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籠の外のカナリア  作者: null
五章 水滴と少女

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水滴と少女.3

白いシャツに茶色のシミが広がる。

その汚れは、まるで私の意地汚さ、卑怯さを表しているようだ。

 六月に入れば、すぐに梅雨の洗礼を受けた。


 ある日の放課後、しとしと降り続く雨が、中庭にある東屋の屋根を叩いた。この場所は、教室では好奇の眼差しを受ける私たちにとって、すっかりちょうどよい休息の場になっていた。


 真宵は作品を顧問に急かされて嫌気が差しているらしく、準備室ではなく見つかりにくいここを選んだ。


「ほい、コーヒー。微糖でよかったよね?」


 雨の雫を白メッシュの先から垂らした真宵が、片手を出してコーヒーの紙パックを差し出した。私はお礼を告げてそれを受け取ると、曖昧に微笑みながらハンカチをポケットから取り出し、真宵の濡れた頬を拭いた。


「ほらもう…傘も差さずに行くからよ」

「ん?あぁ…水も滴る良い女でしょ?」

「はいはい」


 いつもの減らず口だ。気にも留めずに紙パックにストローを突き立て、中身をすする。


 学校の中庭には四季折々の草花が植えられており、この時期は紫陽花を楽しむことができた。一息つくのに贅沢な光景だ。


「よいしょ」と隣に腰を下ろした真宵の横顔を見ながら、確かに雨に濡れた彼女も艶っぽくて悪くないな、と考える。


「ごめんなさいね、真宵。私の分まで買ってきてもらって」

「別にいいよぅ。この間は莉亜が買ってきてくれたんだから」

「じゃあ、お言葉に甘えるわ」


 雨の音に耳を澄ませる。それだけで心が洗われるようだった。


 真宵と付き合って、一ヶ月余りが過ぎようとしている。それなりに遊んで、それなりに学業に励んでいるが、友人だけは増えなかった。


 美術部員という新たな拠り所は見つけられたが、所詮は人見知り。心を開くことはまるでできずにいた。


 やはり、真宵や水姫のように、自分のほうから相手の心の中に土足で踏み込めるような人間でないと、一定以上の関係も築けないらしい。


「あ、そーだ。莉亜、家においでって話、覚えてる?」

「もちろん。貴方がいつまでも言わないから、てっきりうやむやにするつもりだとばかり思っていたわ」

「もー、ごめんってば」と冗談を笑って軽く流した真宵は、そのまま説明を続けた。「お母さんの都合がね、七月ならつきそうなんだ。だから、そこでどうかな、お泊り」

「ちょ、ちょっと待って、どうしてそこで真宵のお母さんが出てくるの?というか、お泊り?どういうこと、順を追って説明して」


 真宵は、「まぁまぁ」と適当な相槌を打つと、くるりと目を回した。どこか愉快そうである。


「来てもらえれば分かるから、お願い、ね、莉亜」

「お願いって…わ、私、貴方のお母様と会ってどんな話をすればいいの…?」

「んー…そのへんは、私たちに任せてていいから。あ、恋人云々は話してないから、安心して」

「あ、そうなの…」


 てっきり恋人として挨拶しなければならないのかと思ったが、そうではないらしい。安心したと言えば安心したが、問題はまだ残っている。


「…それで、どうしてお泊りなの」

「え?普通に楽しそうじゃん、お泊り」

「あのね…、そんなことを急に言われても困るのよ」

「ぶぅ」

「なに、その顔?わがままを言ってもダメよ」

「『貴方も私にわがままを言って』」


 普段、真宵が出さないようなやたらと大人びた声を聞かされて、私はぎょっとして動きを止めてしまう。


 いつもなら砂糖菓子みたいに甘い声を出すくせに…。やろうと思えば、あんなクールで艶っぽい声が出せるとは驚きである。


 いや、そんなことより…。


「ちょっと待って――今の、私のモノマネなの!?」

「ふふ、似てるでしょ。最近は毎日聞いてるからね」


 ということは…私は自分の声真似を聞いて、艶っぽいだとかクールだとか思ったということになってしまう。それは、なんだか酷く恥ずかしかった。


「似てないわっ!しかも、今の私が、その…こ、告白したときの言葉じゃないっ!冗談でもやめて!」

「お、おぉ…すごい怒ってる」

「当たり前じゃないっ!」


 じろりと睨みつけると、さすがの真宵も焦った様子で何度も頭を下げてきた。


 告白のときの台詞でからかうなど、悪趣味にもほどがある。ここはしっかりと反省してもらわなければならない。


 ある程度溜飲が降りるまで真宵を叱りつける。しゅんとした態度に少しばかりやりすぎたか、とバツが悪くなるも、前言を撤回する勇気はない。


 しかしながら、冷静になってみれば真宵の言うことにも一理はあった。


 私は彼女に、きちんとわがままを言うことを、『フェアでありたい』という考えからお願いしている。それを踏まえれば、真宵のお願いを無下に叩き落とすことは矛盾している気もするのだ。…もちろん、声真似をする必然性は皆無だったが。


 さて、どうするかと迷っていると、雨の降りしきる中庭に招かれざる客が現れた。


 その客は私と真宵がいることを確認すると、軽く会釈しながら、こちらへと駆け寄って来た。警戒心を隠さない私の様子に、相手だけではなく、真宵も気遣わしげな視線を送ってくる。


「雨、すごいね。ここにいたら濡れない?」


 彼の言葉には応えず、私はじっと相手を見据える。さっさと本題に入れ、と念じながら。


「人気者のヒロ君が、一体どうしたの?こんなところに」嫌味たっぷりの言葉にも、彼は動じない。「あぁ…少し、風待さんに用があって」


 刹那、嫌な予感がした。虫の知らせとでも言うのか、雨で頭を濡らしてでもこなさなければならない彼の『用事』に、直感的に脳が警鐘を鳴らしていた。


「ふぅん、で、何の話?」

「それは…」


 どうやら、真宵がいると言いづらい内容らしい。ますます自分の予感が当たっている気がした。


「できれば、風待さんと二人きりで話がしたい。無理かな?」


 誠実さを音にしたような声だ。気に入らない、と妬みが鎌首をもたげる。


 そうして私が敵意を隠さずに彼の目を真っ直ぐ見返していると、刺々しい声で真宵が割り込んできた。


「…ちょっと、聞き捨てならないなぁ。『私』の莉亜なんだけど。日乃水姫の恋人なうえに、男でもあるアンタとこんな人気のないところで二人きり?冗談じゃない、とっとと失せろ、ばか」


 驚くほどの罵詈雑言に混じって、私たちの関係性を隠そうとしない言い回しがあったことが気になり、真宵のほうを見つめる。彼女は私の視線を受けて、唇の形を『ごめん』と動かした。


「待ってくれ、俺は――」

「分かっています」


 そうだ。分かっている。誠実な彼は、そんなこと天地がひっくり返ってもしない。そして…話の内容がなんなのかも、分かっている。


 彼の言葉を遮った私は、一つため息を吐くと、真宵に向かって頷いた。


 こちらの意図を察した真宵は、初め渋る様子を見せたが、「大丈夫だから」と努めて冷静な口調で私が告げたことで、「顧問のところに顔を出してくる」と言い残して中庭から去って行った。


 見えなくなる際に、一度だけ私を振り返った真宵の不安げな面持ちに申し訳ないことをしている、と胸が痛む。だが、いつまでも彼にまとわりつかれるくらいなら、さっさと引導を渡しておきたかった。


 いつの間にか雨脚が強くなっていた。屋根を打ち付ける雨音は激しく、穏やかな旋律は影を潜めていた。


 失礼、と一言口にして、彼が私の隣に座る。


 何かを切り出そうとしている雰囲気を察して、私はあえて先に口を開いた。


「話は…水姫のこと、ですよね」


 こくり、と神妙な顔で頷く彼の姿に、私は大きくため息を吐いた。




 最近、水姫が風待さんとのことで悩んでいるようだ…そんなふうに彼は話の口火を切った。


「あまり昼食も入らないようだし、休日も外に出ることが極端に減っている。水姫は、他人に比べて活動的すぎるくらいあったたから、その量が減るのは構わないと思うんだが…どうにも、食が細くなるのはなぁ」


 絡めた自分の両手をじっと眺める彼は、とても深刻そうだ。もちろん、話を聞いた私だって水姫を案ずる気持ちは湧いてきたが、こんな話を私に聞かせてどうしたいのだと苛立つ気持ちも生まれていた。


「…どうして、それを私に話すのですか」

「どうしてって…」


 困惑する彼の視線から、『君のせいだろう』というふうな意思を感じてしまい、私は眉間に皺を寄せる。


「そういう役目は、もう貴方のものです。私と水姫は、もう親友じゃない」

「…言い切ってしまえるのか」


 今度は彼のほうが眉間に皺を刻んだ。


「水姫のほうは、まだ親友のつもりみたいだぞ。風待さんは、そんなふうに突き放してしまっていいのか?」


 日頃、彼の口からは温厚な口調しか聞いたことがなかったから、こういう厳しめの話し方には少し驚いた。だが、むしろこっちのほうが個人的には話しやすい。気を遣って話さなくていいからだ。


「私がどういう人間か、貴方もご存知のはずです」


 同性愛者であることを遠回しに表現すれば、彼は素早く察してくれた。一瞬で表情が曇った。


 憐れまれた、と私は瞬間的に思った。


 それが、どうにも気に入らなかった。


「だったら、私が水姫に対してどんな感情を抱いてしまったのかも…貴方なら、分かるでしょう?」

「それは…、なんとなく、だけど」

「じゃあ、そんな私に一体なにをしろと貴方は言うのですか?」

「…水姫ときちんと話をしてあげてほしい」


 ほらきた、とうんざりした気分で私は彼を睨みつける。


 どうせこんなことだろうと思っていた。彼は、あくまでも水姫のよき彼氏なのだ。つまり、水姫への想いを断ち切ろうとしている私にとっては疫病神だ。


 もう仮面を被る必要もない。


 全身全霊で彼を打ち払い、追い返さなくては。


「…ふ、呆れたわ。子どもの喧嘩に親が出てくるのね」

「それじゃあ、子どもみたいなことをしている、という自覚はあるんだろ」

「ただの比喩よ。そんなことも分からないのかしら」


 彼は、私の鋭い眼差しにも負けずに応える。


「そういう言い方をせずに、頼む。今みたいに、喧嘩別れしたような感じは風待さんも嫌だろう?」

「私の気持ちが分かるような言葉、口にしないで。不愉快だわ」


 我慢できずに、私は突っぱねるようにして言う。


 心臓がドクン、ドクンと拍動して、私の心を昂揚のステージへと押し上げるのを感じる。このままではろくなことを言わないと分かっていても、もう止まらなかった。


「それで、貴方の望み通りにするとして、私は何を話せばいいのかしら?水姫のことが好きだったって言うの?貴方なんかと別れて私と付き合おうって?それとも、額を地面に擦りつけて謝れば、それで満足?――下らない。貴方のお願いを聞くなんて絶対に嫌、まっぴらごめんよ」


 言葉を弾丸のように撃ち出す。ちょうど、中庭に降りしきる驟雨の如き様相であった。


 今日が雨でよかった。そうでなければ、たちまち人が集まってきていただろう。


 教室ではほとんど口を利かない私が、これだけまくし立てることができるとは思ってもいなかったのだろう。彼はとても驚いた様子で口をぽかんと空けていた。


 それが爽快で、私はもっと唖然とさせてやろうと思い言葉を連ねる。


「私が貴方のことをどんなふうに思っているか分かるかしら?えぇ、そうね、正直に言って、貴方なんかが私たちの前に現れなければ良かったのにって、そう思っているわ」


 生まれて初めて、意図して他人を傷つけようと言葉を編んでいる。水姫のときとは違う、今回は明確な敵意をもって言葉を選んだ。


 彼が私に失望して、水姫と私の復縁を諦めてしまえばいい。それができずとも、彼が傷つけばそれでいいとも思った。


 しかし…彼はどこまでもできた人間だった。


「…俺が、水姫を取ったからか?」


 その言葉にカッとして、気づけば私は真宵が買ってきてくれたコーヒーの紙パックを彼に投げつけていた。


 その気になれば受け止めるなりできただろうに、彼は甘んじて制裁を受けた。


 白いシャツに茶色のシミが広がる。その汚れは、まるで私の意地汚さ、卑怯さを表しているようだ。


「分かったような口を利かないでって、言ってるでしょうっ!」


 彼はとぽとぽとストローの先から中身を垂らす紙パックを縦に戻して隣に置くと、一つため息を吐き、「そんなになるくらい水姫のことが大事だったなら、なおさらきちんと話さなきゃいけないんじゃないのかよ…」とぼやいた。


 ――負けた。


 なぜだか私は、直感的にそう思ってしまった。


 精神の成熟具合が、彼と私とではまるで違う。


 感情に突き動かされることもなければ、自分の意見を押し付けるわけでもない。終始、提案という形からぶれていない。


 私は、すっと彼に近づき、自分がたった今ぶちまけたコーヒーをハンカチで拭き取り始める。


 真宵の匂いがふわりとハンカチから香った。そういえば、彼女の頬を拭ったものと同じだった。


(…分かっているわ、真宵。こんなの…こんなの、ただの八つ当たりよね…)


 すまん、と逆に謝ってくる彼に対し、私も歯を食いしばり、「いえ、取り乱してごめんなさい」と謝った。


 謝罪の言葉は、思っていたよりもすぅっと胸に落ちた。何を意地になっていたのか、と馬鹿らしくなるほどに。


 汚れを拭き取り終えた私は、意を決して姿勢を正し、彼を見据えた。


 少しずつでも、変わらなくてはならない。


 そうでなければ、真宵に言った言葉も嘘になってしまう気がする。


「どうして、貴方はここまでするの…?水姫のためにしても、度が過ぎているわ」


 すると、彼は逡巡するように顔を上げたり、下げたりしてから、最後に深く俯き、その心情を吐露した。


「実は、俺の親友も…その、ゲイ――同性愛者だったんだ」

みなさん、お疲れさまです。


みなさんのちょっとした楽しみになれればと、執筆しておりますが、


一ミリくらいはそうなれているでしょうか?


何はともあれ、ご覧になって頂きありがとうございました!

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