あるいは、唄うように.3
そのための唯一の手段を、私は知っている気がした。
私の葛藤を知ってか知らずか、真宵は「えへへ…」と微笑んだ。あどけない表情だ。子どもっぽいが、きっと、彼女は私が思っていたよりずっと大人だ。少なくとも、私以上は。
真宵は返事の催促をすることもなく、他愛もない話を交えながら食事を進めていた。やがて、両者とも食事を終えると、片付けをしてから静かにソファへと腰を下ろした。
真宵がショッピングで購入した写真集を興味深そうに眺めている横で、私は照明のリモコンを手でいじりながら、何も映っていないテレビの画面を見つめていた。
ちゃんと答えを出さなきゃいけない。それが分かっていても、私にはどうしても踏み切れない理由があった。
「…葉月」
「んー?」
ソファの上でも、きちんと真宵に体を向ける。さっきの話の続きが始まるのだと理解した彼女は、ぱたんと写真集を閉じて同じようにこちらを向き直った。
どこまでも透明な眼差しに、一瞬だけ言葉が喉の奥へと逃げ帰る。だが、そうは言っていられないことを思い出し、拳を固く握る。
「私、もう少し貴方と一緒にいたいと思っているわ」
「わぁ、本当!?」
まだだ。まだ、肝心な話をしていない。
私は、相手がぬか喜びをしないようにすっと手で真宵を制した。
「だけど、さっき言ったように私はフェアでありたい。だから、葉月に嘘は絶対に吐きたくないわ」
水姫に対して私は、彼女のことをそういう意味で好きだと自覚したときから、嘘を重ねて生きてきた。
何をやっても、彼女と同じ気持ちにはなれなかった。それなのに、離れる勇気もなくてそばにいた。
あの水底に沈んでいくだけの息苦しさは、もういらない。
真宵と関係を結ぶ以上、嘘のない関係を大事にしたい。
「――…私は、まだ簡単には水姫のことを忘れられそうにない。私の頭の中には、しばらくの間…いえ、もしかすると一生、水姫がいるかもしれない」
真宵は話がどう流れていこうとも、表情一つ変えずに聞いていた。
「それでも…貴方は私といたいと思う?葉月真宵」
しん、と静まり返るような静寂がリビングに横たわる。
呼吸の音すら聞こえてしまう静けさの中、私は自分の心臓がかつてないほどの勢いで拍動していることを悟った。
もしも、ここで真宵が『嫌だ』とか、『じゃあ、やめとこうか』と答えたとしたら…。
私はすでに、その返事を恐れていた。それはつまり、『水姫のことは忘れられないけれど、今は真宵とも一緒にいたい』と自分が強欲にも考えていることの証でもあっただろう。
やがて真宵は、とても自然な動きで天井のライトを仰ぎ見て、言葉を紡いだ。
「それでもいいよ。たとえ、今だけだったとしても…莉亜が、私といることを一番に選んでくれるなら、私は運命がくれたその『今』を大事にしたい」
私はなぜか、その解答を信じられないものとして受け止めていた。
「ほ、本当にいいの…!?だって、自分で言っておきながらおかしいけれど、今の私の発言、かなり自分勝手だと思うわ。貴方とも一緒にいたいけれど、まだ好きが消えない人がいますなんて…」
「莉亜」
気がつけば、真宵が真っ直ぐこちらを見据えていた。
「人はいつか忘れるよ。どんな気持ちも薄まるし、思い出を脳裏に描き出す頻度も減る。優しい忘却は、傷を癒やすためにいつか必ず訪れるんだ」
「そんなこと…」
「っていうか、正直、見くびらないでほしいとも思ってるよ」
ぐっ、と真宵が顔を寄せてきた。キスされるとまた考えてしまったが、彼女は寸前で止まった。
「日乃水姫と一緒に過ごした時間に比べたら、私と過ごした時間なんて、まだ豆粒みたいなもんでしょ。だったら、同じだけの時間を費やしたとき、絶対に私のほうが良かったって、私を選んで正解だったって言わせてやるから」
「葉月…本当にいいの…?わ、私――」
「くどい」
上から覆い被さるような位置に移動した真宵の体で照明の光が遮られる。それでも、どこまでも律儀な真宵は、決して私の体には触れていなかった。
「…私にも、勝負くらいさせて。莉亜」
吸い込まれる――私は、真宵の黒曜石の如き双眸を間近で見てそう思った。
「莉亜のことを好きになった時間の長さなら、私、絶対に負けてないよ」
最後に、『逃げないで』と付け足した真宵が、ふっと優しく微笑んだ。
「逃げないで」
真宵の放った言葉は、深く私の胸の奥に沈み込んだ。
そうだ。私は…私は無意識のうちに逃げようとしていた。
真宵のほうから断ってもらうことで、諦めるようにして、変わらない日々へと戻ろうとしていた。
期待しないほうが楽だから。
「ここで、変わることができなければ…」そのつもりはなかったが、頭の中の考えが口に出ていた。
水姫の恋が実った、あの日のことが脳裏に蘇る。
悔しいほどの晴天、散る桜、後悔とも諦観ともつかない薄暗い感情。
「私は、きっと一生変わることができない…」
決意と共に、眼前の真宵を見返す。
「貴方となら、私も変われるかしら?」
すると、真宵も変わらない微笑みをもって応じる。
「もちろん!――変わろうと思った瞬間からね、最初の一歩を踏み出すことができてるもんだよ、莉亜」
よく、分からないと思った。
今の言葉がじゃない。葉月真宵という人間のことがだ。
どうして私のことを好きになったのか、とか。そもそも、彼女にとっての好きってなんなのか、とか。
達観したようで、愚直で己に疑いを持たないような価値観は、どのようにして醸造されたものなのか、とか。
絵を好きになった理由とか、家族はなにをしているのかとか、今まで人を好きになったことがあるのかとか、どうしたら自分の気持ちを素直に口にできるのかとか。
私は知りたかった。色んな感情が氾濫し、言葉が出なくなっていたとしても、どうにかして知りたかった。
そのための唯一の手段を、私は知っている気がした。
真宵の顔を仰ぎ見ていた私は、いつの間にか、彼女を見下ろす形になっていた。
不安を減らすために握っていた照明のリモコンが手から滑り落ちる。その拍子にスイッチが押されて、部屋は薄暗い穴の中みたいに暗くなった。
呆気にとられた真宵の顔を見て、私は素直に可愛いと思った。
そのまま、真宵の唇に自分の唇を重ねる。
言葉にならない感情は、切ない息遣いと濡れた唇の音に包まれて、真宵へと注がれる。
金糸雀がついばむように、あるいは、唄うように。
美しく、たどたどしく…。
呼吸も忘れて貪っていたせいか、軽く真宵に胸を押し返される。それでも無視して、もっと奥深くへと潜ろうとしていると、今度は強めに押し返されてしまう。
「い、いや、ちょっと、はぁ…ま、待って…色々と、追いついてないから――」
何かを口にしかけている真宵の唇をもう一度塞ぐ。
外界に私が吸うべき酸素はない。それがあるのは、真宵の中だけだ。
「ん、んんっ!」
くぐもった声と共に肩を激しく叩かれる、それでようやく、私も体を離す。
真宵の瞳がわずかな批判と、劣情と、充足感に染まっているのを見て、私は背中を突き飛ばされるみたいにして胸の底を言の葉に乗せる。
「葉月――…真宵。私の恋人になって」
ひゅっ、と真宵が息を呑んだのが聞こえた。
「私も大事にするから、貴方も私を大事にして。わがままだって言うわ。だから、貴方も私にわがままを言って。幸せって、こういうものなんだって、私に一つ一つ、教えてみせて」
「う、うぅ…!」
闇の中でさえ、真宵が紅潮しているのが分かった。でも私はそれよりも、黒の滲む領域でさえ、微小な光を吸い込んできらめく瞳が綺麗だとばかり考えていた。
「ずるい!ずるじゃん、それ!っていうか、触るの禁止って言ったの莉亜なのにぃ!急にこんなことされたら、わけ分かんなくなっちゃうよっ!もぅ!」
「…わ、私から触るのはいいのよ。禁止にしてないわ」
じろり、と下から睨みつけられる。
勝手な言い訳が過ぎただろうか、とぼんやり考えていると、不意に、真宵が両手を出して私の首に絡めた。
「じゃ、じゃあ…早速わがまま言ってもいいですか…!?」
「どうして、敬語なの…?」と尋ねれば、「茶化さないで!」と叱りつけられる。
「…もう一回、キスして」
これで四章は終わりとなります。
次回は土・日の更新です。




