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籠の外のカナリア  作者: null
一章 禁断の果実
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禁断の果実.1

書き手が根暗だからでしょうか?

いつも主人公は暗くなります…。

 いつもの時間に起きて、いつもの朝食を済ませる。食パンにピーナッツバターを塗っただけの手軽な朝食だ。


「ごちそうさま」誰も見ていなくとも、きちんと手を合わせる。


 自分以外、誰もいない食卓。これが日常風景だ。


 父は都心へ単身赴任。母は、私を産んで間もなく亡くなっており、ほとんど顔も覚えていない。


 叔母が様子を見に来ることもあるが、滅多なことでは現れない。家事はきちんとこなせているし、夜遊びするような人間にも見えないからか、それとも、面倒は遠ざけたいのか…どっちにしろ、興味はない。


 いわゆる父子家庭で育った私にとって、この孤独な朝は何も特別なことではない。ただ、だからといって、寂しさを感じないというわけではなかった。


 私にとって、そうした物足りなさを埋めてくれる存在が、日乃水姫だった。


『おっはよー!莉亜、起きてる?』


 毎朝、私が起きていることを知っていながら、そう尋ねる水姫。


 愛らしい声と笑顔でインターフォンの前に立つ彼女を見るのが、私の朝の幸せな日課だった。


 しかし、それも一ヶ月ほど前から変わってしまった。


 小さくため息を漏らしながら、食事の片付けをする。朝食は、何もかも効率良く行えるようなメニューにしているため、洗い物もほとんどない。


 小さなキッチンカウンターの向こう側にまわり、安物のインスタントコーヒーの準備をする。時刻もまだ七時半頃なので、まだ三十分ほど余裕がある。


 カップにコーヒーの粉を入れ、砂糖を一匙入れる。お湯を注ぐと同時に漂い出す芳醇な香りからは、値段以上の価値があるように思えてならない。


 まだカップに半分以上コーヒーを残して、制服に着替えるために洗面所に移動する。


 洗面台の鏡に映った自分の顔は、どこか疲弊しているように見えた。


 睡眠時間もきちんと確保しているのに…、あの日から、陰鬱とした色が消えていない。


 黒を基調とした生地に、赤と白の縦ラインが引かれた制服に袖を通す。痩身で身長が高くて、一部以外はマッチ棒みたいな体つきは、昔から変わらない。


 気付けば、鏡の中の自分が自分を睨みつけていた。


(いつ見ても忌々しい顔だわ。つまらなさそうな顔なんてして…)


 考えれば考えるほど、私は目の前で佇む自分そっくりの女が憎たらしくなった。どんどん深くなっていく眉間の溝に黒々とした影が横たわったとき、ぼそりと、鏡の中の女が呟いた。


「消えてよ…」


 自分の唇から漏れた呪詛の言葉に、ハッと我に返る。


 鏡に映る父のカミソリに視線を吸い寄せられてから、慌てて歯磨きを済ませ、またリビングに戻った。


 よくない。本当によくない。一ヶ月も経ったのに、いつまでこんな時間を繰り返すつもりなのか。


 いつでも登校出来る準備を整え、キッチンカウンターとセットになっているバースツールへと腰掛け、コーヒーをすする。


 このまま陰鬱な気持ちでいるくらいなら、ニュースでもつけるか、あるいは本でも読むか、と迷ったが、そうこうしている間にインターフォンの音が鳴った。


 音を聞いて、素早く立ち上がる。放っておけば再度呼び鈴が鳴らされるか、玄関先で元気に叫ばれてしまうのだ。


「はい、今行くわ」


 かつて、その響きは福音だった。


 私の孤独を照らす、天使の来訪を告げる福音。


 しかし、繰り返すようだが、今は違う。


 学校指定の鞄を片手にドアを開けると、そこには弾けるような笑顔を浮かべた水姫が立っていた。


 平均的で、私よりも10センチほど低い背丈の水姫が、首をやや傾けてこちらを見上げていた。


 上目遣いの可愛らしさに一瞬だけ見惚れていたが、すぐに水姫の後方、門の向こう側で我が家の敷地に入るかどうか迷っている男子生徒の姿に気付き、ぎゅっと拳を握った。


 彼は、私の目線に気が付くと、丁寧に頭を下げた。ひと目で好青年であることが分かる仕草だ。


 いっそ、彼がゴミクズみたいな男だったなら、私もここまで苦しむことはなかっただろう。


 水姫と彼が付き合い始めて一ヶ月が経った今でも、こうして水姫は毎朝私を迎えに来てくれる。そこに複雑な想いがあったことは、言うまでもあるまい。


「おはよ!莉亜。今日も綺麗だね」


 何も知らない水姫は、こんな発言を中学の頃から繰り返している。たとえ、口癖じみて言われている言葉だと分かっていても、この無節操な心臓は許可なく跳ねる。


「おはよう。水姫も――」施錠して、彼女の横を通り抜けながら口を開くも、すぐに口をつぐむ。「水姫も?」


 不思議そうに小首を傾げる水姫から目を逸らし、門の前で犬のように大人しく立ち止まっている彼を見やる。


(ここから先は、もう彼の言葉ね…)


 私は、「何でもないわ」と小さく口元を歪めると、敷地を出て彼に挨拶をした。


「おはようございます」と礼儀正しく紡がれる私の言葉に、彼も同じ言葉で返す。


 頬を撫でる五月目前の春の風は、いやに生温く感じた。


 冬の間は暖かい春が恋しいものだが、訪れる風がこのようなものだと知っていれば、ずっと清冽な冬の風のままでいいと思うに違いない。


 先に立って歩き出した私の隣に、早足で水姫が並ぶ。これもいつものことだ。


 彼氏よりも私を優先してくれているのではと思えた頃は、多少の慰めにはなっていた。だが実は、彼のほうが私に気を遣って、水姫にそうするように告げたのだと知ったとき、腸が煮えくり返るような怒りと屈辱、そして、大きな虚無感を覚えたものだ。


「ねぇねぇ、前から思ってたけどさ。何で莉亜って、同級生にも敬語なの?」

「何でって…、そうね、多分、癖よ。昔からの」

「えー?私にはタメ語なのに?」

「水姫にだって、初めは敬語だったでしょう」


 それでも納得していない様子で唇を尖らせている水姫を見て、私は胸の内で小さくため息を吐いた。


(きっと、私が周囲と――とりわけ彼と心の壁を作っている気がして、嫌なんだわ)


 実際に、私は水姫以外の人間との親交が極端に浅い。名前も知らないクラスメイトが両手の指では足りないくらいに存在する。


 ただ、別段それを気にしているわけではない。むしろ、私自身が望んでいるくらいだ。


 面倒な人間関係は、可能な限り希薄なほうが望ましい。


 どうでもいい人間の名前なんかを知るくらいなら、知らない言葉を一つでも覚えたほうがよっぽど有意義だ。それに、他の人間に費やす時間が増えて、結果的に水姫と過ごす時間が減るくらいなら、教室で物言わぬ置物になっていたほうがマシだ。


 それにしても…、と街路樹の葉が並ぶ地面を見つめる。


(なにが嬉しくて、あの人と一緒に登校しなければならないの…?本当に嫌な朝だわ…)


 緩やかな風に巻き上げられ、宙を舞う木の葉を暗い瞳で眺めていると、ドン、と水姫が無言のままにぶつかって来た。


「ん、どうしたの?」と首だけ横に向けて尋ねるが、相変わらず水姫は唇を尖らせたまま黙っている。


 言いたいことがあるなら、言えばいいのに。


 そう考えた自分の言葉が、強烈なブーメランとなって自分の胸に突き刺さり、思わずため息を吐く。


「…ため息、嫌い」自分へのあてつけだと思ったのか、水姫が不服さを隠すことなく呟いた。「…ごめんなさい、そういう意味じゃなかったのだけれど…」


 再び、無言のベールで顔を隠した水姫から、後方で寡黙に足だけ動かしている彼へと視線を向ける。


 彼は私の視線に気が付くと、困ったような、でも、大人びた微笑を浮かべ、それから、軽く肩を竦めた。


 大人ぶった態度が――もっと言えば、水姫のことを分かったような態度が、無性に癪に障った。


 募る苛立ちを抱え、遠くにそびえ立つ学園の影を睨みつけながら、私は口を動かした。


「私が彼とも仲良く話せれば、水姫は満足?」


 口にしてから、しまった、と思った。こんな言い方をされて、単純な水姫は嫌な顔をするに決まっている。


 振り向けば案の定、水姫は小動物のようにクリクリした両目を細めて、こちらをジロリと睨んでいた。


「莉亜の馬鹿。いじわるばっかり」

「み、水姫、あの」


 急激に歩調を落とした水姫に謝罪の言葉を伝えたかったが、わざとらしく高い声で彼氏と話している様子に力を吸い取られるような心地になったため、私は大人しく落ち込みながら、独り歩くのだった。




 教室の敷居を跨ぎ、速やかに下校を開始する。クラス替えが行われて間もない教室は、未だにその騒然とした雰囲気を残したままだったため、居心地が悪い。


 下校する生徒や、部活に勤しもうという生徒で廊下はあふれかえっている。本来なら、この人波が収まるまでは教室に隠れているのだが、この時期はそうもいかないようだ。


 蟻が餌を運ぶときのような下校の列に加わるのが、私はどうも苦手だった。真の孤独は、集団の中にこそあると考えているからかもしれない。


 列を避けるため、あえて遠回りする。進むべき方角は、昇降口ではなく、旧校舎側だ。


 渡り廊下で結ばれている旧校舎は、本校舎と同様、三階建てだった。窓のない渡り廊下からは、悠然とした山々と、ちっぽけな田舎町が見える。


 個別練習に励むブラスバンドの様々な音色を聞きながら、三階奥の階段を目指す。


 文化部や生徒会が使用している以外、人の出入りがないため、中は比較的静かなものだ。わざわざ遠回りした甲斐があった。


 だが、そう思えたのも束の間で、三階から二階へ移動する際に下から聞こえてきた声によって、私は辟易とした気分にさせられた。


 聞き覚えのある、愛らしい声。今は聞きたくない声だ。


「あ…」と間抜けな顔で立ち止まったのは、水姫だ。細い二の腕には、生徒会の腕章が巻いてある。


 今朝のことを思い出したのか、水姫も私も気まずそうな顔で見つめ合う形となった。そうしている彼女の横から、同じ腕章を付けた水姫の彼氏が階段を上がって来る。


「水姫、何で固まって――あ、風待さん。どうしたの?こんなところで」

「…ちょっと、図書室にと思いまして」


 どうしてか、本当のことを言いたくなかった。仲睦まじく生徒会活動をしている彼女らに、暇を持て余している自分のことを知られたくなかったのかもしれない。


「へぇ、図書室かぁ。頭良いもんね、風待さん」

「…それほどでもないです」


 誰に対しても気さくに喋りかけられる彼に、密やかな嫉妬を覚える。


 今朝の不服さを未だに引きずっているらしい水姫は、他人行儀に自分の彼氏と話す私のことをじっとりとした目つきで睨んだ。


「おい、水姫。そろそろ時間だぞ」こつん、と、彼がむくれた水姫の腕を小突く。「分かってるよぉ…行こ」


 後ろ髪引かれるような面持ちで階段を上がって来る水姫から、そっと目を逸らす。


 彼女の横に自分以外の人間が立っているのは、一ヶ月経った今でも見慣れなかった。


 自分も階段を下り始め、本当に図書室に寄ろうかと考えていると、不意に、ぐん、と右手が後方に持ち上がった。


「え?」何事かと視線を後ろにやる。


 すると、二段ほど上の段から、私の右手を掴んでいる水姫と目が合った。


 じぃん、と彼女に握られている部分から熱が広がってくる。


 決して、純な感情だけではない。熱に侵されたような劣情も少なからず存在している。


「み、水姫…」無言でじっと見つめてくる水姫の名前を呼ぶ。「離してくれない?階段でふざけるものじゃないわ」


 私が真剣な顔でそう告げても、水姫はひたすら無言を貫いていた。彼女は、隣に立つ彼に注意されるまで、ずっとそうしていたものの、やがて、二人揃って三階へと消えていった。


 図書室へと流れていく私の脳裏に、先程の水姫の不貞腐れたような表情が蘇る。


 欲しい物を手に入れて、幸せの絶頂にいるはずなのに…、これ以上、何を求めるというのだろうか。


(不貞腐れたいのは、私のほうよ)


 小さくため息を吐き、図書室の扉を開け、奥の席に移動する。緑溢れる中庭が見える、壁際の特等席だ。


 バッグの中から私物の文庫本を取り出す。臙脂色をした革のブックカバーは、父が去年の誕生日に買ってくれたものだ。すでに数え切れないほどの小さなキズが入っているが、それがかえって味となっている。


 そうして私は、しばらくの間、文字と文字の隙間に逃げ込んだ。


 この時間だけは、水姫と、その彼氏のことなど忘れられた。目の前で踊る言葉と物語だけが、私の世界の住人となれたのだ。


 …別に、本が好きだとか、趣味だとかいうわけではない。ただ、逃げ場所を求めて生きてきた結果がこれだ。


 やがて、最終下校時刻が近いことを知らせるチャイムと放送がスピーカーから流れた。かれこれ二時間ほどが経っていた。


 時間は残酷だ。あっという間に過ぎて、どんな状態からでも過酷な現実に引き戻すから。


 本を閉じ、鞄に戻す。こちらに声をかけようか迷っているらしい図書委員に目礼して立ち上がる。


 夕焼けが差し込む人気のない図書室の空気を、数秒だけ吸い込んで堪能する。


 静謐は宝だ。値段をつけることすら惜しくなる、至極の一品。


 名残惜しさを感じながらも、これ以上、図書委員に迷惑をかけるわけにもいかないと判断し、素早く図書室を後にした。


 そのとき私は、肝心の本を片付け損ねていることに気づいていなかったのだ。そのせいで、校門から出て数歩ほど歩いた地点で、ため息と共にこの場所に引き返してくることとなる。

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