【問題編3】哀 少女
「――ということで、遅ればせながらお土産よ」
翌日、連休明け初日の朝。
いつものように部屋に闖入して唇を奪おうとしてきた春水を追い出し、制服に着替えて階下に降りた私は、キッチンで朝食の準備をしている春水にそう声をかけると、隣の六畳間の両親の仏壇に置いてあった紙包みを持ってきて、ダイニングテーブルの上に置いた。
「はい、ありがたく受け取りなさい。浜名湖名物、夜のお菓子《うなぎパイ》」
「マコちゃん、この際やから言わせてもらうけど……一応はウチかて花も恥じらう乙女やねんで」
調理の手を休めた春水は、ジトッとした視線でこちらを振り返った。
「食べさせる彼氏もおらんウチにこんなん土産にするなんて、嫌がらせにもほどがあるで」
「私に対するあんたの日頃の行いを考えれば、こんなの全然嫌がらせのうちに入らないわよ。毒を盛られないだけありがたいと思いなさい」
「相変わらずきっついお言葉やな」
春水は拗ねたような顔付きで、
「ええもんええもん。そんならウチ、うなぎパイ一気食いしてた~っぷり精付けて、今夜はマコちゃんをベッドの上でヒイヒイ言わしたる」
どこのヒヒジジイだ、お前は。
「……花も恥じらう乙女が聞いて呆れるわね」
私は目覚めのコーヒーにクリームを落としつつ、大仰に肩をすくめた。
「♪スクランブル~エッグ、俺は涙を――」
下らない替え歌を無駄にいい喉で歌いながら、卵と牛乳を溶いて塩胡椒をした春水が、弱火で熱したフライパンにバターを落とすと、香ばしい音と香りがダイニングに広がる。
春水が私を迎えに来る時は、大抵朝食まで用意してくれるのだが、これに関しては素直にありがたいと思っている。私はかなりの低血圧なので、彼女が起こしに来なければ、朝飯抜きでタイムリミットギリギリまで寝ているに違いないだろうから。面と向かって言うと調子に乗るので、口にこそしないが。
スクランブルエッグが出来上がるとほぼ同時に、トースターがチンと小気味よい音を立ててキツネ色に焼けた食パンを吐き出し、二人でささやかな朝の食卓を囲む。
「――そういえば、休みが明けたらすぐ中間テストね」
トーストにマーマレードをたっぷり塗りながら、私は口を開いた。
「今から憂鬱だわ」
「えっ、テスト期間中は半ドンで帰れるからウチはウキウキ気分やけどな」
「そりゃ、オールマイティに成績優秀な春水はそうでしょうけど……文系人間の私には数学という、三国志でいうところの虎牢関的に難攻不落な壁が立ちはだかってるのよ」
はあ、と大きいため息を漏らす。
前回の期末テストは、赤点――大抵の学校はそうだろうが、我が校の赤点の基準も概ね平均点の半分以下である――を取って春休みをふいにするのは辛うじて免れたのだが、今年度から私たちのクラスを受け持つ数学教諭の赤点の基準は、何と一律三十五点以下。それこそ呂布との一騎討ちに等しい地獄なのである。
「大丈夫やって、マコちゃん。ウチがいつもみたく苦手科目を手取り足取り教えたるから、大船に乗った気でいればええねん」
春水が胸をドンと叩き、豊かな二つの膨らみを揺らした。
「……これであんたが交換条件を出さなきゃ、ね。あんたの言う大船ってエスポワール号だわ」
どこに連れて行かれて何をされるか判らない、という意味で。
前回の交換条件は一日メイドプレイだった。ああ、忌まわしい記憶が色鮮やかに蘇る――春水がいつの間にやら用意した、夢がいっぱいフリルいっぱいのこっ恥ずかしいコスチュームを着せられ、地声よりオクターブ高い声で彼女を「お嬢様☆」と呼んで、色々と奉仕しなければならなかった、あの屈辱。
あんな羞恥プレイは二度と御免蒙りたいところだが、春水の助けを借りずにテストを乗り切る自信は、残念ながら限りなくゼロに近い。
「次は執事プレイや~」
前言撤回。こ、今度こそは独力で理数系を乗り切ってやるもんっ。
「ふん。そういつもいつも、あんたの慰みものにされてたまるもんですか」
目の前のツインテールの髪型をした悪魔を、精いっぱい睨み付けてやる。
「ま、キツうなったらいつでもウチを頼ってきてええで。衣装一式は既に用意済みやから」
「それは随分と準備いいことで……てゆ~か、なぜそんなの持ってる」
私はテーブルの上のリモコンに手を伸ばし、テレビを付けた。
朝のニュース。《新橋駅前》と右上にテロップの入った画面の中の女性レポーターが、出勤途中のサラリーマンにマイクを突き付けて、ゴールデンウィーク中はどこに行ったか街頭インタビューをしていて、カメラがスタジオに戻ると、私の嫌いな中年男性のコメンテーターが「日本のお父さんたちは連休中も家族サービスで大変だったようですねぇ」と、いやに媚びた口ぶりで愚にも付かないコメントをしていた。
「ああいう番組のコメンテーターの出演料って、一回につき大卒の初任給と同じくらいだったかしら。そんな人にサラリーマンの代弁者顔されてもね」
「えらい御機嫌斜めやな、何かあったん?」
春水が訊いてきたので、私は爽やかな笑みを振り撒きつつ以下のごとく答えてやった。
「そりゃ、あんたなんかと朝っぱらから顔突き合わせてるからに決まってるじゃない」
「酷っ」
私より一足早く食事を終えた春水は、椅子を引いて立ち上がった。
「あ~あ、ウチの今年のゴールデンウィークは殺伐としたもんやった。ウィダー片手に原稿描いてた記憶しかあらへん」
「あんたが好きでやってんでしょ」
「それはそうなんやけど、遠く浜松に旅立ったマコちゃんと全然会えへんのが寂しゅうて寂しゅうて……夜ごと、どれだけ枕を濡らしたことか」
ヨヨヨ、と泣き崩れる真似をする春水。
「私の方はいつもウザったくまとわり付いてくるあんたから解放されて、とても充実したバカンスを送らせてもらったけどね」
「……相変わらずつれないで、マコちゃんは。まっ、そこが魅力なんやけど」
春水は軽く肩をすくめると、食べ終わった食器をシンクの洗い桶に放り込みながら、こちらに首を傾けて、
「ところで浜松はどうやった?」
「うん、すっごい楽しかったわよ。ちょうど帰省してた大学生の従姉に車出してもらって、県内をあちこち案内してもらった」
「そういやマコちゃんの叔父さんトコって、確か養鰻場経営してはるんやったっけ? ほんなら鰻丼食い放題やん、ええなあ~」
「そんな毎日は食べられないわよ。でも、数ヶ月分くらい食いだめしてきたのは確かね。スーパーで売ってる外国産のみたいな変な脂っぽさが全然なくて、やっぱ本場の味は違うなと思ったわ。オーソドックスな蒲焼き以外にも、色んな鰻料理を御馳走になってきたわ。肝の串焼き、白焼き、う巻き、うざく――」
「枢木?」
それはスザクだ。
「うざく、よ。蒲焼きの鰻を細かく切って、ザク切りにしたきゅうりと一緒に三杯酢で和えたものだって。意外と美味しかったから、今度兄貴の酒の肴にでも出してあげようかしら」
「ウチも食べたいな~。マコちゃんの、う・な・ぎ」
「文は人なり、とはよく言ったものね。あんたが口を開くと何気ない台詞でも、不思議とセクハラされたみたく聞こえるわ」
私はそう言い捨てると、それはマコちゃんが耳年増なだけ、と春水が抗弁しかけるのを黙殺して席を立った。言うにこと欠いて耳年増だと? そんなことはないはずだ、きっと……多分。
ダイニングを出て右手突き当たりの洗面台に向かい、歯ブラシを手に取る。だいぶんキューティクルの死んだ毛先を眺め、そろそろ替え時だな、と思いながら歯を磨く。鏡の横に掛かった銀色の小さいデジタル時計を見ると、七時四十五分を示していた。
今日は、かなり余裕を持って登校出来そうだった。
***
私たちの学び舎・私立経倫館は、江戸時代中期に設けられた藩校が維新後に旧制中学校、戦後は中高一貫教育校として発展したもので、県内でも五本の指に入る名門校ということで世間一般には通っている。
どちらかというと、県のエスタブリッシュメント階層寄りの子弟が多く集まるこの学校に、始終濃密な毒電波をゆんゆん放出している、どこに出しても恥ずかしい変人である春水が籍を置いているというのは、どうにもそぐわない感じなのだが――《ナントカと天才は紙一重》という俗な慣用句の通り、驚くべきことに彼女は学年首位の座を、入学以来保持し続けているのである。
私と春水は中学までは公立に通っており、高校になって経倫館に編入してきたのだが、春水の入学試験の成績はこの学校の校史に刻まれるほど優良なものだったらしく、去年の入学式においては、外部生でありながら新入生代表という大役を務め上げている。
が、それがとんでもない人選ミスだったことは当日明らかになった。
式場の体育館。春水が舞台袖から壇上に立って入学の挨拶を述べようとしたその時、音響機材のコードに足をつっかけてしまい、すぐそばに鎮座ましましていた理事長に見事なダイブをかました上、その弾みで頭のカツラを取ってしまったのである。
《それ》は綺麗な放物線を描いて校旗の掲揚された場所まで飛翔し、ポールの先端に帽子掛けよろしくすぽっと納まった。
壇上で唐突に繰り広げられた思いも寄らぬ笑劇に、式場に居合わせた全員の心が「笑ってはいけない」という思いで、一つになった。幸い、観客に笑い屋のおばちゃんは交じってなかったので、私たちは何とか試練に耐えることが出来た。高校一年生は箸が転がってもおかしい年頃とはいい条、そういう場合見て見ぬふりをするのが世間知ということくらいは、十二分にわきまえているのである。
非常に滋味深い数秒の沈黙の後、何ごともなかったかのように式は粛々と再開されたのだが――いざ、理事長以下校内外のお歴々と相対して挨拶を読み上げる段になると、
「私たち新入生一同は、人の気持ちに思いを馳せることの出来る心優しい人間を目指します。ズラの人に面と向かってズラとは言いませんっ」
駄目押しみたいなアドリブ入れてきやがって……あの時、舞台照明を受けて光り輝く頭を垂れ、悪魔払いを受けている人みたいに身体をブルブル震わせていた理事長の姿は、不憫の一言に尽きた。が、そんな理事長への惻隠の情も、一挙にレッドゾーンを突破した笑いの衝動の前には抗すべくもなく、大半の人間の腹筋を連鎖的に崩壊させてしまい、厳粛たるべき式場は爆笑の渦に呑み込まれてしまった。
式終了後、舞台袖に呼び出しを食らった春水が、こってり油を絞られたのは言うまでもないだろう。
この一件以来、春水は《何をしでかすか判らない要注意生徒》という認識が校内ですっかり確定し、生活指導部その他諸々の組織から常時熱い視線を向けられる羽目になってしまったのだが、当の本人はどこ吹く風といった様子で飄々と学園生活を送り、私と一緒につつがなく二年生へと進級したのである。
ゴールデンウィーク明けの五月七日。
朝の街はいつもの慌ただしさを取り戻し、最寄りのバス停には市の外れの工業団地に向かう人たちに交じって、灰色のブレザー姿の経綸館の生徒たちが並んでいる。
沿道に植えられた公孫樹の木は青々とした若葉を茂らせ、その下に並べられたプランターには色とりどりの花が咲いている。季節の初夏への模様替えは着々と進んでいるらしい。
列に並び、春水と昨日録画した番組の話をしているうちに、クリーム色の車体に緑色の帯を貼り付けたバスが滑り込んできた。車内は半数くらいが灰色のブレザーで埋まり、適度な喧騒に満ちていた。私たちも喧騒の一部に加わって下らない話に花を咲かせているうちに、《大神田三丁目》のバス停で遊が乗車してくる。いつもは部活の朝練で、七時半くらいには登校しているはずなのだが。
内心不思議に思いながらも、おはよう、と声をかけようとした私は――あたかも言語中枢が急速冷凍されたかのように、かけるべき言葉を瞬時にして失った。
活力に満ちた朝の光に照らされた遊の顔を分厚く覆っていたのは、一筋の光も射さない深い闇のような表情だった。
「――よっ、今日も仲よく同伴出勤か」
こちらを認めた遊は、ぎこちない笑みを口元にじわりと浮かべながらパスケースを懐にしまうと、人混みを軽やかにすり抜けて私たちのもとに近寄り、ひょいと片手を上げて挨拶した。一見いつもと変わらないしぐさだったが、目に見えない個所で重要な部品が一つ欠けた精密機械が、故障の危険を孕みながら騙し騙し動いている――私の目にはそんな風に映った。
私たちの間を何とも息苦しい雰囲気が囲繞していた。私と春水は何も気付いていない風を装い、それとなく遊の様子を窺って探りを入れてもみたが、彼女は心ここにあらずといった体で「ああ」とか「うん」とか生返事をよこすだけだった。
表情から察して、単なる体調不良などではなさそうだった。
となると、遊が朝練に出ない理由は今のところこれ以外に考えられないが、バスが学校に着くまでの間、結局私は遊に尋ねることが出来なかった――鈴木君と何かあったの、とは。
***
経倫館の校舎は、学校の機能の大半が置かれている新校舎と特別教室が集中する旧校舎とに大別される。新校舎には南棟と北棟があり、両端の二つの渡り廊下がそれをつないでいる。形は上下の線が極端に太い「ロ」の字を想像してもらえればいいだろう。
私たちのクラス《2‐A》は、南棟三階の渡り廊下近くに位置する。
教室に入ると私たちはそれぞれの席へと散り、窓際の後ろから二番目というなかなかの立地条件である自分の席に腰を下ろした私は、前の席で熱心に携帯をいじっていた許斐祥子嬢に声をかけた。
「おはよう、連休中どっか行ったの?」
「あっ、おはよ~、麻琴ちゃん」
ポニーテールを揺らして振り返った彼女が、華やいだ様子で話すところによると、同じクラスで仲のいい秋川茉莉花さんと一緒に、二泊三日で大阪に行ったらしい。
UFJで映画の登場人物になりきってアトラクションを楽しんだり、海遊館でジンベイザメの大迫力に圧倒されたり――と平々凡々な観光コースを満喫し、アメリカ村ではバイトして貯めたお金で洋服やらアクセサリーやらをどっさり買い込んだそうだ。青春してるなぁ、大阪でショッピングといえば真っ先に日本橋の電気街が思い浮かぶ自分に比べて。
……少し切ない気持ちになるのは、なぜだろうか。
「そうそう、後ね」
大阪出身の某アーティストが学生時代にバイトしていた、アメリカ村付近のラーメン屋で昼食を食べた――と、許斐嬢。何でも連れの秋川さんが熱烈なファンとのことだった。
「麻琴ちゃんは聴いたりするの?」
「サイバスターのエンディングなら時たま。兄貴がシングル持ってるから」
「えっ、御子柴さん何?」
許斐嬢の下膨れた色白の顔が、瞬時に困惑の色で染め上げられた。
「……ごめん、何でもないわ」
私がかぶりを振って更に切なくなったところで本鈴が鳴り、全然似合わない派手目の赤いネクタイ――娘さんか誰かのプレゼントなのだろう――をいつも締めている、還暦間近の世界史の椋梨先生が、もっさりした足取りで教室に入ってきた。
先生は板書しながら、ぼそぼそした口調で説明する。
「え~、アウグストゥスの家系の最後の皇帝・ネロが親衛隊の反乱で倒された後、短い内乱期を経て、ローマはいわゆる《五賢帝》時代という最盛期を迎える訳だ。後に『ローマ帝国衰亡史』という長い本を書いた、イギリスのエドワード・ギボンという学者はこう言ってるな――人類史上最も幸福な時代、と。先生史上最も幸福な時代は今の女房と結婚する前だが」
教室のリアクションはお通夜状態だったが、先生は全然意に介さない様子だった。多分、田舎の旧家のぬか床よろしく何十年も使い古しているギャグを、脊髄反射的に口にしただけなのだろう。
シャープペンを持った私の手は、黒板に列挙された五人の皇帝の名前をオートマティックに書き写し、目は右斜め後ろの席の男子が妙にニヤけた表情を黒板の文字に向けているのを見ているのだが、心はすっかり別の場所に飛んでいた。
先ほどの遊の不可解な様子。それに対する疑念が、靴の裏にこびり付いたガムのように私の頭の中にべっとりと膠着し、別の思考を呑み込んで膨れ上がっていく。
ネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス・アントニヌス――素朴かつどうでもいい疑問だが、どうして後になるにつれて長くなるのだろうか。特に最後、そりゃ中国人も安敦と省きたくもなるわな……って駄目だ、授業に全然身が入らない!
日頃の優等生ぶりを放棄した私は、黒板から視線を外して頬杖を突き、脳内で渦巻いている思考と本格的に向き合うことにした。
――遊と鈴木君の間に何かあったと仮定するなら、その《何か》が起きたのは私と別れた後のことだろう。昨日私や春水と一緒にいた時は、憂いの表情は欠片も見当たらなかったのだから。
とはいえ、私とバス停で別れた後、遊と鈴木君が直接顔を合わせたとはまず考えられない。前に遊がメールで言っていたが、ゴールデンウィーク中はお祖父さんの法事で東北の郷里に帰省していた鈴木君は、昨日の夜まで白陽に戻って来てないはずだったから。家に帰り着いた時には、私と同じようにUターンラッシュに揉まれて、身も心もくたくただったと思われる鈴木君は、遊とはせいぜい電話かメールで短い遣り取りをするくらいが関の山だったのではないだろうか。
となると、そのデジタルな逢瀬の間に二人の仲が冷え込む《何か》があったということになるが――よくよく考えてみると、恋人未満だった時期も含めると一年近い時間をかけてじっくり醸成されてきた恋愛感情が、まるで熱湯をかけたガラス細工のようにほんの一瞬でひび割れてしまうというのは、私にとって容易には受け入れがたい考えではある。
私自身は今のところ三次元で気になる異性はいないし、寄ると触るとその手の話題で盛り上がるクラスメイトの娘たちを、どちらかというと醒めた目で見ているのだが、《いつかは素敵な人と幸せな家庭を築きたい》という結婚願望は、漠然としているものの人並みには持ち合わせているし、時にはあられもない妄想に耽ることもある。そして、そういう時に己の中に確固として存在する、どうしようもなく《女》な部分を否応なく認識させられるのだが――。
多分、私の中にある恋愛観は、まるで江戸時代の画家が伝聞と想像だけで描いた象のように、実物と微妙に異なった歪なもので、なおかつ、自分が勝手に思い描く理想という糖衣で分厚く覆われている、とても不自然なものなのだろう。だからこそ、私は遊の身に起きたかも知れない現実を受け入れがたいのだ――甘ったるい幻想のヴェールを剥ぎ取られた、身近な人間の恋愛の生々しい実態を眼前に突き付けられることで、己の恋愛観がいかにリアルから遊離しているか、そしていかに幼稚なものかを改めて思い知らされることになるから。
今すぐ遊に問い質したい、という気持ちが私の中でみるみるうちに膨れ上がっていくが、孤高な性格の遊が素直に口を開くはずもない。何でもない、と煩わしそうな顔で一蹴されるのは火を見るより明らかだった。が、親友の窮地を見過ごしにして今日一日を過ごすことなんて……。
無精卵を孵すような不毛な自問を何回反復しただろうか、いい加減うんざりした私は深呼吸を一つして、窓の外に視線を移した。
空の青はポスターカラーを塗ったようにむらなく鮮やかで、強い陽の光が近くの民家の屋根瓦をキラキラと照らしていた。こんな天気を五月晴れとい言うのだろうか。いや、この場合の《五月》は旧暦の六月のことだから、梅雨の合間の晴れのことだって、こないだの古文で言ってたっけ……。
窓ガラスに付いた瑕をぼんやり眺めているうちにベルが鳴り、一時限目の終了を告げた。
***
そうでなくても憂鬱な心境なのに、よりによって二限は一番嫌いな科目の物理である。多分私は前世で物理学者にでも殺されたに相違ない。こんな言い方は中二病以外の何ものでもないが、作用反作用の法則がこれからの長い人生で何の役に立つんだろうか。いや何の役にも立たない(反語表現)。
これからの五十分の苦行に思いを致しつつ、ジュースでも買おうと自販機のある新校舎と旧校舎を繋ぐ渡り廊下に出ようとした時、
「あ、御子柴さん」
教室の出口でちょうど今の今まで私の頭の何割かを占領していた当人、鈴木君と鉢合わせた。
引き締まった長身、健康的なスポーツ刈り、きりりとした目鼻立ち…こうして改めて間近で見ると、好青年という形容がふさわしい。
「綾瀬さんいるかな?」
「うん」
私が頷くと、鈴木君は屈託ない口ぶりでありがとうと言って連れの女の子と一緒に教室に入っていった。
(あの子は確か…)
さっきの世界史で資料集を見るともなくめくってたら目に留まった、昔の風刺画の中国人のような細い目とそばかすに見覚えがある。陸上のマネージャーの河野あかりさんだ。
遊との雑談で何回か名前が出たことはあるが、悪口が嫌いな彼女にしては珍しいことにあまりいい風には話してなかったのが強く印象に残っている。
彼女が鈴木君と行動を共にするのは不自然な感じが拭えないが、今はそんなことはどうでもいい。教室にUターンした私はそれとなく遊の席に視線をやった。
「遊、具合は?」
鈴木君が心配そうに尋ねると、遊は私と春水に見せたのと同じように取り繕った笑顔で、
「心配掛けちゃってごめんね、だいぶ良くなった」
「そう良かった」
その笑顔のぎこちなさを察したかどうか、そこまでは判らなかったが、鈴木君は白い歯をこぼしてひとまず不安げな表情を解いた。
「お前が朝練休むなんて初めてだからみんなすっげーびっくりしてて、大地震の前触れなんじゃねーかって話してたんだ」
「ひっどー」
遊が苦笑いすると釣られて河野さんも笑ったが、その笑顔はそこはかとなく義務的な感じがした。
「遊、休み中も毎日自主練で登校してたから疲れが出たんじゃないかって先生が心配してたよ」
ねぇ修太、と河野さんが隣の鈴木君に水を向けると彼は頷きながら、
「インターハイ賭かってるから無理する気持ちも判るけどさ、夏が来る前に燃え尽きちゃったらそれこそ何にもならないだろ」
「うん、しっかり自己管理するよ」
「頼むよ期待の星、お前がインターハイ出たら予算の遣り繰りであかりが悩む必要もなくなるんだから」
それだけ実績を上げれば予算にも色が付くという意味だろう、冗談めいた言い方をして陽気に笑った鈴木君はブレザーのポケットからCDケースを出して、
「これサンキュな」
遊に手渡した。どうやら借りてたらしい。
「どうだった?」
「やっぱ最高だわ、特に四トラ目のさ…」
その後は、二人の間を私にとっては未知の単語が二限のチャイムが鳴る寸前まで熱っぽく行き交っていた。二人の共通の趣味の洋楽の話題なんだろう。
河野さんは退屈そうな顔を隠そうともせず、鈴木君の後ろに影法師のように突っ立っていた。
(冷戦…って訳でもなさげだなぁ)
そう思った私が三人から視線を外すと今度は春水と目が合う。私と春水は無言のうちに互いの視線を結び合わせていた。
きっと今、私たちは同じ思考を共有している。
「…どう思う?」
二時限目、もしくは物理という名の拷問からようやく解放された私は春水と連れだって渡り廊下に出た。
「うーん、ローゼン三期はどうなるんかなぁ」
「ボケは省略でお願い」
そっちの方も気にならないことはないが。
「あの様子だと鈴木君は関係なさそうね」
私の言葉に春水は大きく頷いた。
「確かに、遊は好き嫌いが露骨に顔に出るしなぁ」
女子というものは概して裏表が激しく本心を隠すのが上手いけど、遊はそれと真逆の性格なのはこれまでの三年弱の付き合いで判っている。要は微妙に世渡りが下手なのだ、私と同じく。
「…じゃあ、遊があんなな原因って何だろう。あんな死人みたいな暗い顔初めて見たよ」
そう言ってもオーバーではないくらいあの時の彼女の様子は異常だった。
「う~ん、うちらが外野でウダウダ言うとっても仕方ないんちゃうかな。やっぱ直接当人に訊いてみんことにはなぁ」
「…随分とあっさり言ってくれるわね」
それが出来れば最初から苦労はしないんだが。
「ま、それは放課後ファミレスの作戦会議でじっくり訊き出せばええんちゃう」
結局それか…ま、半ば予想はしてたんだけど。後で今日は定時で退庁する兄貴に夕飯は要らないってメールしとかなきゃ。
「じゃあそれは春水の方できっかけ作ってよ、二人で一緒に誘うと警戒されそうだから」
周囲の人間に余計な心配を掛けないように表面上は明るく振る舞っている彼女のことだから、私たちが心配していると察したら更に嘘の上塗りをするに決まっている。
「難儀な娘やで」
肩をすくめる春水だったが顔は笑っていた。
「全くよね」
私も釣られて笑った。二人とも遊のそういう無器用な性格が好きだから。