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籠の外のカナリア  作者: null
四章 あるいは、唄うように

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あるいは、唄うように.1

弱い人間で、ごめんなさい

 朝起きて、鏡の前に立った自分の顔を、私は時間をかけて観察した。


(やっぱり、何も変わっていないわね…)


 鏡の世界に佇むのは、相変わらず暗い顔をした女。とてもではないが、昨日、真宵が描き出してくれた女と同一人物には見えない。


 彼女が綺麗に描きすぎてしまったのか、それとも、意識があるのと無いのでは、大きく何かが変わってしまうのか…。


 とにかく、恋人ができたといっても、私の見た目に大きな変化が生じることはないらしい。


 顔を洗い、歯を磨く。口の中のミントは、いつだって爽やかだ。


 水垢が付いてしまわないようにシンクを拭き上げた際に、銀の刃をきらめかせる父のカミソリが出しっぱなしになっていることに気がついた。使い手のいないこの道具を、どうして今まで放っておいたのか…改めて考えると不思議である。


 支度を済ませると、玄関で靴に履き替えながら時計を確認した。


 時間はいつもより少しばかり早い。万が一、水姫が迎えに来たとしても鉢合わせないで済むように計算していた。


 …これで良かったのだろうか。


 私がほんの少し未練の暗がりに足を踏み入れかけていたそのとき、ドアを開けた先から、砂糖菓子みたいに甘い声が聞こえてきた。


「あ、おはよぉ、莉亜」


 あまりに唐突に声をかけられて、一瞬誰だか分からなかったが、すぐに葉月真宵であることに気づく。


「は、葉月?どうして私の家に…」

「どうしてって、お試しとはいえカップルなんだよ?学生カップルのすることと言えば、一緒に登下校でしょ!」


 そう言って腕に絡みついてくる真宵。下から見上げてくる彼女の深いオニキスが、今まで以上の熱い感情、そして、今までにはなかった親しみを宿し、輝いていた。


(カップル…私、本当に、この子と…)


 人生で初めての恋人。


 男女の境を気に留める必要もなく、言葉を交わせる人。


 その気になれば…劣情を持って触れたって構わない人。


 水姫を前にしては、許されなかった数々の空想。封印せざるを得なかった、数多もの言葉。それをぶつけてもいいと改めて考えたとき、私の体はカッと熱くなった。


 体と心の熱を追い払うために、私は真宵の体を強く跳ね返し、「やぁん」と妙に色っぽい声を出した彼女に指を三本突き立てる。


「じょ、条件!覚えているわよね、葉月」

「ぶぅ」と早速この条件に不満そうな意思を示す真宵に、私はぴしゃりと言いつける。

「まさか、もう守れないの…!?やっぱり、それくらいの気持ちだったのね!」


「わわっ、冗談、冗談だよ!――一つ、勝手に私たちの関係を言いふらさない!二つ、勝手に莉亜の体に触らない!三つ、莉亜が嫌になったら、いつでも関係は解消できる!それで、期限は一週間。一週間後に、莉亜が契約更新するかどうかの返事をくれる!…で、いいんだよね?ロマンスの欠片もないけど」


 最後は唇を尖らせて言った真宵に呆れ顔を向けた私は、「まぁ、よく覚えていたじゃない」と嫌味を含めて応えた。それから、彼女を追い越して家の敷地から出て行く。


「あ、待ってよぉ」


 私の隣に走り寄ってきた真宵を、横目でじっとりと睨みつける。


 別に、彼女の態度が何か気に障ったわけではない。ただ、恋人同士という未体験の距離感に自分なりの答えが出せていないだけで。


 真正面から見つめられると、私の中の気恥ずかしさや、新しい何かへの期待、そして、芽生えつつある真宵への親密な感情が盗み見られる気がして…落ち着かなかったのだ。


「…葉月の申し出を受けたのは早計だったかしら」

「ちょ、酷ぉ!?まだこれからだって、お試し期間は!」


 そう言うと、真宵は小走りで私の前に回り込んだ。白メッシュが日光を浴びて白刃のようにきらめく。


「一緒に過ごす時間を増やせば、きっと私の良いところがちゃんと見えると思うよ!昼休みは一緒にお弁当食べて、放課後は手をつないで帰って――」

「つなぎません」

「もう!じゃあ、とりあえず一緒に帰って、それから…そう、週末はデートに行こう!映画館でも水族館でも、おしゃれな喫茶店でも、とにかく莉亜が行きたいところに…!」


 スコールのような勢いで降り注ぐ言葉の雨に、思わず、ふっ、と笑いがこぼれる。そんな私を真宵は不思議そうに見つめた。


「そんなに慌てなくても、冗談よ。…まぁ、週末にどこへ出かけるかは考えておくわ」


 真宵が眩しく笑った。率直に、私は彼女が可愛いと思った。


「うんうん!考えておいてね、莉亜!」


 その目がくらむような輝きに、私は胸が躍るのだった。



 五月も半ばにさしかかり、青々とした光景が視界の隅々にまで広がっている。


 学校の中庭はとても日当たりが良い。屋根のある東屋に入っていなければ、昼ごはんを食べる気が削がれていたかもしれない。


 梅雨も間近に迫っているというのに、空には雲一つ見当たらなかった。時折、蝶が羽ばたきながら私たちの前を横切り、天へと昇っていくのが酷く美しかった。


 葉月と付き合い初めて数日。私たちは、彼女が言った通り登下校を共にし、昼休みはこうして一緒に食事を取った。


 二人で過ごす時間は思っていた以上に穏やかで、落ち着いたものだった。


 真宵の一方的なペースに飲まれて話が滞ることもなければ、彼女の奇行で頭を悩まされることも少ない。


 どうして急に変なことをしなくなったのかと聞いたところ、真宵はほんのり頬を赤らめて、『だって、変なことして嫌われたくないもん』と告げた。


 その言葉自体は正直、嬉しかった。ただ、彼女が自分を抑えてまで私と共にいることを選んでいるのであれば、それは何だか、少し違う気がした。とはいえ、隣に座る真宵は幸せそうに微笑むことのほうが多かったので、余計な助言はしないことにしている。


 そして、真宵はきちんと約束を守っていた。


 勝手に私の体に触れることはほとんどなくなったし、私たちのことを言いふらすようなこともなかった。


 まぁ、同性愛者であることをカミングアウトしている真宵と二人きりでいる私が、周囲からどう思われているかは想像するまでもなかったが…。どのみち、クラスでは孤立している。たいした変化も問題もない。


 …いや、一つだけ、明確に変わったことはある。水姫とのことだ。


 私と真宵が仲良くしていることで、水姫も私の言った言葉の意味を理解したのだろう。変に駄々をこねて干渉してくることも、朝、家を尋ねてくることもなくなった。


 その件については、これでいいのだ、と何度も言い聞かせた。


 孤独は真宵が埋めてくれた。足りない分を補うみたいに、私も真宵との時間を貪った。


 水姫が私のことをどう思ったのか、もう気にかけることはやめた。やめようと努めている、が本音だが、今はそういう勇気を自分で褒めてあげようとも思っている。


 こうして、少しずつ私が変わっていくのだと思うと不思議だった。きっと、花の散った桜の木に新緑が芽吹くように、私は色を変えていくことになるだろう。


「ねぇ、莉亜ってば、聞いてる?」


 膝を抱いてベンチの上に座っている真宵が、ぐいっと身を寄せて尋ねてくる。ギリギリ触れていないあたり、ちゃんと私との約束は気にかけているようだ。


「あ、ごめんなさい。考えごとをしていたわ」

「ぶぅ、彼女の前で上の空は駄目だよ」

「え?ええ…そうね」


 未だに、『彼女』という言葉が履き替えた靴みたいに慣れない。


「それで、何の話をしていたの?」

「うわ、本当に聞いてないじゃん。あのね、週末、どこに行くって聞いてたのぉ」

「週末…で、デート、の日よね」

「そそ。初デートは一生の思い出だからね」


「一生って、そんな大げさね」と私が苦笑すると、意外なことに真宵は少しムッとした面持ちで私を睨み返してきた。


「大げさじゃないよ。これからずっと一緒にいる前提で私は莉亜と付き合ってるんだから。いつか、大人になって思い出したときに、二人にとってずっと、ずっーと綺麗な思い出になるようにしたいの!私は」


 力強く言い切られて、私も呆然と謝るほかなくなる。彼女がそこまで真剣に人と付き合っているとは、正直、思ってもいなかったからだ。


 この点も少しずつ分かってきたことだ。真宵は思っていたよりも真面目だ。いや、真面目な人間は許可なくキスなどしないだろうが…とにかく、変なところは真面目なのだ。


「…で?どこに行きたいの、莉亜」


 ちょっと不貞腐れたまま聞いてくる真宵が、ほんの少し愛らしく見える。真っ直ぐな感情表現は、人付き合いの苦手な私にとってありがたいものだった。


 しかしながら、私にとってその質問は少し困ったものでもあった。週末に行きたいところなど、考えてみても何も浮かばなかったのだ。


 今までは水姫に連れられてどこかへ行くことのほうが多かった。自分がここに行きたい…という意思を示したことはほとんどなかったのである。


「貴方の行きたいところでいいわ」


 結局、出した答えはそれだった。そして、そんな解答に真宵が満足することもなく…。


「えぇ…!?莉亜が考えてくれるって言ってたじゃん。私、楽しみにしてたのに」

「ちゃ、ちゃんと考えたのよ?でも、浮かばなかったのだから、しょうがないじゃない…」

「莉亜の好きなところがいいよぉ。まだ、私そういうの聞いてないし」

「…好きなところって言っても、好きなものがないのよ」

「嘘、好きなものがない人って、いるの?」

「…悪かったわね、好きなもの一つない虚しい女で」


 読書、がそれに近い気がしなくもないが、そもそも、何をもってして趣味と形容するのだろうか。


 納得してくれそうにない真宵のじっとりとした視線から目を背ける。私としては反射的に取った回避行動なのだが、直後、それが仇となった出来事が起こる。


「あ…」


 逸らした視線の先、私の瞳が捉えたのは消せない未練をそのまま写したような、水姫の姿であった。


「どうしたの?」と私の視線を追った真宵も彼女に気が付いたらしい。一瞬だけ息を詰まらせると、静かに口を閉ざした。


 水姫とその彼氏、それと、生徒会のメンバーが数人。青春映画を切り取ったみたいな充実感が彼らの顔の上には乗っていた。


 和やかに笑っていた生徒会メンバーは、私と真宵が二人でいるのを見るや否や、ハッとした様子で黙り込み、視線を逸らした。そうしなかったのは水姫と彼だけだ。


 言葉にせずとも伝わってくる忌避感に、私は腸が煮えくり返りそうな激情を覚え、目くじらを立てて彼らを見据えた。


「りーあ、顔、怖いよ?」

「だって…!」

「大丈夫、ほっときゃいいよ」そう言うと、真宵はシニカルに口元を歪めて続ける。「動物園のパンダだって、数日も見てたら飽きるでしょ?それと一緒」


「私たちは…見世物パンダじゃないわ」

「そりゃそうだね。でも、時代遅れの連中にはそれが分からない。いつだって、あいつらの頭の中にあるのは、カビの生えた『常識』だけなのさ。棚の奥でずっと眠ってるカビたパンのほうがよっぽど歯ごたえがあるね」

「…それ、喩えよね?本当に持ってないわよね?」


 真宵ならありえる、と問い返すも、彼女は肯定も否定もしなかった。ちょっとだけ、聞かなければ良かったと後悔する。


「うぅん…それにしても私、相当に恨まれてるみたいだね」


 なんのことを示しているのかは明らかだった。今もこちらを…というか、真宵を射殺さんと言わんばかりに睨みつけている、水姫のことだ。


 隣に立つ彼がそんな水姫を窘めているのが見て分かるものの、彼女は聞く耳を持たない様子で態度を変えない。


 あんなに純粋な敵意をぶつけられては、真宵もたまらないだろうと、私は彼女に謝った。


「ごめんなさい、葉月。私のせいで嫌な思いさせて」

「は?いやいやぁ、莉亜のせいじゃないでしょ。あいつがわがままやってるだけ」


 びしっ、と真宵は断言した。それから、また皮肉っぽい笑みを浮かべた。


「開けたままにしてた鳥籠から金糸雀が逃げ出したとしても、それは鍵もかけず、まともな餌も与えなかった奴が悪いってこと」

「…ねえ、前も思ったけれど、その金糸雀って私のこと…?」

「そ、ぴったりでしょ。リアとカナリア。名前も似てるし、声が綺麗なのも似てるし、ちょっと悲劇的なところも、ね」

「その理由で『ぴったりでしょ』って言われても…」


 たしか、金糸雀は炭鉱などで毒ガス探知機として使われていた鳥だ。それで、いざ危うくなるとその場に置き去りにされることもあると聞いたことがあるから…喩えに使われると複雑である。


 私たちがそうして言葉を交わしていると、不意に、水姫が一歩こちらに近づいた。


 まさか、こちらに来るつもりだろうか。


 私は不安で胸が押し潰されるように苦しくなった。今さら、何を話せばいいのか分からないのだ。


 だが、彼女がこちらに近づき始める前に、真宵が私の盾になるようにして立ちはだかった。距離はまだ十メートル以上あるが、一触即発なのではないかと心臓の鼓動が速くなる。


 真宵は背中を私に向けたまま、顎で何かを示すような動作をした。それを受けて、水姫が彼を振り向いたため、何となく、真宵の意図が理解できた。


 お前にはそいつがいるだろう、そう伝えたかったのだ。


 水姫は苦い顔で逡巡し、私と彼とを見比べた。そして、ややあって、彼女は他のメンバーたちと共に中庭から去って行った。


 私はそれを見て、未練がましくも『選ばれなかった』と落胆した。


 苦しかった、息ができないかと思った。水姫の小さな背中が視界から消えるときは、部屋の明かりが全部消えるみたいに暗くなった気がした。


 目頭がつん、と熱くなって、私は両目を左手で覆った。涙など、今の真宵には見せたくなかった。


「大丈夫?」優しく真宵が問いかける。今は、それすらも申し訳ない。

「…弱い人間で…ごめんなさい」


 真宵は卑屈になりかけている私に気づくと、苦虫でも噛み潰したような表情になった。やがて、風の流れでも追うみたいに、蒼天を仰ぐ。


「弱いって、なんだろうね。泣かないこと?弱音を吐かないこと?自分一人でなんでもできちゃうこと?こうと決めたら揺らがないこと?」


 私に向けた言葉なのか、それとも自分自身に問いかける言葉なのか、それすらも明確ではないまま、彼女は言葉を紡ぎ続ける。


「私はそんな完璧人間、好きじゃないなぁ。だって、そいつって絶対つまんないやつだよ?そいつが主役で舞台に出てきたら、私は真っ先に客席から回れ右するね」


 ややこしい表現だったが、真宵が私を元気づけているのは分かった。ようは、私が弱い人間だって構わない、それが人の魅力ではない…そう言いたいのだと思う。


 真宵が自らを『意外と優しくて律儀』と形容していたのは、あながち嘘ではなかったのかもしれない。現に、私は少しだけ胸が軽くなっている。


 すると、真宵が唐突に振り返った。その拍子に踊る長い白メッシュを、なんとなく目で追ってしまう。


「そうだ、今度の休日は莉亜の好きなもの探しをしよう!」

「好きなもの探し…?」


 真宵の砂糖菓子みたいに甘い声を聞いて、私は目を丸くする。彼女はどこまでも探究心と奔放さに満ちた瞳を細め、朗らかに笑う。


 今までに何度も見た、私にはない輝き。羨ましいとかいう次元を超えて、この渇いていた心に安息の光をもたらす。


「うん。どっか、ショッピングモールかなにかに行って、色々と見て回ろう!そうすれば、一つくらいきっと見つかるよ、莉亜が好きだなぁ、って思えるもの!」

「…本当に見つかるかしら」

「大丈夫!見つけられるよ!」


 そう言うと、真宵は私の隣に勢いよく腰を下ろした。ドスン、と座られる側の気持ちを想像しないあたりが、とても彼女らしい。


「こう見えて私、宝探しが得意なんだから」

「ふふ、なぁに、それ?貴方は海賊かなにか?」


 そうして私が微笑むと、なぜか唐突に真宵が硬直した。


 目を丸々と見開き、ぽかんと口を開けている様は珍しく間抜けに私の目に映った。


 真宵はややあって、微笑を浮かべた。ただし、私のそれとは違う。


 頬を紅潮させ、ぺろりと舌なめずりした様子はとても艶やかで、歳不相応だ。


「そうだね、私は海賊なのかも」


 ぐっ、と真宵が身を寄せてくる。キスされると反射的に目をつむった。だが、その衝撃は来なかった。


 ゆっくりと、瞳を開ける。


 そこでは、至近距離に迫った二つの黒曜石が妖しく輝いていた。


「だってこうして、日乃水姫から宝物を奪ったんだもんね。――…うふふ、絶対の絶対に、あいつに返してなんかやらないんだから」

更新、遅くなって申し訳ありません。


ブックマーク、評価、いいね等をつけて下さっている方々、本当にありがとうございます!


ようやく折り返し地点を通過しましたので、今後もゆっくりと見守ってくだされば幸いです。

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