117・引退
公爵邸に戻った僕は、スミスさんと共に一旦、自分の部屋に入る。
「いやに早かったですね、イーブリス様」
「うん、そうだね」
スミスさんが言いたいことは分かる気はするけど、僕は人間じゃないからね。
まず、そういう欲求が無いんだよなあ。
さっさと風呂に入り、着替える。
アーリーの部屋から気配は無い。 朝まで帰って来ないだろう。
付き添いのエイダンもご苦労なことだ。
「明日の朝、お祖父様に報告してから領地に戻る」
「承知いたしました」
僕は緊張したせいか眠気に襲われて、負けた。
早朝、いつも通りに目が覚めたが、領地ではないことに気付くのが遅れる。
「おはようございます」
もう枕元の花瓶に薔薇が飾られていた。 寝過ごしたか。
「ごめん、ちょっと待ってて」
僕は着替えもせず、急いで向かいのアーリーの部屋に向かう。
静かに扉を開け、部屋に入ってベッドの中にアーリーがいることを確認した。
「アーリー、おはよう」
声を掛ける。
どうせ僕がいる間に起きてくることはないだろう。
僕は毛布に潜り込んで抱き付き、経験済みのアーリーの生体情報をもらっておく。
そして準備を整えて食堂に向かい、お祖父様と朝食を取る。
「おはようございます」
「おはよう」
食事中はほぼ喋らない。
「終わってから部屋で報告を聞こうか」と言われたからな。
僕は黙って頷き、食事を終えてシーザーと一緒にお祖父様の執務室に向かう。
シーザーは僕が逃げないように見張っていろと言われたらしい。
いや、逃げないよ。 こっちもお願いがあるからね。
「おはようございます、イーブリス様」
カートさんがニヤニヤしながら待機していた。
お前もか。
「おはよう、カートさん」
後でたくさん仕事を回してあげるからね。
椅子に座ると食後のお茶が運ばれて来た。
「昨夜、何かあったのか?」
僕の帰りが異常に早かったことが耳に入っているのだろう。
「ええ、そのことでお願いがありまして」
お祖父様はある程度、予想していると思う。
「僕を担当してくれた女性を領地の娼館に勧誘しました」
スミスさんも驚いてはいない。
カートさんはまた椅子から落ちそうになってるけど。
『魔物でも相手に出来る女性』
そんな女性は王都でもあまりいないだろう。
お祖父様が僕のために選んでくれた女性なんだから、ハズレはないと思う。
金になればなんだっていい、みたいな女性ではない。
彼女はちゃんと高級娼婦としての誇りも持ち合わせていたし、引退間近ということはお金も相当溜め込んでいたはずだ。
僅か一晩だけの相手からもらう報酬なんて問題にならないと思われる。
山ほどある領地の問題の一つに歓楽街の経営があった。
様々な娼館に酒場、賭け事をするための遊技場。
劇場の規模は小さいが旅芸人から吟遊詩人、音楽家まで幅広く使えるようになっている。
僕が招聘して金を払って上演してもらう場合もあるし、無名の者が金を払ってでも上演したいと申し込んでくる場合もある。
完成してまだそんなに経たないのに、次から次に話が来るほど周辺には娯楽が少ない。
「王都からの娯楽の情報を仕入れたくても、なかなか伝手もありません。
庶民の流行に詳しく、顔が効く人が欲しいと思っておりましたので」
デラートスさんのような物価などの物理的なものではなく、人の動きや心情を慰めることが出来る者が必要だと思っていた。
あそこは公爵家が経営する娼館である。 裏家業の者がいるのは想定済み。
女性たちは公爵家が雇っている裏情報収集用の娼婦だ。
お祖父様は僕に顔繋ぎさせる程度のつもりだったのかも知れない。
「そうか」
何でもないことのようにそう言った。
しかし、その後のカートさんは大変だった。
「えっ、なんですって?」
僕はハアッとため息を吐く。
「じゃあ、もう一度説明しますね。
娼館のハニーという女性をうちの領地の歓楽街の責任者に勧誘しました。
彼女が誰かを連れて行きたいと言ったら丸ごと受け入れます」
既に契約書は渡してある。
「領地に向かう日程は彼女が決めるでしょう」
連絡をもらえれば、馬車付きで領兵を王都へ迎えに来させるつもりだ。
公爵領で雇った領兵たちは、領地生まれで一度も領の外へ出たことがない者もいる。
十名ほどになると思うが、この機会に王都へ遊びに行かせようという温情だ。
往復二十日間の護衛任務。
それが楽か辛いかは本人たち次第だけどね。
「ほ、他にもございますか」
カートさんは忙しそうに手を動かしている。
「家財道具もあるでしょうから、本邸で荷馬車を用意してやってください」
ああいう女性たちはとにかく衣装や装飾品に拘りがある。
それでなくても王都から田舎に向かうのだから、王都で色々と買い込むかも知れない。
どんなに公爵領でも買えると伝えても、目に見えないものを信じるような真っ直ぐな性格はしていないだろう。
どんな道程になるのか、楽しみだ。
「細かいことは彼女の気持ちが決まってからにします」
僕はそう言って立ち上がる。
お祖父様の目が僕を追うように動く。
「他に報告はないのか?」
ふぅ、本当に人間ってこういう話が好きだよな。
「昨夜は彼女と雇用の交渉してきただけです」
「せっかくの機会なのに」
心の声が漏れたのはカートさんかな。
「ハッキリ言って興味ないんですよ、僕は」
出来ないというわけではない。
ちゃんとローズとだって番になり、子供は産まれている。
「必要ならヴィーとも子供は作ります。 アーリーに跡継ぎが産まれた後にね」
先に産まれるとややこしいからな。
「そうか。 ならばアーリーに早く子供を作ってもらわなくては。
私が元気なうちに孫の子、公爵家の家族たちが集うのを見たいものだ」
お祖父様は寂しかったのかも知れない。
こんな大きな屋敷でたくさんの使用人に囲まれていても、身内は僕たちだけだ。
「心配いりませんよ、きっと」
アーリーの昨夜の様子なら、すぐ子供が出来ると思うよ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
十日ほど後、娼館から知らせが来た。
カートは侯爵家の次男だが、父親が武官であまり娼館とは縁がない。
武官だからではなく、恐妻家だったからというのが正しい。
そんな両親を見て育ったので女性にはあまり夢は持っていなかった。
「はい、確かに受け取りました」
イーブリスがハニーという娼婦と交わした契約書を受け取る。
目の前には大柄で強面の娼館の主と女性たちの元締めである老婆が座っていた。
「本当にそれで良いので?」
あまりの好条件に不審げな顔をしている。
「公爵家が決めたことですから」
カートは何の問題もないと告げ、一段落したと出されたお茶を飲む。
「いやしかし、契約書は公爵様でも交渉したのが坊ちゃんだと聞いてるんだが」
ああ、とカートが頷く。
「イーブリス様なら問題ありません。 病弱な方ではありますが転地療養が上手くいったようで健康になりつつありますし。
ある意味、公爵様より厳しいお方ですよ」
嘘や誤魔化しは見抜かれるし、逆らう者には容赦がない。
「ひえっ」
恐ろしそうに老婆が顔を強張らせた。
「しかし、あの女は異国から来た娘で、わしらでもよく分からんことがある」
大柄な娼館主は太い両腕を組む。
以前、『魅了』持ちの娘の騒動でもハニーだけは何も騒がず、まずは情報を集めた。
色々と手を尽くして他国へ逃がそうとしたが、相手は王宮である。
「私、処刑されるようなことしてない」
疑われた娘は哀しげに微笑む。
「分かってるわ」
ハニーは彼女のたった一人の理解者。
魔法を使うと恐れられ、誰も近付こうとしない彼女を匿い、迎えに来た青年にそっと託した。
後日、公爵子息と恋人の死を知って荒れたハニー。
十五年が経ち、ようやく落ち着いてきたが気力を失くし引退しようとしている。
「ハニーをお願いします」
老婆は頭を下げ、彼女を公爵家に託した。