114・夫人
あっという間に一行は去って行った。
本邸から来た四十名のうち、残ったのは二十名。
独身男性二十名のうち、残ったのは十名、全て兵士。
夫婦五組のうち、残ったのは二組。 しかも料理人と魔鳥の世話人。
五人家族は残ってくれたが、どうやら三人の子供たちの転地療養だったらしく、文官として働けるのは中年の父親一人。
結局、募集していた文官は、独身女性一人を含め、たった二名という結果に終わる。
「カートさんからお詫びの長文が来てますよ」
「詫びはいらんから仕事を手伝いに来いって言っとけ」
「畏まりました」
スミスさんは笑いながら礼を取る。
騒がしかった夏が終わろうとしていた。
王都の男爵家へ事情説明に行っていたリナマーナが帰って来た、母親付きで。
「イーブリス様、この度は本当にありがとうございます」
「ん?、謝罪なら受けるが感謝されるようなことがあったかな」
僕は、たくさん迷惑を掛けられたし、余計なお世話もたくさんした。
そこはまあ、お互い様だと思う。
領主館の応接室で優雅に微笑むブリュッスン男爵夫人。
初めて会うが、マールオの母親にしては若い印象を受ける。
「マールオから体調が悪いと聞いていた。 このような辺境地まで来て大丈夫なのか?」
男爵家の護衛付きだとしても王都から十日の長旅だ。
若く見えても体調を崩している女性には辛いと思う。
「ふふふ」
結い上げた茶色の髪を少し揺らして上品に笑う。
「半分は本当で、半分は嘘ですもの」
商売に関しては強かな女性だという噂は本当のようだ。
男爵夫人の話では、最初は本当に倒れて療養していたが、体調が戻ってからも長男のマールオや頼りない夫の成長のために我慢して寝ていたと暴露する。
リナマーナが驚き、ポカンとしていた。
ブリュッスン男爵領の名産である農産物の売買取引は、ほとんどが王都の屋敷を中心に行われている。
今はマールオががんばっているので、なるべく手や口は出さないようにしているらしい。
「では、しばらくは男爵領に滞在されるのかな」
せっかく遠くから来たのだから、あの男爵を教育し直して欲しいところだ。
「そうだわ!、お母様。 この領地の温泉施設で療養いたしましょうよ!」
リナマーナが余計な口を挟む。
「あら、リナマーナ、それは良い案ね」
こちらから送った最初の招待状は、男爵自身が一人で勝手に使ったそうで、後でかなり家族内で問題になったそうだ。
僕でもこの夫人に本気で怒られたら怖いだろうなと思う。
開業して約一年、入場制限は続いているが従業員たちはだいぶ慣れてきている。
接客指導に来ていた熟練さんたちも、先日、安心して王都に帰って行った。
施設の予約人数は一日三十組と決まっているが、新たに当日枠を設けた。
急な来場、予約日程の変更などにも柔軟な対応が出来る。
但し、その場合は入場料は若干高めだ。
「リナマーナ嬢の母上だからな、安くしておくよ」
「あら、そこはブリュッスン領に対する日頃の感謝として、無料とするべきではございませんの?」
珍しくリナマーナがニコリと笑いながら言った。
「あははは、言うようになったな。 分かった、招待状を渡そう」
これは入場料だけでなく、同行者を含め、中での宿泊や飲食も無料となる。
「ありがとうございます、イーブリス様」
子供っぽかったリナマーナが、女性らしく微笑む。
こうしてみると似ている母娘だな。
「そういえば、ジーンさんを見かけませんが」
リナマーナが首を傾げる。
「ああ、事務用の部屋を使用人棟の三階に移した」
そのため本館で姿を見る機会が減っている。
リナマーナは「あら」と嬉しそうに口元を手で隠す。
「では、執務室はスミスさんだけですの?」
「ん?、もう仕事に戻るのか。 スミスはジーンより厳しいぞ」
スミスさんは奥さんのジーンさん相手でも容赦ないからな。
「はいっ!」
でも、まずお前がやるのは子守りだと思うけど、分かってるのかな。
分かってないだろうな。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ブリュッスン男爵夫人と末娘は明日、温泉施設の入場者数を確認してもらい、施設に向かうことになった。
どうせならと、母親は東の町に居る上の娘も呼び、女三人でゆっくりしようと思い付いて連絡を取ってもらう。
その日の夜は、公爵領の領主館の客間に泊まる。
王都からの移動の間もたくさん話をした親娘だったが、領地に来た母親はまた色々と話すことが出来た。
「リナマーナ、あなた、イーブリス様と本当に気安い間柄なのね」
言葉遣いや態度もあまり褒められた娘ではない。
それでも、公爵家の孫で領主代理の少年は気を悪くする様子はなかった。
母親はずっとハラハラしていたのに、である。
何年かぶりに娘と同じベッドに入った。
「リナマーナも来年には成人なのね。 早いこと」
見事な赤い髪に手を伸ばし、ゆっくりと撫でる。
夫人は、本当にこの『赤毛』には娘が産まれた時から悩まされてきた。
(私の家系の遺伝とはいえ、最初は不貞を疑われたわ)
その頃から王都の屋敷と男爵領とで別居生活が始まる。
娘は、お友達に『赤毛』を揶揄われたと泣き、自分の髪を嫌って何度もハサミを持ち出した。
「リナマーナ、お前の赤毛は国で一番可愛いよ」
「ええ、勿論よ。 わたしの妹は誰よりも美人になるわ!」
上の子供たちは精一杯、褒めてくれた。
お蔭で少々我が儘な娘に育ったが、男爵家の者たちは幼い心を壊してしまうよりマシだと思っている。
しかし、父親だけは少し違う。
まだ妻の不貞を疑っているような気配がある。
勿論、夫人にはそのような覚えはない。
その家庭内の不和を感じ取り、繊細な末娘は引きこもりになってしまった。
(しかも、父親なのに、あんなことを企てていたなんて!)
『赤毛』の子供を欲しがっていた隣国の王族に引き渡そうとしていたと聞いたときはゾッとした。
(イーブリス様がいなかったら、リナマーナのことを何も知らないまま他国へ渡していたかも)
それをやろうとした夫も、隠していた息子も許せない。
スヤスヤと眠る娘の寝顔を見る。
領地の商売のことで手一杯で、あまり構ってやれていなかったと反省した。
娘の我が儘も、今思えば構って欲しいという意思表示だったのかも知れない。
(そういえば、イーブリス様は娘と自然に話していたわ)
もしかしたら、リナマーナは身分違いの恋をしているのだろうか。
夫人は急に切ない気持ちになって、娘を抱き締めた。
翌日、二人の娘と温泉施設で寛ぐ。
大きな浴場も解放的で気を惹かれたが、女三人なので個別の部屋を押さえてもらう。
一つの部屋に一つの浴室がある。
その浴室は室外にあり、塀や壁で他からは見えないように工夫されていた。
先に夫婦で利用したことがあるミーセリナが色々と教えてくれる。
こんな良い場所を家族には内緒で、一人で楽しんでいた夫のことを思うとフツフツと怒りが湧く。
「お母様、顔が怖いですわ」
ミーセリナの言葉にハッとする。
「そうね。 せっかく養生に来たのに心を乱すなんて愚かなこと。
全ては帰ってからにいたしましょう」
「あのお、お母様」
リナマーナがソロリと身体を寄せて来た。
「お兄様をあまり叱らないで下さいね」
先のキルス王との話し合いの席で一番に怒ってくれたのだと言う。
他国の者とはいえ、相手は国王陛下である。
よく無事だったものだ。
話し合いはイーブリスのお蔭で双方に非があるということで落ち着いた。
だけど。
「リナマーナ、あなた、本当にキルスに行く気なの?」
姉のミーセリナが心配そうに訊ねる。
「お父様のためなら、やめてもいいのよ!」
姉も相当怒っていた。
「ううん、私、違う国も見てみたいの」
あれだけ頭が良くて魔法も使えるイーブリスは、病弱であるため思うように動けない。
リナマーナは、どうせなら彼の役に立ちたいと思い始めていた。