ハグ→いちげきひっさつ
「見ろ、雫!子供が走ってるぞ」
「人間以外を見なさい」
いや、雫だって動物じゃなくて俺を見ているんだが…………。
俺と雫は今、ホッキョクグマを見ていた。
白くモフモフした体毛だが、その下からでも隆起した筋肉の段差が分かる。あれが陸上最大の両生類か。
「哺乳類」
もはや観察のし過ぎで俺の思考まで読めている雫に戦々恐々とする。
え、哺乳類なの?
人間も両生類って習った気がするんだけど。
「受精から子宮内で胎児に成長するまでは、それに近い状態の時期もあるけど。でも卵として出産する両生類と、お腹の中である程度は育てる人間は違う」
「なるほど、物理学の勉強か」
「生物学」
雫が物知りで助かったぜ、多分。
つまりホッキョクグマは哺乳類で、卵ではなくお腹の中で子供を一定の大きさまで成長させてから卵の殻で包んで出産するんだな。
また一つ学びが深くなった。
でも雫曰くデートらしいので、勉強よりも相手をキュンキュンさせてやらなくてはならない。
雫をキュンキュン…………どうやって?
雫はクールだが、少女漫画を買って読んでいる程度には恋愛に一定の興味を抱いている。
俺も借りているが、はっきり言って雫のキュンキュンするポイントはあるのか?読んでいる所を見ても無表情なので一切分からん。
逆に、何目的で買ってるか一切不明だ。
「雫、デートって何するんだ?」
「大志が思うデートは?」
「相手をキュンキュンさせること。雫の思うデートは?」
雫は俺から視線を外して動物を見つめる。
ライオンより強いかもしれない雫に睨まれたせいか、欄干の向こう側でホッキョクグマも固まっていた。
もしかして雫って人間じゃないのか?――などと考えていた俺の肩にこつりと雫の肩が触れる。
いつの間にゼロ距離に!
「大志と思い出を作ること――だけど?」
雫の返答は至ってシンプルだった。
「思い出か、なるほど」
「だから特別なことは考えないで、普通に過ごせばいい」
「じゃあキスとか要らないか」
「…………したいの?」
「え?うーん…………雫とかぁ……………したいとは思わないタイ痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!」
いつのまにか後頭部を鷲掴みにされていた。
めりめりと指先が頭にめり込んでいるのが分かる。
一頻り悲鳴を上げて、雫が手を離したことで俺は激痛から解放されて胸を撫で下ろす。
「雫はしたいの?」
「私?」
質問され返すことを予想していなかったのか雫が狼狽える。
「………………………………………………………………………………したいかしたくないかと言われれば、したい……………?」
雫は眠ってしまったのかと誤解するほど長考した後、小さな声で応えた。
キスがしたい、か。
だが、ここまで動揺している意味が分からない。
中学三年のホワイトデーでは、颯爽と俺のファーストキスを奪ったというのに。あの潔さは何処へ行ったのだろうか。
「そんな恥ずかしがらんでも」
「アンタは、恥ずかしくないの?」
「だって雫が相手だし」
「……………思うことも無いわけ?」
「思うこと?嬉しい以外には特に何も」
「嬉しい?」
「だって家族同然とはいえ、美少女とキスできるんだぞ。加えて相手は雫、喜ぶには申し分ないだろ――――」
そう言った瞬間。
がしりと顔を左右から手で挟み撃ちにされた。
心なしか先刻の後方アイアンクローよりも圧力が凄いが、頭皮マッサージみたいで気持ちいい。
何か、雫の目が血走ってる。
雰囲気が怖い。
あ、いい匂い。
「雫、何か怖いぞ」
「黙ってて」
「雫ってまつ毛長いよなんぷ」
喋っていたら口を塞がれた。――手で。
キスされると思っていたので、予想外の雫の行動に俺もしばらく驚きで停止した。
………これは、何の時間?
雫はどこか不満げな顔だった。
俺の口を手で塞いだまま、至近距離で睨んで来る。
「………もふべが?」
「…………何か、ムードが無い」
「ムード?」
口から手が離れ、ようやくまともに喋れる。
ムードってあれか、最近習ったけど食べ物みたいな意味じゃなかったか?
そろそろお腹が空いたって事か。
スマホで確認してみたが、時間的には少し早いな。
「雫、腹減ってんなら飯にする?」
「何で私が空腹だと思ったわけ?」
「だってムードって食い物的な意味だろ?」
「違うから。…………逆に大志、私としたい事は無いの?」
まだその話は続いていたのか。
特別な事はしなくていいと雫本人が言ったのに、良い思い出作りのために気が逸っているのかもしれない。
雫としたいこと、したいこと。
出来れば、やった事が無いやつにしたい。
キスだって中三ホワイトデーで経験済み、恋人を作るのは現在進行中、ゲームは帰ってからだし…………ん?
考えながら周囲を見回していたところ、近くの仲睦まじい男女一組を見つけた。
お互いに抱き合って、クマを背景に写真を撮っている。
「雫」
「なに」
「ハグしようぜ」
「は?」
かれこれ雫との交流は十数年。
俺と雫で経験した事が無いという程には一緒に色々とやってきた。
キスだってしたし、風呂だって一緒に入ったし、同じベッドで寝たりした。家族感覚でやってきたこととはいえ、恋人関係に当てはめて考えると殆ど実行済み。
だが、あのカップルを見て己の私生活において単純なことを失念していたと密かに思い知らされた。
そう――ハグだ。
普段から殴り蹴りと色んなスキンシップは多いが、雫と抱き合った事など一度もない。
「ハグしようぜ」
「ハグって…………」
「やらない?」
雫は呆けたような顔になって、少しすると険しい面持ちになる。
「ただのハグでしょ?それは今更別に何も感じない」
「そうか?」
「当たり前でしょ。私たちがこれまで何をやってき――」
「えい」
何かウダウダ言ってるので俺から抱き締めた。
取り敢えず抱き方は、雫の方が体格が小さいから背中と後頭部に手を添えて体を寄せる。
…………うん、違和感がすごいな。
ハグっていうよりは、絡みつく感じか。
『ドクン、ドクン、ドクン』
何か大きな音が聞こえる。
周りというより、体の中のような………。
『バクンッ、バクンッ、バクンっ』
音がより一層激しくなる。
何か腕の中で跳ねているような、というか雫の体が妙に熱い。
俺は少し腕の力を緩めて、雫の表情を覗いた。
「ごめ…………無理…………死んじゃう」
か細い声で何か鳴いてる。
顔が真っ赤になって、体は小さく震えていた。
あと、ドクンドクンって凄い音が未だにする。
この反応、何か…………。
「雫」
「ふぇ」
「今のおまえ、メチャクチャ可愛いぞ」
「にゃっ!?くふぅ……………」
率直な感想を言ったら、雫が腕の中で脱力してしまった。
意識が無いのか、どれだけ揺すったり名前を呼んでも反応しない。
ううむ。
「――とりま、写真だな」
真っ赤なまま失神した雫と俺を自撮りカメラで撮影しておいた。