あるいは、唄うように.2
幸せとは、もっと大きなものだと思っていた。
日曜日のショッピングモールは、酷く混雑していた。
すれ違う人、人、人…幸せそうな家族、カップル、仲の良いグループ…自分にはなかったものだ。そう、今までは。
普段だったらげっそりするような人ごみも、今日は不思議と気にならなかった。水姫と一緒にいるときだって息が詰まりそうだったのに…驚くべきことだ。
キャスケットを被り直し、待ち人を待つ。この間までは苛々した時間も、浮足立ったものに変わっていた。
馬鹿みたいだ。こんなにもうきうきしているなんて。
自分のためのショッピング、むず痒くなる響きだった。
今日は真宵との約束通り、私の『好きなもの探し』のためにショッピングモールにまで来ていた。水姫との買い物でよく訪れていたが、今の私にはまるで違う場所のように感じられていた。
「ごめぇん、莉愛!」俯いていた私の耳に聞き慣れた声が届く。真宵のものだ。
顔を上げて声のしたほうを見やる。すると、正面入り口の方角から黒のミニスカートと黒のブラウスで身を包んだ真宵がやってきた。
真宵には黒が良く似合う、となぜだか初めてそう思った。今までは気にしたこともなかったのに…。
「ふぅ、ふぅ…ごめん、待った?」
両手を両膝に乗せて肩で息をしていた真宵が、下から上目遣いでそう尋ねてくる。ブラウスの隙間から覗く白い肌と鎖骨に、胸が疼いて仕方がなかった。
「待ってないわ。今来たところよ」今日は遅刻も気にならない。なんの魔法なのだろう。
「あ、本当?良かったぁ、服で悩んでたら出る時間遅れちゃってさぁ」
「…そう」
ということは、この装いは私に見せるために準備されたものなのか。
ちょっと肌の露出が多い気もするが、十分、愛らしく、瑞々しい姿だった。端的に言うと、とても似合っている。これを貴方のためです、と言われて嬉しくない人間はそうそういないだろう。
「よし、じゃあ、早速行こう!」
そう言って店内のエスカレーターに向かって歩き出した真宵の後を追い、私も歩調を速めた。
「まずはどっから行こうかぁ?んー、本屋?楽器屋?いやいや、ファンシーな雑貨屋かなぁ?」
うきうきとした口調で語る真宵の手が、前後にゆらゆらと楽しそうに揺れていた。それを見ているうちに、手はつながないのかな、と無意識に考えてしまう。
刹那、カッと顔が熱くなった。
(――や、やだ、私…。今、葉月と手をつなぎたいって思ったの…!?)
水姫と一緒のときだって、ずっとそう考えてきた。だが同時に、必死に消し去ろうとしてきた思いでもある。
あのときと違うのは…私自身がそう望めば、『触れたって構わない』というところだ。
そうしてもやもやを抱えたまま、私は真宵と一緒にエスカレーターに乗った。そして、二階に移動すると、手あたり次第店を見て回った。
楽器屋、雑貨屋、百円均一やアパレルショップ、本屋…とにかく、色々と足を運んだ。しっかりと時間を費やしたのは本屋とアパレルショップだった。
アパレルショップでは、真宵がよく訪れる店に入った。
彼女がいつも着ている服の丈から予想はできたが、店内はギャル向け、といったらいいのか、とにかく肌面積が少ない服が多かった。
絶対に買わないし着ないだろうと言い切れるアイテムたちばかりだったが、私は真宵の勢いに押されて、試着だけすることになった。
「…いや、おかしいでしょう、この服」
鏡の中に映る自分を虫でも見るみたいな目つきで凝視する。
パステルブルーのオフショルダーは、自分には酷く不釣り合いに見えた。それにしても、肩の露出が異常だ。少し手をかけたら、見えてはいけないところまで見えてしまいそうだ。
こんな痴女みたいな格好、本当は誰にも見られたくないのだが、それを言ったら店員だって似たような服装だ。ただ単に、私が過敏すぎるのかもしれない…。
そう言い聞かせて、試着室の向こう側にいる真宵に声をかける。彼女は間の抜けた感じの口調で、「はいはーい」と応えると躊躇なくカーテンを開けた。
「…お、おぉ、これは、なかなか…」
「な、なに、その反応!?いいから、早く閉めて!」
「え、あはは、ごめん、ごめん」
真宵はそう言って苦笑したかと思うと、素早く靴を脱いで中へと入ってきた。
「ちょっと!どうして中に入ってくるのよ!?」
「だって、早く閉めろって言ったし、まだちゃんと見てないし…」
「中に入って来られたら、着替えられないでしょう!」
「えー?私はいいよぉ、生着替え最高」
ふざけた物言いと、私の露出した肩や強調されたボディラインを見つめる無遠慮な眼差しに、キッと鋭い眼光で返せば、真宵は肩を竦めて退散して行った。
不覚にも、胸はドキドキしていた。こんな密室で『彼女』と一緒だということに、そして、鏡に映った二人の肌色に。
次に、私たちは本屋に寄った。
ここでは真宵のおすすめだとかで、色々な本を手に取った。
美術系の本、世界の絶景百選、ファッション雑誌…。それから、彼女が推しているモデルの写真集、好きな漫画、恋愛小説…。
紹介されたもので気になったのは恋愛小説くらいのものだった。
元々、文字の隙間に思考を埋めるのは嫌いではない。多くの言葉や情景、物語は私の心の視点をどうにもならない現実から背けさせるのにはちょうど良かった。
それに、こうして『恋愛』というものに足を突っ込んだのだから、この機会に勉強しておいてもいいと思ったのだ。まぁ、どういう勉強をするつもりなのかは自分でも分からないが…。
このようにして、私は真宵と共に『私の好きなもの探し』を行った。しかし、二時間弱ほどかけてショッピングモールを網羅した果てに得た答えは、結局、ピンとくるものはなかったというものだった。
きらびやかなイヤリングも、派手な衣類も、何に使うかも分からない小物も、同世代の少女たちが熱狂している愛らしい雑貨も…どれ一つとっても、私がコレだと直感することはなかった。
当初は昼食もショッピングモールで取る予定だったのだが、私の人酔いが始まってしまったため、急遽、家でパスタでも作って食べることになった。私に合わせなくてもいいのだ、というこちらの言い分を、真宵は華麗にスルーした。
二時頃という、昼食にしては少し遅い時間に私たちは風待家に帰り着いた。こうやって真宵を家に通すことは、以前とは違い何か大きな変化をもたらすような気がしたが、何も気づかないふりをする。
リビングの明かりを点け、パントリールームからパスタ麺と缶に入った和風ソースを持ってくる。真宵はスパゲティが良いと言っていたが、途中で意見を変えて、「やっぱり、莉亜と同じものにしようっ!」と高らかに言った。
「せっかく私のために時間を割いてくれたのに、なんか、ごめんなさいね」
パスタが茹で上がるのを待ちながら、私は軽く謝罪した。
「ちょっとぉ、謝らないでほしいなぁ。確かに、『好きなもの探し』っていうお題目はあったけど、私は普通にデートとして楽しんでたけど」
「そう…それなら、いいのだけれど」
鍋の奥底から湧き上がっては爆ぜる気泡を見つめながら、そういうものなのだろうか、と怪訝に思う。
すると、真宵が頭の上のお団子をいじりながら言った。
「莉亜は、楽しめた?」
珍しく顔も向けずに聞いてきた。もしかしたら、今日が最終日ということで多少の緊張があるのだろうか。
ここは、嘘を吐いて誤魔化してよい場面ではない。私は素直に頷きつつ、パスタをかき混ぜる。
「ええ、多少は人酔いしたけれど…刺激的だった気がするわ。慣れないジャンルの本も買うことができたから、もしかすると、これから好きなものになるかもしれない」
「だったら、デートは成功かな?」横目でこちらを覗き見ながら、ぼそぼそと小さな声で言う。
やはり、気にしているらしい。私自身、さっきから頭の中ではそのことばかり考えている。
火を止めて、麺をざるに落とす。それから水をしっかり切って皿に乗せると、暖めておいたソースを上からかける。
食欲をそそる、きのことあさりの良い匂いがする。真宵も匂いで気に入ったらしく、うきうきした調子で食卓についた。
「いただきまぁす!」
私は、子どもみたいに手を合わせた真宵を黙って見つめ、これからどうするべきなのかを頭の中で思考していた。
正直、この一週間はとても充実していた。仮の恋人という関係で結ばれた私と真宵は、思っていた以上に仲良く、尊重し合って過ごすことができた。これから先も同じような関係を紡ぐことができるのであれば、きっと私は居心地が良いだろう。
そう、私は、だ。
「葉月」
「へ?」
パスタを口に入れている途中に声をかけたせいで、口の端から、だらりと麺が垂れてゆらゆらしていた。チャームポイントの白メッシュがフォークの先につきそうだったので、一言忠告してから話を続ける。
「貴方はどうだったの?葉月は、ちゃんと楽しめたの?」
「え…いや、うん。楽しかったよ?さっき言ったじゃん」
「だけど、私に合わせすぎて、退屈もしたんじゃない?」
訝しがるように眉を曲げた真宵に、これでは伝わらないのだろうかと考え、私は襟を正してもっとはっきりと主張することにした。
「私は…包み隠さず言うと、楽しかったわ。この一週間。貴方も『そう』だと知っているから、変に気を遣わなかったというのもある。だけどそれ以上に、葉月が私を中心に考えて、色々と気を遣ってくれていたからだと思うの」
お試し期間の結果についての返答が、今から行われようとしていることを理解したのだろう。真宵も慌てて椅子の上で正座してみせると、顎を引いて真面目な顔つきになった。
「でも、それってフェアじゃないと思うの。どちらか一方だけが一方に合わせて、もう一方は、ただその恩恵を受ける。そういう関係が健全だとは私、思えないわ」
そこまで言い切ってから、私は水の入ったコップに口をつけた。緊張している、と自分でも分かった。
こうやって正直にぶつかる経験を、私は今まであまり積んだことがない。
ずっと、誤魔化しながら、口をつぐみながら生きてきた。
真宵の喩えにならうのであれば、炭鉱の金糸雀の如く、水姫の幸せのためだけにさえずってきたのだ。
それが今になって、水姫は私を置いて去って行ってしまった。
残された私を拾った真宵が、今度は私のために唄うというのであれば、それこそおかしい気がした。
対等であることこそが、恋人の絶対条件ではないのだろうか。
「だから、もしも真宵が私と付き合うために、無理をして私に尽くしているのなら、それは――」
刹那、ピシッ、と音がしておでこにヒリヒリするような痛みが走る。
視線を上げれば、そこには苦笑とも呆れ顔ともつかない表情を浮かべた真宵がいた。右手を真っ直ぐこちらに伸ばしているところを見るに、どうやら指でおでこを弾かれたらしい。
「りーあ、思い上がんなよぅ?こういう人と人の付き合いにさ、『正解』なんてないんだから。天秤が傾いたら、それが間違いって?フィフティー・フィフティーが健全だって?んー…莉亜がそう考えるのはいいけどさ、私はお互いが幸せならそれが一番正しいって思うよ?あ、もちろん、それを莉亜に押し付けるつもりはないから」
ぺらぺらと諭すように語る真宵から、私は目が離せなくなる。
水姫と一緒にいるときは、そもそも全く異なる存在だという自覚があった。しかし、真宵はその限りではない。
私と彼女は同類のはずなのに…こうして語る言葉や真っ直ぐな眼差しを見ていると、コインの裏側を突きつけられているような気がしてしまう。
フォークをくるくると回しパスタを絡め取った彼女は、何も言えなくなってしまっている私の口元にそれを運んだ。
「ほい、あーん」
私は、拒むことなくそれを受け入れた。
猛毒だと思っていた真宵が、今の私には安息を与える存在になっていて。
安息をもたらす者だと思っていた水姫が、今の私には猛毒になっていて。
…もう、何がなんだか分からなくなっていた。
パスタの味はさっきよりもぼんやりとしていた。
「私は…」と真宵は私がきちんと目線を合わせるのを待ってから、言葉を続けた。「――莉亜とこうしてる時間だって、幸せだよ。この幸せにケチをつけられるのは、私以外、誰もいないんだぜ」
その言葉に、私は不思議と衝撃を受けた。
幸せとは、もっと大きなものだと思っていた。
手にした瞬間に天地がひっくり返るような、昼と夜の違いみたいな、そういう類のものだと。
真宵の口にした『幸せ』は、私が考えていた理想の『幸せ』とは違った。だが、それがショックだったわけではない。
手を伸ばせば、手に入る。
決して、無理難題のおとぎ話ではない。
そうだ。触れようとも思えば、それができるのだ。
ただ、問題は…そこじゃない。
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