白波と夕焼け
少し身を乗り出せば、飛んでいけそうだった。
白い波間が反射する黄昏の光に、私は目を細めていた。
息をするのも忘れるほどに魅入られ、どれだけの時間、そこでそうして下を覗き込んでいただろうか。
なんだか、今日は体が軽かった。色んなことがあったけれど、たいして疲れてもいない。
単身赴任が決まった父の見送り、意味もない虚無的な席替え、下らないテスト、それから、顔も思い出せない母の墓石に頭を下げるという行為。
…いや、疲れているのだろうか。考えてみれば、頭は重い気がした。
体が軽く感じられたのは、きっと、白波が軽やかに踊っているからだ。あるいは、海猫が高い空を調子良さそうに歌いながら飛んでいたからかもしれない。
橋の格子、その隙間に右足のつま先を差し込む。少し身を乗り出せば、飛んでいけそうだった。
そのときだった。後ろから声が聞こえてきたのは。
「…風待さん?」
振り向けば、天使のような愛らしい顔を怪訝そうにしかめた、日乃水姫が立っていた。
「…日乃さん」
彼女とは小学校からの付き合いである。とはいっても、小学校の終盤に転校してきた自分にとって、たいした存在とは言い難かった。もちろん、それは相手も同じだろう。
「ちょ、っと、どうし――」
「何でもないです」水姫の言葉を拒むように、私はつっけんどんに言った。「夕焼けが綺麗だっただけですから。手を伸ばせば、届きそうな気がした…ただ、それだけなんです」
どう考えたって嘘だ。明らかに、自分は今…。
そんな私のことを案じたのだろう。水姫は物言いたげな顔でこちらを見つめたかと思うと、何も気づいていないふりをするみたいにぎこちなく笑った。
「へ、へぇ、そっか!――あ、ねぇ、一緒に帰っていい?風待さんも、家はこっちのほうだったよね?」
「…私は…」
水姫は言い淀んだ私のそばに小走りで来ると、奪い取るように橋の手すりから私の掌をさらった。
「いいよね」
有無を言わさない調子だった。瞳にも、そんなことは許さない、と書いてある。
どうやら、私は自分で思っていた以上に疲れていたらしく、水姫の強引さに何の抵抗も示さずに彼女に連れられてしまった。
「あ、そうだ。風待さん、今日のテストどうだった?私、ぜんっぜん解けなくて…」
「…普通だったと思いますが」
「えぇ!?風待さん、見た目からしてそうだけど、頭良いんだね」
「…容姿と頭の良さは比例しないと思いますよ」
「またまたぁ。あ、ねぇ、風待さんの下の名前、莉亜だったよね?」
「はい」
「じゃあ、莉亜って呼んでもいーい?」
「…それに何の意味があるんですか」
「えー…駄目ぇ?」
下から上目遣いで見上げてくる、水姫の丸々とした黒目がちな瞳。アイドルみたいだと思った。
「…どうぞ」
「やったぁ!私、ずーっと風待さ…じゃなくて、莉亜と話してみたかったんだ!」
どうしてですか、と聞き返そうとした瞬間、そんな必要はないと言わんばかりにその空隙を水姫が高い声で埋める。
「だって、莉亜、とっても綺麗だったから!」
私はその言葉に、一瞬、息をするのも忘れて水姫の顔を凝視してしまった。
曇りなき瞳は、この世の善良さを信じ切っているみたいで馬鹿馬鹿しく思えた一方、とても美しく、純粋なものだとも思った。
「…変わっていますね、貴方は」
風が、私の背中を押すように強く吹いた。
その日を境に、水姫は私と関わりを強く持つようになった。
登下校、休み時間、放課後、イベント行事、休日…。思い出は常に水姫と共にあった。そのためのアルバムを作成するほどだった。
鮮烈に刻まれた過去の一ページのことだ。忘れようとしても、決して忘れることのできない、夕焼けが美しい日のこと。
私の孤独は色彩を失った。
今回は短い幕間だけを上げています。
火曜日にいつもの更新を行いますので、よろしくお願いします。




