星降る瞳.1
塵屑の中からでも宝石を見つけられないようであれば――
諸行無常、という言葉があるが、私は変わらない『美しさ』というものが世界には存在することを知っている。
月も太陽も星も、夜も夕暮れも、暁の光に滲む山麓も、跳ねる水面も、ビルの隙間を抜ける風も…数え出すと、枚挙に暇がない。
絵画だってその一つである。
絶えることのない時間の流れに抗い、時を留めるべく描き出された風景や人物、想い…とにかく、世界の数々だ。
ため息と共に、私はそっと絵画を一撫でする。
私は、基本的に私が作り出した世界が好きだ。当然である。そこには私の『好き』がたくさん詰まっていて、それ以外の一切は排斥されているから、居心地がいいのだ。
だが、私が至上の存在として崇めるこの一枚の絵は、私が描いたものではない。
光という光を尽く拒絶する、烏の濡れ羽色をした髪。
その十分すぎるほどの知性の輝きでは、どうしようもない何かを見つめてきたような、諦観に満ちた黒曜石。
そっと重ねた白魚のような右手と左手、唯一、幸せの名残が感じられる赤い唇。
私は、もう一度だけそっとため息を吐いた。
悔しいが、私にはこれだけの作品は描けない。
不意に、背後の扉が開いた。そこには切れ長の瞳をした女性が立っていた。
「…なぁに?真宵ったら、またそれを見てたの?」
「お母さん、戻ってきてたの?」私は唇を尖らせて答える。「別にいいじゃん、私が何を見てたってさ」
「まあね。で、心は決まったの?」
「…だからぁ、私はちゃんと絵が描けるとこに行くってば」
「はぁ、まだ言っているの?」
母はため息交じりでそう言った。
すでに三十半ばの母だが、思い出の中の姿とほとんど変わっていない気がする。つまり、若々しく気力に満ちているということだ。贔屓目に見ても、美しい外見をしている。
「だって、意味分かんないじゃん。ちゃんと中学で結果は出したのに、なんで普通科しかない学校に通わなきゃいけないの」
「学生コンクール程度で、結果とか言わない」
自分でもなんとなく思っていたことを指摘され、ちっ、と舌打ちする。
「私は、早くこういう絵が描けるようになりたいの!そのためには、いっぱい勉強して、いっぱい描いて、技術を磨かないと…」
「…そんなにお母さんの描いた絵が好き?」
「好きなのは『絵』と『モデル』。お母さんは関係ない」
母は有名な芸術家だった。庶民であれば知る人しか知らないが、美術に造詣の深い人間なら知っていて当たり前の人間である。
性格にこそ難があるものの、色彩も構図も縦横無尽。臨場感、という面では右に出る者を私は知らない。
やたらと苦言と束縛が多く、人としては尊敬に値しない人物だが、芸術家としては目指すべき姿として密かに設定している。
母は反抗的な私を見て肩を竦めると、珍しくちゃんと母親の顔で私を諭し始める。
「あのねぇ、真宵。技術があるから人の心を打てる作品を生み出せるわけではないのよ?」
「…じゃあ、何がいるのさ」
母がこうした話をするのは珍しかった。基本的に放任主義で、仕事で海外やらなにやら、どこにいるかも分からない状態になることのほうが多い。
そんな母がどういう気まぐれか、絵を描くための何かを伝えようとしている。ならば、それはきっと今の自分にとって千載一遇のチャンスだ。
「経験よ」
「経験…?」
母が事も無げに答えた内容に失望して、私は口をへの字に曲げる。
「そんなの分かってるって。だからちゃんと専門性の高い学校に――」
「馬鹿ね。そんないつでも積める経験じゃないわ。…貴方、友だちはいるの?」
「む。馬鹿にしないで、それくらいいるよ」
「芸術を介さない友人は?」
「そ、それは…」
「ほら、いないでしょう。大方、好きな人ができたこともないのではなくて?」
図星を突かれて、余計なお世話だと腸が煮えくり返りそうになる。こんなよく分からない説教なら、耳を貸さなければよかった。
「初恋の人ならいるもん」
母は、私の言葉の先を読んで薄く笑う。
「その人なら駄目よ。その人は、私の描き出したレプリカなのだから」
レプリカ、模造品。自分が描いたというわけでもないのに、絵を貶めるような発言が気に入らなくて、私は鼻を鳴らした。
「別にいいじゃん、本物じゃなくたって」
「あのねぇ、そんな浅い心で、一体何を描き出し、何を表現しようというの?」
思いのほか語調が強かったので、顔を上げて母を覗き見る。気の強い顔立ちをしている彼女の顔が、ますます険しくなっている。
「今のままの真宵じゃ、技術や閉じられた価値観でしかモノを描けない絵描きになるわ。売れないし、評価されないわよ。今のうちはいいけれどね?何をするにしても、頭に『子どものすること』っていう表題がつくから」
「…それはそうとしても、別に学校の外で作ればいいじゃん、友だちも好きな人も」
「駄目よ。貴方、どうせそんなことを言って自分の好きなことしかしないのでしょう」
そう言われてみれば、そんな気もする。いや、絶対にそうだ。
「だって、興味ないし。普通のことしか話さないやつにも、恋愛にも。自分の時間は減りそうだし、面倒臭そう」
「塵屑の中からでも宝石を見つけられないようであれば――貴方は芸術家なんて志すべきではないわ」
ぴしゃり、と言いつけられ、私は唇を噛んだ。怯んだ私に対し、「つまらないと思うのは、貴方が、宝探しが下手だからよ」と追い打ちをかける。
何が宝探しだ。そんなの、私を芸術家への道から遠ざけるための詭弁に決まっている。
私はさっさと母を超えたかった。そのためには実績がいる。『子どものすること』とあしらわれないほどの結果が。
無言になって、見てろよ、と母を睨みつける。すると、彼女はなぜか突然笑いだした。
あまりに意味が分からず、ぽかんと母を見つめていると、彼女は目元の涙を美しい指先で拭い、言った。
「なぁに、その顔?『今にでも見返してやる』って書いてあるわよ」
「う、うるさいなぁ、もぅ。そういうの、放っておくのが大人のマナーでしょ」
「それは失礼。――そうね、分かったわ。途中からでも、デザイン科のある学校に転校させてあげてもいいわ」
「え、ほ、本当?」
「本当よ。ツテもあるし、貴方の細やかな実績も役に立つでしょう。…ただし、条件があるわ」
そう言うと、母は指を一本、真っ直ぐに立てた。
あぁ、やだやだ、と私はため息を吐く。
どうせろくな条件ではない。無理難題をふっかけてくるに決まっている。
一応、聞くだけは聞いてやろうというふうに、手のひらを差し出して、母に続きを促す。
「恋人を作ることよ」
「はあ!?」
あまりに突飛な発言に、声を荒らげて応える。
それから母は、また経験がどうだ、宝物を見つけろだどうだと私を諭してきた。いや、説教に近い。
そんなもので自分が成長するとは思えなかったが、途中からでも転校できるというのは、垂涎ものの条件だ。
だが…そうなると、さらに問題が起きる。
「ちょっとお母さん!ずるいよ、私がレズビアンなの知ってるでしょ!」
「ええ、もちろん」
「だったら、せめて女子校とかにしてよ!」
「何を言っているの、駄目に決まっているじゃない。異性がいない中の恋愛じゃ、代替行為の可能性だってあるもの。異性がいる中でも、貴方を選んでくれる人を探しなさい」
横暴だ。この横暴さを正義面して押し通すのが、母という人間だ。
頭をくしゃくしゃにかき回しながら、声にならない声を上げて唸っていると、母が愉快そうに笑ってみせた。
「うふふ、私はあの学校で作れたわよ?彼女」
「え、まじ…!?」
母はバイセクシュアルだ。そのうえ、遊び人。父も母の浮気については女性相手のみ黙認している。それどころか、次はどんな人なのだ、と聞いてくる始末である。
私も学校では変人呼ばわりされるが、この人たちに比べればマシだと思っている。
「ええ、本当よ?――貴方も知っている人」
言葉の意味が分からず、怪訝な表情を浮かべる。すると、母が私の大好きな絵画へと視線を投げた。
…まさか。
絵画の中の美少女を、うっとりとした瞳で眺める母。
思い出の中を一瞬で駆け抜けた母は、条件を飲むか、否かと聞いてきた。
私も、『彼女』に視線を向ける。
そういう運命的な出会いを期待するほど、子どもではない。子どもではないのだが…。
(…私にも、見つけられるのかなぁ…?こんな素敵な人が…)
私の返事はもう、決まっていた。
七月半ばの週末。私は結局、真宵の家に泊まりに行くことを決めていた。
学校終わりの夕方からお邪魔する予定で真宵に続いて歩いており、彼女が明るい声で、「着いたよ」と言うまでは、夏の熱気に肩を落としていた。
だが、赤煉瓦の長く高い塀に囲まれた豪邸を見たとき、私は、それまでのうだるような暑さのことも忘れ、ぽかんと立ち止まってしまった。
庭には美しい花や樹木、池、小川があって、よく分からない像やモニュメント、オブジェクトが並べられている。
想像上の『お金持ちの家』が、現実世界にアップロードされてしまったかのようだ。門はよく分からないセキュリティシステムで閉ざされており、真宵がセンサーらしきものの正面に立ったことで、ゆっくりと開かれた。
「さ、行こう、莉亜」
「ちょ、ちょっと待って!」状況が飲み込めず、私は真宵の腕を引っ張って留める。「ねぇ、本当にこの豪邸が真宵の家?あっちの家と間違えてない?」
「いや、自分の家を間違えるやつなんていないでしょ。っていうか、今のはお隣の山田さんに失礼だよ」
正論を打ち出されて言葉に詰まっているうちに、真宵に腕を引かれて中へと連れて行かれてしまう。
門をくぐると、後ろのほうでそれが勝手に締まり始めた。鉄の門が重なり合う音に、びくん、と肩が跳ねる。
「う、嘘よ…真宵がお嬢様なんて、世の中、狂っているとしか思えないわ…」
「はいはーい、後で覚えとけよぉ、莉亜」
玄関に到着する。ドアノブの上にあるボタンを押せば、磁気装置か何かに反応して鍵が空いた。
「ただいまぁ」と間の抜けた声を出す真宵の後ろに張り付き、まだ心の準備ができていないことを訴えるも、彼女は無慈悲に歩みを進める。
中は意外にも、シックな装いで統一されていた。豪華さのテンプレートに則しているのは、大きな絵画くらいだ。もちろん、ソファや絨毯、暖炉、その他の家具家電だって、洗練された感じなので高級品ではあるのだろう。
「あ、貴方のご両親、何をしている方なの?」
「んー…?お父さんは大学教授、お母さんは画家だよ」
大学教授、画家…。
ただのサラリーマンを父に持つ身としては――いや、サラリーマンだって偉大だとは思うのだが、なんだか特別感のある職種を並べられて、私の緊張は加速度的に増していく。
今日は少なくとも、真宵の母親には会う予定だ。色々と秘密にされているが、わざわざ時間を合わせたのだから、それは間違いない。
応接室らしき場所に通される。縦長の長大なテーブルには、赤っぽい木材で作られた椅子が両側に五脚ずつ、合計十脚並べられていて、一体、どういうときにこれらがフル稼働するのか想像もつかなかった。
真宵に促され、着席する。それから彼女は母を呼んでくると言って離席した。
他人の家にお邪魔するようなこと、何年ぶりかも分からない。緊張でどうにかなってしまいそうだった。
そのうち、私たちが入ってきた扉とは逆の扉から、人の話し声が聞こえ始める。一つは真宵のものだ。普段より心なしかトーンが低い。そして、もう一つには聞き覚えがなかった。おそらくは彼女の母親のものだ。
「真宵、一体何なの?急に。私は忙しいのだけれど――」
「いいから、今日は本当に大事な用があるの。ほら、入って、あ、いや、待って!」
一瞬の静寂の後、コンコン、とノックの音が聞こえた。返事をしたほうがいいかどうか迷っているうちに、「莉亜、入るよ?」と真宵が尋ねた。
「あ、は、はい!」
返事もできない、など思われたくはない。私は慌てて反応した。
扉が開かれる。赤い扉の向こう側から、真宵と、カジュアルなドレスを身にまとった美しい女性が現れる。
真宵のお姉さんなのかと錯覚したが、そんなはずはない。彼女は一人っ子だ。
急いで立ち上がり、頭を下げる。
「あ、あの、お邪魔しています。私、真宵――さんのお友だちで…」
まさに、ハイソサエティの化身といった真宵の母に緊張は最高潮にまで高まる。自分が上手く言葉を紡げているか、覚束ないほどに。
不意に、ゴン、と大きな音がした。何の音かと驚き飛び上がったが、すぐに真宵の母が手に持っていた携帯を落とした音だと気がついた。
「ちょっと、お母さん?」
真宵が声をかけても、彼女は携帯を拾おうともせず、私を凝視している。
明らかに様子がおかしかった。まるで、死人でも見たかのような…。
「あ、あの…」
遠慮がちに呟きを発したことで、ようやく彼女は動き始める。
「…ごめんなさい。その、知り合いに似ていたもので、えぇ、ごめんなさい」
「あ、そうだったのですね…」
よかった、そんなことだったのか、と私は改めて頭を下げて名を名乗った。
「私、風待莉亜と申します。本日はお世話になります」
すると、また真宵の母の動きが止まった。美しい流星のような眼差しだけが、爛々と私の身を貫いている。
妙な沈黙を保つ母を、怪訝そうに見つめていた真宵がやがて口火を切った。
「お母さん、今日、莉亜を家に泊めたいんだけど、あ、それと、あの絵も借りたいんだよね」
「真宵、貴方…お母様に許可を取っていなかったのっ…!?」
信じられない、と真宵を睨みつければ、彼女は口の形だけで『ごめんねぇ』と応じてみせた。確信犯だ、といっそう強く睨みつける。
このままでは、最悪真宵の母に怒られるのでは…。
そう不安になって真宵の母を横目で見る。すると、彼女は独り言みたいに小さく言った。
「おかけになって、莉亜さん」驚くほど優しい声音だった。綺麗で、歌声みたいな。「真宵も、座りなさい」
娘に対しては一転、淡白で無感情な口調だった。瞬時に人格をつけかえるような器用さに、私は舌を巻いて真宵と見つめ合い、大人しく指示に従う。
彼女が椅子を引いて、腰をかけるまでの動きもとても洗練された振る舞いだった。自然と、その言葉を無言のままに待ってしまう。
「…真宵。莉亜さんが、貴方の恋人なのね?」
このように拙い作品をご覧下さっている方もそうですが、
ブックマーク、いいね、評価など、ひと手間加えて応援して下さっている方、本当にありがとうございます。
残り2章程度の物語ですが、このままお付き合い下さると幸いです。
次回の更新は木曜日になっています。
よろしくお願いします…。




