶる形で。
九月の朝、涼しげな風と真宵と共に私は学校へと向かっていた。
お試しで付き合っていた頃に比べ、迷いのない距離感で私たちはそばにいた。
手が触れそうで、触れない距離。
触れようと思えば、いつでも触れられる距離。
話題だって、事欠かない。真宵について知らないことは山ほどあったし、彼女だってそれは同じなようだった。
下駄箱に入れば、右と左に分かれる。クラスが違うため、いつものルートだった。
しかし、今日は真宵がなかなか出てこなかった。不思議に思い真宵のクラスの下駄箱へと移動すると、彼女は自分の担任の教師に何か尋ねられているようだった。
それにしても、教師の雰囲気はやけに深刻だ。ただし、真宵のほうは慌てているふうでも、驚いているふうでもない。
盗み聞きするのもまずいかと距離を置くと、今度は私のほうが担任の教師に話しかけられた。
「風待さん、少し来てもらっていい?」
「え?あ、はい…」
拒否など考えられないくらい、彼女の表情も険しい。
連れられていく直前に、真宵のほうに視線を投げた。目が合った彼女は、少しだけ不安そうな顔をしていた。
教師に案内されたのは美術準備室だった。てっきり、職員室か…生徒指導室にでも呼ばれると思っていたから、驚きだった。
中に入れば、さらに愕然とさせられることとなった。担任以外に教頭までいたからだ。
(一体、何があったの…?)
自分が何かしたか、と考えたとき、真っ先に思い浮かんだのは最近の真宵との行き過ぎたコミュニケーションだ。場所は選んでいるとはいえ、学校内で唇を交わすこともあったので、誰か目撃した生徒が教師陣に密告したのかもしれない。
それについて叱られるのであれば、言い逃れのしようもない。自分でも緩んでいる自覚はあったのだ。
「あの…」先手を取って謝ろうかと思い、口を開きかける。すると、教頭がそれを片手で遮った。
「あぁ、ごめんね。急に呼ばれて驚きましたよね」
教頭の口調は柔和なものだった。とてもではないが、こちらを叱責するために呼んだふうには感じられなかった。
「どうしてこんなところに呼ばれたか、身に覚えもないでしょう。不安になるのも当たり前ですからね」
身に覚えならあるが…と相手の出方を窺う。すると、担任と教頭は互いに顔を合わせてため息を吐くと、大儀そうな動作でいつも真宵が使っている机の上から、何かを持ってきた。
それは一冊の雑誌だった。たいして分厚くもない。こちらに見えるよう向けられた本の表紙には、『新人美術コンクール』と綴ってあったが、そんな文字も目に入らないほどにインパクトのある文字が刻まれていた。
『鬼才、葉月彩の娘――葉月真宵、最優秀賞受賞』
文字の意味をゆっくりと頭の中で噛み砕く。それが終わったとき、私は衝動的に顔が綻ばして声を発していた。
「真宵が、何かすごい賞を取ったんですね」
なぜだか、私の様子を見て二人は一瞬呆気に取られて硬直した。だが、またも表情を硬くすると、「その様子だと、何も聞いていないんだね」と希望が損なわれたみたいな口調で告げた。
「何も聞いていないって…ええ、はい。真宵からは何も。…あぁ、コンクールがあるとかなんとかは言ってましたが」
「そういうことじゃない。その、絵の題材なにかについては…?」
「題材…」
ふ、と一つの約束が蘇る。
――私、莉亜の絵が描きたいの。
――記憶の断片に縋り付くようなもんじゃなくて…、私の望む構図で、しっかりと、私と目が合ったままの莉亜で。
それはすでに、果たされた約束だった。
初夏のある夜、濃く深い闇と、青く美しい月明と、期待と、たっぷりの劣情と扇情をもって。
そのとき、私の頭に嫌な予感がよぎった。
「…ま、まさか」
「…はぁ、その『まさか』です」
教頭のため息と共に、ページがめくられる。
そこには、両腕を頭の上に上げ、はだけた胸元と劣情を孕んだ瞳でこちらを見つめる、あられもない私の姿があった。
真希の話を聞いて教室を飛び出し、人垣をかき分けた私は、掲示物のボードに大きく張り出された絵と、それを称える記事と、大好きな親友の姿と、憎き仇敵の名前を見て、凍りついた。
とても似合っている、可愛い黒のネグリジェで身を包んだ彼女が、色っぽいポーズと視線であちら側から、見るものを誘うように見つめている。
憤りよりも先に浮かんだのは、綺麗だ、という感想。そして、それと同じかそれ以上の、エロい、という俗っぽい感想だった。
自分の深層心理から、水泡のようにふわふわと浮かび上がってきた気持ちが、これを描き出したあいつの表現したい核心であると気づくのに、そうそう時間はかからなかった。
学友たちの喧騒は耳に届かない。あるのは、あいつの思うつぼになった自分への怒りと、あいつ自身への憤怒、そして…。
(なんで、あいつの前でこんなエロい格好したのさ…莉亜!)
さらに、私は絵のタイトルを見ていっそう感情をかき乱された。
――『籠の外の金糸雀』
このタイトルの意味が分からないほど、私は愚かではなかった。
金糸雀は、莉亜をもじっている。そして、この籠が意味するのは…。
「だからぁ、私も掲示板に貼り出すなんて、先生に聞いてなかったんだって。こっちもすんごく迷惑してんの、莉亜に嫌われたら、どうしてくれんの」
人垣の向こうから、今一番聞きたくなかった相手の声がした。その声の主は、教師となにやら言い合いしながら、こちらへと近づいてきていた。
「本人は了承しているの?コンクールに出すなんて」
「あー…それは、まだ」
「ほら見なさい!貴方の勝手な行為で、風待さんのプライバシーが脅かされたらどうするつもりなの!」
「…うるさいなぁ、芸術家を目指す人間にとって、あの作品を世に出さないなんてありえないよ」
モーゼが海を割るみたいにして、人垣が廊下の左右に割れていく。もちろん、その向こうから現れたのは、教師に対して鬱陶しそうに顔を歪めている葉月真宵だった。
「私はね、こういうもんのために生きてんの。芸術もくそも分かんないあんたたちには――…」
真宵は、絵の前で立ち尽くす私と目が合うや否や、一瞬だけ複雑そうな顔をした。しかし、すぐに嘲笑に近い笑みを作ると、隣で口やかましくしている教師のことなど無視して告げた。
「どう?綺麗でしょ?私の金糸雀」
ギリッ、と歯を食いしばる。みんなが見ている、怒りを露わにするわけにはいかない。そんな恥ずかしいことはできない。
それに…今まで莉亜を傷つけてきた私には、ここで憤激する資格はない、ないのだ。
「…莉亜、知らないの。これ」
「まだ、ね」
「…傷つくんじゃない」
「あんたには関係ないよ。莉亜と私の問題だから」
言葉も出ないようだと勘違いしたのか、真宵は鼻を鳴らして近寄ってきた。
「あんたがずっと閉じ込めてくれてたおかげだよ」私にだけ聞こえるよう、耳元に唇を寄せて、囁くように彼女は告げる。「生身の莉亜は激しくて、わがままで、――誰よりも綺麗だったよ」
その瞬間、頭の中でぱちん、と何かが弾けた。
間近に迫った真宵の体を突き飛ばし、驚きで目を丸くしている彼女の頬を渾身の力で引っ叩く。
どよめくオーディエンスにも、痺れる手のひらにも動じず、私はもう一歩踏み出して、よろめいている真宵の胸ぐらを掴み上げて叫ぶ。
「お前が、お前が出てきたりしたからっ!莉亜が別人みたいに変わっちゃったのに、まだメチャクチャにするつもりなの!?」
誰かが、私の体を抑えようとしたが、それすらも強く跳ね除けて、真宵を床へと突き飛ばす。
「莉亜に言ってないって、なに!?こんな絵をこんなところに貼り出しておいて…!そんなふうに莉亜のこと大事にできないなら、私に莉亜を返して!」
今度こそ、誰かに羽交い締めにされた。一人ではない。何人かが私の暴走を止めようとしていた。
頬を抑えて立ち上がる真宵の瞳から、驚きは消え、代わりに激情が広がる。
「…うるさいなぁ、だから、私だって知らなかったって言ってんじゃん!」
「嘘吐くな!」
「嘘じゃないし。それに、なに、今さら?莉亜はもう私のものだから、絶対に返さないよ。はは、せいぜい後悔しろ。莉亜を毎日、毎日苦しめてたんだから、当然の報いだね」
「このぉっ…!」
「あんなに傷つきやすい子の気持ちも考えないなんて、罪悪なんだよね、それ!」
つばを吐き捨てるみたいに言ってのける真宵から、私に近い怒りを感じた。不服だが、彼女もまた莉亜のために怒り、言葉で私を痛めつけようとしていると理解した。
だが、だからといって目の前の仇敵を許すことはできない。共感なんて微塵もしたくない。
そうして私たちは互いに罵り合い、睨み合った。しつけのなっていない飼い犬みたいに、リード代わりの無数の腕を振りほどこうともがきながら。
すると、また人垣が割れた。今度は静かに、誰の言葉もなく。
次はなんだ、とそちらに目を向ける。
そこには、なんとも感情の読めない、複雑な表情をした莉亜が立っていた。
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