水滴と少女.2
世界を一瞬で切り取ることができた全能感に、私の心はより昂ぶる。
放課後、私は真宵がいる美術室を訪れた。
すでに顔なじみになった美術部部員たちが、私の顔を見て気軽に挨拶してくれる。こんな私が安心して接することができる数少ないメンバーだ。少しでも、愛想よく振る舞っておきたいがために、作り笑いで――出来は悪いが――手を振る。
彼女らには、お試しの段階から私と真宵の関係を伝えている。これについては真宵がきちんと確認してきたし、すでに同性愛者である真宵を受け入れている実績もあったため、私も勇気を出して許可していた。
友人、と呼ぶには互いのことを知らなすぎるが、少なくとも敵ではない。それが分かるだけでありがたいものだ。
真宵なら奥にいるよ、と分かりきっていることを教えてもらい、そちらに向かう。
扉を開ければ、ちょうど真宵は小窓の外を眺めていた。
陽の光を浴びて、白メッシュがきらりと輝く。珍しく物憂げな横顔に、不覚にも胸がドキリとした。
そんな感情をごまかすようにして、私は呆れた調子で声をかける。
「コンクールの作品、描き始めなくていいのかしら?先生に催促されているのでしょう?」
「うん…」
上の空の相槌に、私は怪訝な顔を浮かべながらも話を続ける。
「コンクールって、ほかのみんなは描かないのよね?私、色々と見てみたかったのだけれど…」
「うん…」
またぼんやりとした受け答えだ。さすがに少し心配になって、私は真宵のそばに近寄って肩に触れた。
「真宵、体調でも悪いの?」
「あ、莉亜…」驚いたことに、私が来ていることに今気がついたようだ。「いやいや、体は元気だよ。心配してくれてありがと」
「じゃあ、一体どうしたのよ。まさか…なにか悩みでもあるの?」
「ちょっとぉ、『まさか』は余計だよ。私だって花も恥じらう乙女なんだから、悩みの一つや二つくらいあるの」
唇を尖らせて応じる真宵に、それではどうしたのかと問いかける。すると、彼女は一瞬躊躇したふうに視線を逸らしたが、ややあって首の後ろを撫でると理由を話し始めた。
「…お昼、ごめんね?」
「お昼?」
「だから…日乃水姫と話してたとこに、割り込んだじゃん」
あぁ、と納得し声を漏らす。
「莉亜がまだあいつのことを想っていてもいい。そう言ったのは私だし、しかも、昨日のことなのに…なぁんか、面白くなくて邪魔しちゃった。もうちょい、もうちょいね、自分のことをコントロールできると思ってたから、自分に幻滅しちゃった」
「そう…そうだったのね」
その話を聞いて、不思議と私は悪い気はしていなかった。
嫉妬してもらえる、ということは、それだけ私のことを誰にも譲りたくないと考えている証拠だ。
水姫を失った今の私にとって、独占欲は甘い果実だ。
それに、一つ、真宵のことを知ることができた。それは喜ばしいことだった。
だが、一つずつだって構わないはずなのに、もっと、もっとと知りたくなるのはなんなのだろうか。
これが…人を好きになるということなのだろうか。
「私、貴方のことが分からないわ」
正直なところを口にすると、真宵は小さく息を吐いた。
「はぁ、私もぉ」
「…自分のことなんて、自分だってよく分からないわよね」
自嘲気味に笑うと、真宵も一緒になって笑ってくれた。それだけでなにかが救われた心地になる。胸が、ぽかぽかとした温もりに満ちた。
温みは指先に広がり、私の感情を駆り立てる。
「真宵」と呟きながら、こちらを向いた彼女の頬に手を当てる。少し身を寄せれば、私が何をしようとしているのか理解したらしく、彼女は挑発的に微笑んだ。
「ちょっとぉ、学校だよ、ここ」
「…どうせ、誰も来ないわ」
「外から丸見えだって」
「…なに、嫌なの」
「うぅん、嫌ってことはないけどぉ」
確かに、窓の外は校舎裏。誰かが通らない保証はない。
「ほらぁ、お天道様もご覧ですぞ」
そんなふうに真宵がはにかむものだから、変にムキになった私は、素早く空いた手でカーテンを閉めた。
薄闇が美術室を飲み込む。
世界を一瞬で切り取ることができた全能感に、私の心はより昂ぶる。
「これで、無粋な光は消えたわ」
「もぅ」
言葉とは裏腹に、真宵のほうから体を、唇を寄せてくる。
優しい感触が数秒続く。これ以上、くっついていたら、またこの間みたいに止まらなくなりそうだったため、名残惜しくも顔を離す。
扉の向こうの美術室から、部員たちが談笑している声が聞こえてくる。この部屋は『美術準備室』とは名ばかりで、ほとんどが美術特待生の真宵のためにあるようなものらしかった。
「私、真宵のことがもっと知りたい」
真宵は目を丸くしたが、すぐにいつものニヤニヤした表情に変わる。
「なになに、早速私の魅力に興味津々な感じ?」
「…こういうときに茶化すのは、貴方のよくないところね」
「わわ、ごめんって。照れ隠しだと思ってよぉ」
浅くため息を吐いて、苦笑いを浮かべる。私の顔を見て、別に怒っていないことを察したらしい真宵は、どういうわけかはにかんだ。
微笑みの理由すら、私には分からない。それが酷くもどかしい。
「色々と知りたいって思っていたけれど…そうね、まず大事なことがあるわよね」
「お、いいよぅ、なんでも聞いて?莉亜の質問なら、スリーサイズだって答えちゃうよ」
「馬鹿、お調子者」
えへへ、と笑う真宵にそわそわした気持ちになる。今から聞こうとしている内容も相まって、少し緊張しているみたいだ。
「どうして、私のことを好きになったの?」
「え?」
「肝心なところを聞いていなかったの。付き合うなら、大事なことよね」
そう、やはり大事なところだ。
真宵は付き合う前、それこそこの美術室準備室で初めて出会ったその日から、『綺麗だから』などというよく分からない理由で私に執拗な接触を繰り返してきた。
今となっては、なんとなく分からないでもない理由だが、それだけで自分を選んだとは思えないし、思いたくない。
だからこそ、今この場ではっきりと私を選んだ理由を聞いて、胸の内を晴れやかにしておきたいと思ったのだが…。
「あー…まぁ、運命感じて一目惚れ?」
「…なにそれ、お得意の『綺麗だったから』じゃないでしょうね」
「うっ…な、なんで怒ってんの?」
「別に」
私は真宵の返答に不服さを覚えていた。もっと、高尚な理由があると期待していたのかもしれない。
「じゃあ、これから私より綺麗な人が現れたらそっちを好きになるのね。ふん、それじゃ、私たちの関係も長続きしなさそうだわ」
「ちょ、よくないよぅ?そういう怒り方は」
「しょうがないじゃない。事実なんだから」
追い打ちをかけるように私が冷たく言い放つと、真宵は困ったように眉を曲げる。
さすがに意地が悪かっただろうか…。
私が少しばかり反省していると、真宵が降参だと言わんばかりに両手を挙げた。
「あぁもう、違うの、ちーがーう。運命だと思ったのは本当なんだよ」
「はぁ…言うに事欠いて、『運命』?私がロマンチックな解答を求めていたと思っているならお生憎様。そんな戯言で機嫌を良くしたりしないわ」
「そう言われると思ったから言わなかったんだけど…」
「なに、私のせいにするの」
「違うって、あー…分かった、今度、絶対に話すから、ね?今は違うことを聞いて。ほら、スリーサイズでも教えてあげようか?」
「ダメ、ごまかさないで。今すぐ教えて」ぎゅっと手を掴んで、逃さない意思を示す。
「うぅ、しつこい…」
「貴方がしつこく私を追い回していたときに比べれば、可愛いものよ!」
軽く叱責しながら私が問い詰めていると、やっとのことで真宵は、「これについては実物がないと説明できないの!」と核心に近そうな発言をしてみせた。
「実物…?」
訝しがる私に対し、真宵は辟易とした様子で答える。
「そう…。そろそろ約束の絵も描きたいから、近いうちに私の家に遊びにおいでよ。そうしたら嫌でも分かるから、私が莉亜を好きになった理由も、私が渋った理由もね」
あ、と同じ生徒会のメンバーである真希が小さく声を上げたのを聞いて、私は顔を上げた。
「どうしたの、真希?」
「あ、水姫、いや、えっと…」
真希は不思議と言いにくそうに視線を逸らした。それを怪訝に思った私は、真希が座っている席の近くへと移動して、彼女が見ていただろう方角を――窓の外を見やった。
その数秒後、私は心臓がぎゅっと収縮する感覚に息を詰まらせた。
窓の向こう、本校舎の二階の窓枠に二人の少女が寄り添い合っているのが見える。
頭を二つのお団子ヘアで結び、前髪に意味の分からない白メッシュを入れて長く垂らしている少女、そして、黒く、美しい長髪の背が高い少女…。
間違いない、莉亜と葉月真宵だ。
「相変わらず、仲良いよね」真希が遠慮気味に苦笑する。「…あんなの、葉月さんに莉亜が巻き込まれてるだけ」
自分に言い聞かせるように呟いても、心は軽くはならない。
初めの頃はどうだったか知らないが、最近は莉亜のほうからも真宵に関わりを持っている。巻き込まれているだけなら、自分から話しかけにいかなければいいだけだ。
私の考えが正しいことを裏付けるように、莉亜が真宵の頬に手を添えた。それを見て、ハッと息を飲んでいると、後ろからヒロが口を挟む。
「盗み見ていいものでもなさそうだな」
「べ、別に盗み見てなんてないもん…」
そう言いながらも、私の視線は莉亜に釘付けだった。
莉亜の白魚のような指先が、彼女に触れる。そのときの気軽さが、親しみが、心を許したような様子が、酷く気に入らない。
(あの言葉って…私のこと好きって意味じゃなかったの…莉亜)
だとしたら、どうして私のところではなく、葉月真宵のところにいるのだ。
私たちの関係は、恋人でなければ続けられないものだったの。
私は、今までの関係で十分楽しかったよ?
親友である莉亜がいて、ほかにも友だちがいて、ヒロっていう彼氏までできた。
それがダメだったの?
でも、それじゃあ私、どうすればよかったの?
莉亜だって何も言ってくれなかったのに、私に何かできたはずないじゃん。
…何か言ってもらえていたら、莉亜の隣にはまだ私がいた?
あのうっとりするくらい綺麗な指は、私の頬に添えられていた?
…分かるわけない。そんなの。
真宵がなにか言ったことで、莉亜が素早くカーテンを閉め切った。そのせいで、一切が不可視のベールの向こうに消えてしまった。
ぎゅっ、と拳を握る。
(…なにするつもりなの、カーテンなんか、閉めて…!)
脳裏によぎるのは、邪な妄想。
莉亜の美しい肌が、私が見たこともないほどにあられもない様子で薄闇に浮かぶ…。
順風満帆なはずの人生が、どこかで狂い始めていた。
そんな私の様子を見て、フォローするみたいに真希が言った。
「女同士なんて、ちょっと変だよね…」
その言葉を耳にして、一瞬体の内側がカッと熱くなるのを感じた。
真宵のことはどうでもいいが、莉亜のことをそういうふうに差別するのは許せない、と。
しかし、直後、すっと血の気が引いていった。
私自身、莉亜に同じようなことを告げていたではないか。
――…ホント、気持ち悪いよね。莉亜をそんな目で見てるなんて。許せないよ。
莉亜は、もしかすると、いや、多分、きっと…私を『そんな目』で見てた。
(…言えるわけ、ない。あんなことを私に言われた後に、女の子が好きだなんて、口が裂けても言えるはずがない…)
すると、水底にゆっくりと沈むように俯いている私の頭上で、ヒロが珍しく険しい声音で真希を叱責した。
「おい、そういうことは一人のときに言えよ」
「…じょ、冗談じゃん」
「そうだろうな。でも、聞く人によっては冗談じゃ済まなくなるぞ」
ヒロ、と下から名前を呼ぶも、彼はまるで聞こえていないみたいに真希を言葉で追い詰める。
「今は多様性の時代だ。学生のうちにそういう癖を直しておかないと、大人になったときに恥をかくんじゃないか」
真希は普段は温厚なヒロに厳しくたしなめられたことがよっぽどショックだったらしく、青い顔をして俯いてしまった。ヒロも少しばかり罪悪感を覚えていそうだったが、それでも毅然として、私のほうを見やる。
「…正直、水姫が俺の代わりに怒ると思ったけどな」
「え…?」
「親友の生き方のこと、あんなふうに言われて…。俺なら黙っていられない」
空気を切り裂くような一言だった。
ヒロに幻滅された、ということも酷く胸を痛めた原因ではあるが、それ以上に、確かに、昔の自分なら真っ向から怒ることができたはずだと思ったのだ。
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