【問題編2】ドージンパーティー
身支度とブランチを簡単に済ませた私は、春水と連れ立って、自宅から歩いて二、三分――市の中心地とそれを貫いて流れる桂谷川を見晴らせる高台に位置する、彼女のマンション《レジデンス祇王野》に向かった。
彼女の御両親は西洋アンティークの仲買だか何だかの仕事で、ヨーロッパ中を目まぐるしく飛び回っていて、年に数回しか日本の土を踏めないらしいので、マンションには彼女一人しか住んでいない。高校生で一人暮らしってどこのギャルゲーの主人公だ、お前は――ってツッコんだら負けなんだろうな、多分。
五月の甘く爽やかな風が、沿道に立ち並ぶ木々のエナメルがかった黄緑色の若葉を揺らし、抜けるような群青色の高い空からは、もうじき訪れる夏の気配が濃厚に感じられた。白陽は四方を山に囲まれた盆地なのでなおさらだが、もう半袖でもいいくらいの陽気である。
春水のマンションは、煉瓦造りを模した赤茶色の建物である。白と黒のタイルが市松状に床に敷き詰められたエントランスに入ったところで、
「あっ、そうそう。今日はマコちゃんの他に特別ゲストを呼んどるんよ」
と、春水はいやに思わせぶりな言い方をした。
「特別ゲスト?」
私がオウム返しに訊いたその時、彼女の携帯が水樹奈々の曲を鳴らしてメールの着信を告げた。
「曹操の話をすると曹操が来る、向こうも家の前に着いたみたいやな」
メールを確認した春水は、八重歯を覗かせてにんまり微笑んだ。
エレベーターで三階まで上がって春水の部屋の前まで来ると、果たして、くたびれた灰色のオーバーオールに黄色のTシャツという、まるで『池袋ウエストゲートパーク』にでも出てきそうな格好をした少女が、脱いだキャスケットを手持ち無沙汰そうにいじりながら、ぽつねんとドアに寄りかかっている。
「……よう、御子柴」
セシルカットの髪型がボーイッシュな印象をいや増しに強調している、その少女――我が元中の畏友にして同級生・綾瀬遊は、憮然とした顔をのろのろとこちらに向けた。
十畳ほどの広さのリビングに通される。
商売柄、美的感覚には鋭敏であろう春水の御両親の眼鏡に適ったと思われる、見るからに高価そうな応接セットの中心に据えられた、ヘンリー・ムーアの彫刻を彷彿とさせるエロチックな曲線で構成されたガラスのテーブルの上には、炎髪灼眼の討ち手と非情のメイドがあんなことやこんなことをしている原稿が、何ともミスマッチに散らばっていた。
「あたしにはさっぱり理解出来ないな」
原稿をアンビバレントな視線で一瞥した遊は、率直な感想を漏らす。
「私も時々付いていけないわ」
隣のシステムキッチンで、綺麗なハミングで『緋色の空』を歌いながら紅茶を淹れている部屋の主の方にくいっと顎をしゃくって、私は遊の発言に同意したのだが、
「嘘つけ、充分付いてってるくせに」
「全然よ、そんなことより――」
私は話の矛先を変えることにした。
「――休日返上でインターハイの県予選だっけ、の猛特訓に勤しんでるあなたが今日に限ってどうしたのよ?」
「いや。さすがに一日くらいは完全オフにしたかったし、それに……」
遊は恥じらうような表情でごにょごにょと語尾を濁したので、
「さてはケーキに釣られた?」
私が水を向けてみると、ややあってこくんと控えめな頷きが返ってきた。
「……あたしだってケーキの魅惑の前には無力な一女子高生なんだ、キャラに合わないとか笑わないでくれよな」
と、遊の口元に自嘲の笑みが浮かんだ。
「あらあらうふふ」
「……言ったそばからこの野郎、ってかお前もあたしと同じだろっ!」
顔を真っ赤にして怒った遊は、部活で鍛え上げられた強靭な腕を稲妻の速さで私の首筋に巻き付けると、万力のような膂力でスリーパーホールドを極めてきた。
「ちょ、ま……痛い痛いっ、痛いってば!」
涙目で情けなく叫んだ私が、おもちゃ売場で駄々をこねる子供のように足をバタバタさせていると、遊はようやく腕の力を緩めてくれた。
「ぜえぜえっ……マ、マジで死ぬかと思った……」
一瞬、綺麗なお花畑と死んだ両親が見えたぞ。
「てゆ~か、お互い春水の被害者なんだし、仲間内で不毛な争いはやめましょうよ。その怒りはもっと別にぶつけるべきだわ」
「それはもっともな意見だな」
私の言葉に遊がしかつめらしく頷いたその時、春水がケーキと紅茶の乗った盆を手にして、うきうきした様子でリビングに戻ってきた。
「さっ、美味しい紅茶も入ったことやしみんなで食べよ食べよっ」
「――春水、ちょっとお盆をテーブルに置きなさい」
有無を言わさぬ口調で命じる。
「う、うん」
不穏な空気を嗅ぎ取ったのか、春水は少し怯えた様子で私の指示に従った。
「先生、お願いします」
私は遊の方に一礼すると数歩しりぞき、彼女が慌てて逃げようとする春水の首根っこをぐいと掴んでその場に押し倒し、サソリ固めの体勢に持ち込むのを悠然と眺めていた。
「ヤッチマイナー!」
私の号令一下、遊は唇の端を吊り上げながら春水の関節をぐいぐいと容赦なく締め上げていき、それに比例して春水の顔は苦痛に歪んでいく。
「ぴぎゃあぁ、やっやあぁらめえっ! 気持ちいすぎてウチ……お国がわからなくなっちゃうッ!」
リビング中に、彼女の絹を引き裂くような断末魔がこだました――てゆ~か、なぜにみさくら語?
隣室の住人に不審者として通報される前に春水を解放してやり、三人でケーキを頂くことにした。
春水が買ってきたのは、洋梨のシャルロットとマンゴーのタルト。洋梨のシャルロットは、円筒形に組み立てたビスキュイ生地の中に洋梨のババロアを入れたもので、貴婦人の帽子に見立てて周りにリボンを巻いているのが何とも可愛らしい。マンゴーのタルトは、フラン生地を流して焼いたタルトの上に櫛切りにしたマンゴーを乗せたもので、上塗りされた透明なナパージュが美しく輝いていた。
どちらも《パティシエ・トマ》で上位にランキングされる人気メニューで、昼過ぎには大抵売り切れてしまう。私たちは異口同音に「旨い、旨過ぎる」などと言いながら、小麦粉と卵とバターの織り成す芸術品を胃の中に収めた。
「は~、やっぱトマはどのケーキも最高だなっ」
遊はすっかり恵比寿顔だった。私と春水を苗字で呼び捨てているのがいい例で、いつもはそんじょそこらの男よりよっぽど男っぽい言動が目立つ彼女だが、こういうのを見るとやはり年頃の女の子だと実感する。
「それにしても、遊もとんだ災難だったわね。せっかくの完全オフだったんでしょ」
私は同情に堪えないという眼で、遊を見つめた。
彼女は我が校の陸上部の誇るエースで、去年は一年生にしてインターハイ中国大会出場という快挙を成し遂げている。中学時代から身体を動かすことがとにかく大好きで、部活漬けの毎日を送ってきた、文字通りの《陸上少女》である。
「うん。呼び出されたいきさつはともかく、たまにはお前らとこうして顔突き合わせるのも悪くはない」
随分と乱暴な口ぶりだが、これは彼女流の照れ隠しである。
「それにど~せ、うちで暇を潰そうと思っても、あたしの部屋のテレビは修理に出してるところだから、DVDも観れないしな。階下のテレビは親父がずっと占領してて、トドみたいに寝そべってケーブルのゴルフ中継ばっか観てんだよ。仕方ないから自分の部屋でCD聴いてたんだけど――」
「――そこをこいつに魅入られた、って訳ね」
遊の言葉を引き取った私は、のほほんとした顔で口元のクリームを拭っている春水に、乱暴な所作でくいっと親指を向けた。
「酷いでマコちゃんっ、そない人を悪魔か何かみたいに言わんといてや」
「今の発言はきっと悪魔の方からクレームが来るわね。こんな電波女なんかと一緒にしないでくれ、って」
私がいつものように冷たくあしらうと、
「ホント、御子柴って為永には容赦ないのな」
遊に呆れたような顔をされた。
「そう? 私としては至って普通のつもりだけど」
「マコちゃんの言葉責めはホンマ効くで~、ウチ乾く間もあらへん」
「何の話をしてる」
昼間から下品な言い回しはやめれ。
「お前ら二人の友情? の表れ、ということにしとくよ」
遊が言った。何ですか、その意味深な疑問符の付け方は。
「つまりアレやね、磁石のS極とM極がお互い引かれ合ったみたいな」
と、春水。
「ベタね」
私のそっけない寸評に、春水は可憐な花びらのような唇をひょっとこの面のようにすぼめて、いたく不本意そうな顔をしていたが、すぐさま、便所の百ワットのように無駄に明るい表情へとシフトチェンジして、
「まっ、遊は鈴木君との距離の取り方にお悩みのようやけど――あんたらもじっくり会話を重ねてけば、じきにウチらみたく気の置けない関係になるんちゃうかな」
と、いきなり遊に水を向けた。
思わぬ方向からの奇襲に、遊は「うっ」と短くうめいて目を丸くしたまま、幅広の肩をきゅっと縮めてドギマギしている。
「いやいや。私を引き合いに出す意味が判らない、てゆ~か、寝言は寝てから言ってほしいんだけど……それはともかく」
春水をひと睨みした私は、咳払いをして言葉を接いだ。
「何かいいわね、そういう悩み。すっごい初々しい」
経験豊富な大人の女性のような素振りで、にっこり微笑んでやる――実際は自分の恋愛偏差値なんて限りなくゼロに近いのだが、それに関してはひとまずさておく。
「お前らうっさい」
遊は浅黒い顔を真っ赤に染めて、悪戯を咎められた子供のような仕草でぷいとそっぽを向いた。この照れ屋さんめ。
***
遊に彼氏が出来たのは、ついこの間――ゴールデンウィークに入る前日のことだった。
相手は同じ陸上部の二年生・鈴木修太君。
一年生の頃から共通の趣味である洋楽の話で意気投合し、たまのオフの日には二人で遊びに出かけていたらしいが、その時は性別の垣根を越えた友人という認識だったらしく、遊が鈴木君を一人の男子として意識し始めたのは、今年に入ってからのことらしい。しかし、二人とも恋愛に関しては《超》が付くほどの奥手だったらしく、互いに告白を躊躇っているぎこちない状態がずるずると続いていた。
先々週の日曜の午後。部活の自主練を終えた遊と鈴木君は、いつものように隣町のショッピングモールに併設されているシネコンに映画を観に行った。そして、遊は学校の近くで鈴木君と別れた後で私と春水を、私たち三人がいつも溜まり場にしているファミレスに呼び出して、恋愛相談を持ちかけてきたのだった。
見た目からか、遊は明朗闊達で竹を割ったような性格ということで対外的には通っているが、私と春水はこれまでの付き合いで、本当の遊は人一倍シャイで繊細な女の子なのを――そして、素の自分をめったに表に出さないのを知っている。彼女の知己を得て四年になんなんとするが、その口から己のプライベートに関する話題が出てきたことは皆無だった。
だから、遊から《いきなりで迷惑だろうけど、相談に乗ってくれないか》と言われた時は迷惑に思うどころか、ようやく遊が私たちに胸襟を開いてくれた気がして、遊との心の距離がぐっと縮まった気がして、心の底から嬉しさが込み上げてきた。
確言するが、それは春水も同じ気持ちだったと思う。
私たちは、補導されないギリギリの時間まで――ことさらいい子ちゃんぶるようで何だが、私は推薦入試狙いなので調査書に瑕が付くような真似は極力避けたいのだ――ファミレスに居座って、お互いの恋愛観を包み隠さずに披瀝した。そして、《友達以上恋人未満のもやもやした現状にけりを付けたい》という遊の言には、私と春水は《なら勇気を出して告白するっきゃない》という、ごくごく平凡なアドバイスで応じた。
恐らく、遊の中で最初から結論は出ていたに違いない。でも、現状から一歩踏み出す勇気が足りず、私たちに背中を押してもらおうとしたのだろう。
その後も、遊はしばらくは告白を逡巡していた。なかなか二人きりになる機会がない、というエクスキューズめいた当人の言葉に、私と春水は大いにやきもきさせられたものだが、ゴールデンウィーク前日――遊は、ありったけの勇気を振り絞って鈴木君に自分の想いをぶつけ、鈴木君はそれを受け入れたのだった。
「――それにしても、遊もよくよく間が悪いわよね」
トーン貼りの手を休めて、私は口を開いた。
御両親から相当額の仕送りがあるのを反映してか、春水の原稿はスクリーントーンを往年のCLAMPとタメを張れるくらい贅沢に使っている。てゆ~か、貼る方の身にもなってほしいものである。
同人描きの間ではポピュラーな自虐ネタで、いつも身体にオナモミみたいにトーンかすがくっ付いている――というのがあるが、今日の私はそれを実体験するハメになりそうだ。どうか、今夜風呂に入ったら湯船にトーンかすがぷかぷか浮いていた、なんてことのありませんように。
「まさか、ゴールデンウィーク中ずっと、鈴木君がお祖父さんの法事で郷里帰っちゃうなんてね。普通だったら恋人になりたてホヤホヤなんだし、お互いの仲を深め合うためにも、もっと毎日ベタベタしてて然るべきなのに」
「独りで自主練なんて寂しいやろ」
春水の言葉に、遊はしばらく口を噤んだまま、ガラスのテーブルの下に透けて見える自分の膝に陰影を含んだ視線を投げかけていたが、
「そりゃ、全然寂しくないっつったら嘘になるけどさ……」
煮え切らない口調で呟いて、顔を上げた。
「その分、練習に神経を集中させられるってのはあるかな。恥ずかしい話だけどさ……今のあたし、あいつがそばにいるって想像するだけで変にドキドキしちゃうから、実際そうだったら、県予選前の大事な時期だってのにロクに練習にならないと思うんだ」
普段だったらここで、「熱いね」「ヒューヒュー」「お安くない」――三番目はさすがに死語か――といった類の、冷やかしの合いの手を入れるのがお約束だろう。が、遊の顔に貼り付いている、不快感の露骨な表出をギリギリの線で自制しているような苦い表情が、私たちにそれを躊躇わせた。
「それに……こういうことはあんま言いたくないんだけど、河野がいないから精神的に楽だってのもある」
口に出して多少すっきりしたのか、遊の表情がわずかに和らいだ。
そういうことか、と私は心の裡で頷いた。
河野あかり――遊と同学年の陸上部のマネージャーで、鈴木君とは同じクラスの娘である。住まいは市の北東部に位置する宮前で、同じ宮前に住んでいる遊の家の斜向かいとのことだが、二軒を挟んだ道路がちょうど学区の境目になっているらしく、小中学校は別々だったらしい。
彼女と遊はあまり仲がよろしくない。何でも、河野さんは一年生の時に同じ部活の三年生の先輩と付き合っていて、練習中にも二人でベタベタしたりと部活の規律を乱すような行動を取っていたという。根が真面目な遊は河野さんに強く注意したのだが、彼女は全く聞く耳を持たず、二人の確執はそれ以来のものらしい。
「河野さん、その先輩とはもう別れちゃったんだっけ」
「うん。先輩は早々に進学先決めて駅前のハンバーガー屋でバイトしてたんだけど、そのバイト先の娘の方とデキちゃったんだってさ。河野って四六時中あれこれ束縛するタイプっぽいから、あいつの執拗なアタックに根負けして取り敢えず付き合ってはみたけど、結構な遊び人らしい先輩にしてみたら、やっぱ《重たかった》ってことなんじゃないかな」
そして、先輩と破局した河野さんが次の恋の相手として狙いを定めたのが他ならぬ鈴木君で、いきおい、遊との確執を更に深めてしまったという次第である。
「ありきたりな言い方やけどホンマ、人は見かけに寄らへんな」
春水の人物評に、私は強く頷いた。
河野さんとは直接の面識はないが、校内ですれ違う時などに見かける限りでは、どのクラスにも数人は見受けられる、集団内では全然目立たずに路傍の石よろしく埋没してそうなタイプにしか思えない。
「今も鈴木君に盛んに言い寄ってるんでしょ、河野さん。地味そうな見かけに寄らず随分と押しが強いのね」
私は口に出してはそう言いながら、頭の片隅では――私がその半分くらいでも恋愛に対する積極性を持ち合わせていれば、今頃は素敵な彼氏を見つけているんだろうか――などと、やくたいもないことを漠然と思っていた。
「自分のためになることだけは積極的なんだよ、あいつは。部活にもそれくらい一生懸命になってくれりゃいいんだけど」
遊の言葉には明らかな棘があった。
「手厳しいわね」
嫉妬の感情も多少交ざっているのかも、と私は思った。
「悠長に構えとる場合ちゃうで、遊」
テーブルに身を乗り出した春水が、遊の目の前にピンと人差指を立てた。
「うかうかしとると鈴木君奪られてまうでっ」
「まさか」
遊は余裕の表情を浮かべた。
「あいつは河野なんか全然眼中にないよ。露骨に色目を使ってきて鬱陶しいったらありゃしないって、あたしによくこぼしてるもん。でも、あんまり冷たく扱って部全体の雰囲気を悪くする訳にもいかないしさ」
「なるほどね」
相づちを打った私が、数秒おいてクスッと軽く笑うと、
「何だよ御子柴、気持ち悪いなぁ」
遊に睨まれた。
「いや……今さり気なくノロケたな、って思っただけよ」
ごちそうさま、と私が言うと、それを受けた春水がことさらに上品ぶった口調で、
「よろしゅうおあがり」
「お前ら、あたしをからかう時はホント息ぴったりなのな……マジ、ムカつく」
遊はブスッとした顔でため息をつくと、黒インクを付けた筆先に怒りをぶつけながらベタ塗り作業を再開したのだった。
***
スーパーのタイムセールがあるから、という私の所帯じみた都合で、春水宅での《キ印のお茶会》は、夕方の五時前にはお開きになった。
結局のところ、手を動かすのと口を動かすのが半々になってしまい、三人で手分けした割には、肝心の原稿の進み具合は微妙だった気がする――友達の家での勉強会が往々にしてそうなるように。きっと春水の肚としては、原稿を手伝ってほしいというのは単なる名目で、本当は私と遊を呼んでワイワイお喋りして、原稿漬けの毎日で倦んでいた気分をリフレッシュしたかっただけなのだろう。
マンションのエントランスから出た途端、強い西日が私の視界をオレンジ色に灼いた。眩しさに目を細めた時、ドップラー効果を伴って賑やかな嬌声が上がった。見ると、小学校低学年くらいの男の子たちの一団が、長い竹の棒やら青いポリバケツやらを手にして――この近くにある神社の裏手の沼あたりで、ザリガニ釣りにでも興じていたのだろう――私の胸元すれすれを駆けていった。男の子たちはいずれもTシャツに短パン姿で、袖の先から躍動する肢体が西日を浴びて輝いていた。
「蒸すわね、もう半袖でもいいくらい」
子供たちの後ろ姿を見送りながら、ブラウスの胸元をあおぐ。
「あたし明日っから夏服にしよっかな」
と、遊。
「さすがは健康優良児」
「いや、御子柴が軟弱なだけだ」
「冷え性なだけよ。ほら、私って心があったかいから身体が冷たいのよね」
「完全に迷信じゃん、それって」
遊の眉間に針の束のような皺が刻まれた。
「そもそも、本当に心のあったかい奴は自分でそんなこと言わない」
「確かに」
一本取られた私は喉の奥でくつくつとひとしきり笑い、マンションを出て右手に身体を向けた。ここから百メートルほど歩くと、市の南北を貫通する県道に出る。これから冷凍食品を買い込む予定のスーパーは、その県道沿いにあるのだ。
「遊はバスで来たんでしょ」
宮前の彼女の家からこの祇王野新田までは自転車で来れないこともないが、フルスロットルでペダルを漕いでも三十分は優にかかってしまう。この先の県道を通っている、私たち三人が通学に使っている市営バスに乗れば十分程度で着くし、朝夕の混雑時以外でもそれなりに本数があるのだ。
「途中まで一緒しましょ」
「ううん、あたしも買い物してくよ。ちょうどポカリの粉切れちゃったとこだし」
遊は言った。要はもう少し一緒にいてくれるらしい。私としても望むところだったので、最近公開された映画についてダラダラ語りながら、連れ立ってスーパーに向かった。
自動ドアをくぐると同時に冷凍食品売場に直行し、「ただいま冷凍食品売場にて全品五割引き、全品五割引のタイムセールを行っております。この機会をどうぞお見逃しのないようにお願い致しま~す」という弾むような店内放送に戦意をかき立てられながら、通路中央の冷凍ケースに磁石に吸い付く砂鉄よろしく大集合する主婦軍団に加わって、ショッピングカートへと商品を放り込んでいく。
おっ、ダッツのマルチパックが安い。ついでに二箱買っとくか。
「あたし、自分の買い物してる」
そう断った遊は、妙に距離を感じさせる視線を残して私の元を離れ、清涼飲料の棚の方に消えていった。
……彼女とは後でじっくり話し合う必要がありそうだったが、それはともかく、今は目の前の戦いに集中するより他ない。私は冷凍ケースを覆うように次々と延びている手の群れをかき分けて、冷凍餃子の袋を掴み取った。
充分に戦利品を獲得したところで戦域を離脱し、大きいペットボトルがずらりと並んだ清涼飲料の棚に向かうと、遊がグレーのスウェットを着た若い男の人と何やら話し込んでいた。
歳格好は二十歳を少し出たくらいだろうか――茶髪を短く刈り込んだその男の人は、大量の冷凍食品をカートの上下にめいっぱい詰め込んでいた。
「じゃあ、久太郎君にもよろしくね」
男の人は手を振ると、カートを押してその場を離れていった。《久太郎》というのは、遊の家で飼っている柴犬の雑種の名前である。
私は遊に近付くと、肩にポンと手を置いて、
「――あらあら、浮気現場目撃しちゃったかしら?」
「馬鹿」
彼女曰く単なる顔見知りで、近所の新聞専売所の息子さんだという。なるほど、冷凍食品を山のように買い込んでいたのは、住み込みの従業員に出す食事ということか。
「それにしても、御子柴も凄い量だな」
私のカートをまじまじと見つめて、遊が言った。
「手を抜けるところは徹底的に抜く、それが私の家事における基本方針よ」
最初のうちはもっと気合いを入れて――例えば学校に持っていく弁当一つにしても、前日の夜に仕込みをして凝ったおかずを作っていたものだが、それが新鮮味を失ったルーチンワークに移行するにつれて、弁当に占める冷凍食品の比率はどんどん大きくなっていき、最終的には週の過半は購買で済ませるまでになりおおせた。現代文明が私をかくも堕落させたのである。
「いや、そんな胸張って言うことじゃないだろ」
遊の冷静なツッコみをしおに、私たちはレジからずらりと延びている順番待ちの列に並んだのだった。
「――あ、痛」
春水と遊に浜松で買った土産を渡しそびれたのに気付いたのは、バス停で遊を見送って帰宅し、両親の位牌の前にお茶を供えた時だった。




