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籠の外のカナリア  作者: null
五章 水滴と少女

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水滴と少女.4

せめて、自分のために脈打つ想いを飲んでしまいたかった。

 彼が発した言葉を聞いて、一瞬、耳を疑った。だが彼はそんな私の反応を気にする余裕もなく、なにかに急かされるようにして早口で言葉を重ねていく。


「幼なじみだった。多分、風待さんと水姫より、ずっと小さいときから一緒だった。良い奴だった、俺なんかより。みんなに平等な奴でさ、腕っぷしも強かったから、虐められてる奴は誰もがあいつを頼ったよ」


 眩しい思い出のアルバムのページを一枚、一枚開くように、早口だった口調が次第にゆっくりとしたものに変わっていく。


「…中学校の卒業式のことだ。あいつ、俺のことが好きだったってカミングアウトしてきたんだよ。冗談じゃないって、すぐに分かった。…俺、すごく驚いて、頭の中、真っ白になってさ。肯定も否定もしてやれなかった。聞かなかったふりをしたみたいに、黙っちまって…。高校は別々だったから、それからそのまま疎遠になって…」


 彼の綴る言葉を聞いているうちに、私は段々と彼がどうして水姫と私にこだわるのか分かった気がした。


(あぁ、そうか…。この人は…)


 私は、自分とは全く違う生き物だと思っていた彼――ヒロが、急に親しい存在として感じられるようになっていた。


「俺、たくさん傷つけたと思うんだ、あいつのこと。何も言わなかったから、伝えられなかったからさ。――だから、風待さんと水姫のこと、他人事と思えないんだよ。このままじゃ、絶対に二人とも後悔すると思うんだ。いくつになっても思い出して、あのとき、ああしていればよかったって、そうやって後悔するはずなんだよ…。だから…」


 優しい忘却は、必ず訪れる。


 真宵が言った言葉がふと脳裏をよぎるが、二年程度の月日では、それらはヒロを迎えに来なかったと見える。


 多弁になっていた自分を恥じるように、ヒロが頭の後ろをかいて黙り込む。その姿は、彼から『清廉潔白な人間』というレッテルを完全に剥がしきるに十分なものだった。


「私、貴方のことを誤解していたみたい」

「え?」


 息を静かに吸い込み、真っ直ぐ、ヒロを見下ろす。


「貴方は人格者だと、できた人間だと思っていたけれど…違うわね。貴方は、自分とその親友との間に生まれた後悔と罪悪感を、私と水姫を利用してうやむやにしようとしている――とんだ卑怯者よ」


 私と同じでね、という言葉は飲み込む。表立ってヒロに共感を寄せることなど、死んでもしたくなかった。


 ヒロはしばらくの間、ぽかんとした表情で私を見つめていた。やがて、嘲笑らしき浅い吐息を漏らすと、「…そうかもな」と肩を落とした。


 眩しさなど、欠片もなくなった。今の彼なら、等身大のヒロなら、私もいくらか素直に言葉を紡ぐことができそうだった。


「…ただ、私は、卑怯で卑屈な貴方も嫌いだけど、人格者気取っている貴方のほうが嫌いよ」

「…は?ど、どういう――」

「水姫のこと、考えてみるわ」


 そう答えた私は、すっと立ち上がり、雨のベールへと向かって歩き出した。


 真宵の言う通りだ。


 完璧に見える人間など、つまらないだけだ。相手をする気にも、話を聞いてやる気にもなれない。だが、一つ仮面が剥がれて、自分と同じような汚い人間なのだと分かれば、多少はシンパシーが潤滑油になって、気持ちが伝わってくるというものだ。


 絶対に後悔する、か。


 そんなこと、言われなくても分かっている。


「あ、おい、風待さん、濡れるぞ…」


 彼の警告通り、私の全身は雨によって打たれ、しとどに濡れてしまう。


 それでも、今は不思議と気にならなかった。


「貴方も…人に変わることを要求するなら、自分を変えなくてはならないわよ」


 雨の祝福の中、振り返る。驚いたヒロの滑稽な顔に、つい口元が綻ぶ。


「死んでいるわけじゃないのでしょう、その人」


 そのまま真宵の元へと向かうべく、中庭を後にする。


 背中のほうで、ヒロが何か呟いているような気がした。


 だが、何と言っているかなど私が知る必要はない。


 電気を切るみたいにして、私は彼のことを意識の中から押しやった。



「あのさぁ、莉亜…」

「…分かっているわ、分かっているから、言わないで」


 つくづく呆れた、と言わんばかりに真宵の声と表情から目を逸らすが、彼女は容赦なく言葉の続きを口にする。


「一体、何があったらそんなにずぶ濡れになっちゃうわけ?びっくりを通り越して、呆れるんだけどぉ…ほんと、私を呆れさせるなんて、たいしたもんだよ」

「う、うるさ――くしゅんっ!」

「あぁ、もう…」


 大きなため息と共に、真宵が私の髪をくしゃくしゃとタオルで荒っぽく拭く。タオルはわざわざ保健室まで行って借りてきたものだ。彼女はハンカチ一つ持ち歩かない。


「風邪を引いたらどうするの」と珍しく叱るような口調になった真宵の声を聞いて、もしかすると、本当に幻滅されたのではと不安になって相手の顔を見上げる。

「ご、ごめんなさい」


 目が合った真宵は一瞬たじろいだふうに言葉を喉に詰まらせていた。やがて、すぅっと視線を逸らすと、赤い顔でタオルを差し出してくる。


「…外出てるから、ちゃんと中も拭きなよ」


 真宵と付き合って分かったことの一つに、意外と色情魔ではない、ということもある。


 付き合うまでは、無理やりキスされたことが二度ほどあったが、付き合って以降、そういうことは一度もない。どう考えても順序が逆な気がするが、そのちぐはぐさが葉月真宵という人間を如実に示しているような気もする。


 そのせいで、触れる、ということは私が意思を示さなければ起こらないコミュニケーションでもあった。


 平和的で悪くはないが…それはそれで、不平等な気がする。


 私は、差し出されたタオルを受け取らず、ただじっとタオルを見つめてから、次に真宵の瞳を下から覗き込んで言う。


「…真宵が拭いてくれないの?」

「ちょ…莉亜――」


 視線が真っ向から重なる。真宵は何か文句をつけようとしていたようだが、こちらの瞳から何かを読み取ったのだろう、唐突に黙り込んで視線をさまよわせる。


 しばしの逡巡の後、小さい声で、「分かった、肌着だけになって」と真宵がぼやく。


 自分で口にしてから、とんでもないことを言ったのではないか、と狼狽しかける。だが、こちらもからかったつもりはないので、羞恥を飲み込み肌着だけになった。


 しん、と美術準備室が静かになった。


 宙を舞う塵が床に降り積もる音でさえ聞こえてきそうな静寂。


 隣の部屋から聞こえてくる話し声も、膜一枚隔てた先のものに感じられる。


 すでに遮光カーテンは閉まっている。外界とのつながりは、ここには微塵もない。


「いいわよ、真宵」着替える間は壁のほうを向いていた真宵に声をかける。彼女は一拍置いてから、こちらを振り向いた。


 ハッと真宵が息を呑んだのが分かった。そのうえで、平静さを装おうとしていることも、静寂にこぼれる吐息から察せられた。


 濡れた腕を差し出すと、真宵が後ろからタオルで優しく拭いてくれる。壊れ物を扱うみたいに繊細な手付きだ。


 右腕、右肩、首筋、左肩、左腕…鎖骨や胴回りをし拭いたあたりで、一旦、真宵は私から離れた。あえて触れずにいることが、彼女も意識していることを示している。


 ぞくぞくした。肌は粟立ち、吐息は漏れる。もはやどこに鳥肌が立っていて、どこが立っていないのかも分からない。全身が痺れてしまうような錯覚が脳髄を支配した。


 次に真宵は、ゆっくりと私の正面に回った。上気した頬を見て、私も今同じような顔をしているのだろうと考えた。


 真宵が騎士のように跪き、じっと身動きするのをやめるから、私はスカートの裾を自ら上げた。太ももの際どいラインまで動かせば、自然と真宵が再び体を拭き始める。


 互いが互いにとって、どれだけ扇情的なことをやっているのか、分かっていた。


 この危ういアンバランスさこそが、花開く前の私たちだけに許された、限りなく美しい在り方なのだと…なぜか、そう直感していた。


 太ももを拭き終えた真宵が、前のめりの姿勢で下から見上げてくる。


 白メッシュは闇を照らす白銀の閃光だ。それの前には、私も口をつぐんだままではいられなくなる。


「…今度、水姫ときちんと話そうと思うの」

「…そっか」

「聞かないの?」

「なにを?」

「理由とか…内容とか」


 真宵は、ふっ、と微笑んだ。それから、おもむろに私の太ももに口づけを落とすと、目を閉じたままで告げる。


「どっちもいらない。色々考えて、莉亜が自分で決めた――それで十分だよ」


 それは愚かな信頼か、それとも、美しい逃避か。


 せめて、自分のために脈打つ真宵の想いを飲んでしまいたかった。


 上体を曲げて、真宵の白いメッシュを手に取る。


 まだ、私と同じで濡れていた。


 小さな雫を、舌先ですくい、私の中へと流す。


 そっと落とした口づけを見送った真宵の視線と、私の視線が重なる。


 何かを言うべきかとも思った。だが、言葉など今はただ無粋なだけだと思い、私はそっと目を閉じるのだった。

ここまでご覧いただき、ありがとうございます!


次回の更新は火曜日になります。

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