水滴と少女.1
『…見世物パンダは嫌?』
『ええ、死んでも嫌よ』
「莉亜ぁ、お昼食べよー?」
案の定というかなんというか、あんなことの後でも真宵は変わらなかった。
いつもと同じ顔で、いつもと同じ声で、いつもと同じことを言ってくる。
朝からこの調子である、と面白くないような、安堵したようなため息をこっそり吐いた私は、少しずつ慣れつつある周囲の目線を避けるようにして席を立った。
片手には弁当箱。
今日からの私には、真宵の誘いを断る理由は一切ない…いや、どうだろう。恋人だからといって昼食を共にするのが普通というわけではないのだろうか?
恋愛に関することに疎い私には、そうしたことはまるで予想がつかない。
真宵は私が近づいてくるのを確認すると、不思議そうに小首を傾げた。
「え?どこ行くの?」
「どこって…」中庭に決まっているだろう、と口にしかけたところで、真宵が窓の外を指差した。「雨、降ってるよ?濡れちゃうよ?」
たしかに、彼女の言う通りだ。しかし…。
だからといって、ここで過ごすのか?みんなの視線が集まるようなこの教室で?
やはり、個人的にそれは嫌だった。注目を集めることもだったが、単純に話題に気を遣わなければならなくなるのが不満だったのだ。
「…屋根のあるところなら濡れないから、そちらに行けばいいわ」
「そうは言っても、風も強いよ?横風で濡れそう」
徐々に周囲の視線が遠慮のないものに変わっていく。誰もが自分たちの会話に集中しているような気がして、私はもうこれ以上は粘るべきではない、そのほうが悪目立ちすると考え、真宵の提案を受け入れた。
(…真宵は、二人きりではなくとも困らないのかしら)
真宵は私の隣の席の人から椅子を借りると、前後逆で腰を下ろした。足を広げて座っているため白い太ももが大きく覗いている。行儀も悪いし、なによりはしたない。
「真宵、ちゃんと椅子の向きを合わせて座りなさい」
「えぇ?私がこんな座り方したからって、別に莉亜は困らないでしょ?」
出た、と真宵の屁理屈に顔をしかめる。
「単純に嫌なの。目の前で…はしたないわよ」
「ぶぅ」
「子どもではないのだから…そんな顔してもダメ。そもそも…」
私はもう一度、真宵の足に視線を落とし、それから彼女の瞳を恨みがましく覗き込む。
「みんなも見るのだから、やめなさい」
「あー…そっか、なるほど、なるほど」
こちらの意図を理解したらしい真宵は、やたらと嬉しそうに頬を緩めて、正しく椅子に座り直した。
「独り占めしたいなら、そう言ってくれればいいのにぃ」と呑気に告げる真宵。「…言えるわけがないでしょう。こんなに人がいるのに」
「ふぅん、どうせバレてると思うけど」
「そういう問題じゃないの」
周囲を見渡さずとも、何人かのクラスメイトが自分たちのほうを観察しているのが分かる。当人たちがこちらに危害を加えるようなことはないが、決して気持ちの良いものではない。
「見世物パンダは嫌?」
「ええ、死んでも嫌よ」
断固として拒絶の意思を示すと、なぜだか真宵は嬉しそうにコロコロと笑った。声量が大きいのが気になったが、彼女が楽しそうにしていると、不思議と私の心も晴れやかだった。
「…こういうのが、幸せっていうのかしら」
一人、誰にも聞こえない声で自問していると、不意に真宵が私の頬に手を伸ばした。
触れられた瞬間、体がビクン、と跳ねた。
「ご飯粒ついてるよ」
こちらの反応に目を丸くして驚いていた真宵は、ややあって、指先の米粒を見つめると、不敵に笑ってみせた。
何をする気なのか一瞬で分かった。人前ではやめろと思ったが、止める暇もない。
真宵はぱくりと米粒を自らの口に運ぶと、舌を器用に出して口の周りを舐め取り、「ふふ、もぅ、子どもじゃないんだからぁ」と扇情的に私をからかった。
「馬鹿…」
羞恥心で顔を逸らせば、こちらを向いている何人かのクラスメイトと目が合った。恥ずかしくてたまらない。不幸中の幸いで、水姫は教室にはいなかった。
煮えたぎるように体が熱くなる。自分たちの睦まじい姿を観察されていると思うと、顔から火が出そうだ。
「あはは、こういうのが『幸せ』だよ、莉亜」
「聞こえていたなら、言葉で示しなさい、馬鹿…」と真宵を睨むも、彼女はどこ吹く風と明るく笑った。
そのうち、昼食を終えて他愛もない話をしていると、真宵の元に美術部の顧問がやって来た。すぐに戻ると言い残し離席した彼女を目で追っていると、ちょうど、真宵と入れ違うようにして教室に入ってきた水姫の姿を見つけた。
真宵と水姫は、すれ違う瞬間、互いのことを横目で確認し合っていたように見えた。表立て言い合いなどしないが、二人が犬猿の仲であることは間違いない。
友人を横から奪われた(少なくとも、きっと水姫はそう感じている)水姫は、その原因となった真宵をよく思っていないようだったし、真宵も恋人の想い人である水姫をよく思っていないようだった。
まぁ、各々それ以外にも理由はありそうだが…。
水姫は何よりもすぐ私のほうを見た。そして、私が一人でいることを確認すると、ぐんぐんと近寄ってきて、隣に立った。
「今日はここでお弁当食べたの?」
「…ええ」
「そっか」小さな声でそう応えると、水姫は許可もなく私の正面の席に座った。「まだ怒ってるの」
そんな簡単な言葉であのときの怒りを表現されて、私はいささか不服だった。
「…関わらないでって、言ったはずよ」
「…怒ってるじゃん」
ちりっ、と胸が苛立ちの炎で焼かれる。
「そんなことを言いにわざわざ私のとこへやって来たのかしら?ご苦労さま」
ため息と共に嫌味っぽく告げると、なぜか水姫は急に焦ったふうに早口になった。
「ち、違うって。その、私――」
水姫がなにかを賢明に伝えようとしていたそのとき、彼女の後ろから不気味なくらいいつもと同じ表情をした真宵が戻ってきた。
「莉亜、おまたせ」
「真宵…」
「いやぁ、顧問の先生がさ、早く次のコンクールの作品を描き始めろってうるさいんだよねぇ。あ、学生が出るやつじゃないんだよぅ、すごいでしょ?」
「そ、そうなの…すごいわね」
真宵は水姫のことなど視界に入っていないかのように振る舞っていた。彼女のほうはちらりとも見ないし、私と水姫が会話中だったことなど知りもしないかのようだった。
「ちょっと葉月さん、まだ私が莉亜と喋ってるんだけど」
「あぁ、ごめんね日乃さん、気づかなかった。で、楽しい話は終わった?」
「…っ!」
明らかな挑発に水姫の表情が歪む。生々しい感情を露わにした彼女を珍しく思う一方、水姫と二人きりで話さなくてよくなった安心感も覚えた。
水姫はまだなにかを私に言おうとしているようだったが、その前に彼女の彼氏が来てしまった。
剣呑とした雰囲気を前に彼は、なぜだか私に向かって事情を説明してほしそうに小首を傾げた。それに対し、私は何も見ていないように一貫して無視する。
はっきり言って、私はこの男が嫌いだ。
別に彼が嫌な人間というわけではない。むしろその逆で、彼は人格者であることで有名だった。
いつも考えることだが、彼がろくでもない人間であれば良かった。そうであれば、水姫の幸せと尊厳を守るために真正面からやり合えるのに。
彼は事情も知らないままに水姫をたしなめた。それに対し、水姫はしばらくの間、無言で真宵を睨みつけていたのだが、再度声をかけられたことで、渋々と私たちの元から離れていった。
「…馬鹿だなぁ…私のだよ、もう」独り言みたいにして呟く、真宵の言葉。少し怖い感じがしたが、今はその独占欲すら安心する。
最後に、複雑そうな顔で私を見据えた彼の顔がどうにも苛立った。内心を見透かされているような心地になって、不愉快だったのだ。
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