【問題編1】KissからはじまるMystery
小説の書き出し、というものはプロの作家にとっても難しいものらしい。
どの本だったかはあいにく失念したが、塩野七生が書いていた。彼女は作家になりたての頃、担当編集者にこう言われたという。冒頭の三行で読者の心を掴むことが出来なければ、プロとは言えない――と。
確かに、世に出回っている作家志望の人たち向けの文章指南本にも、冒頭部分にはそれと似たような謂いが書かれていることが多い。書き出しというものは作家にとっての試金石であり、また永遠の課題でもあるのだろう。
しかし、私は筆一本で生計を立てている類の人間ではないし、またそれを目指すつもりもない。私の描く近未来の人生設計の青写真は、そこそこいい大学に進学して最後のモラトリアム期間をめいっぱい満喫した後、大手企業に入社するなり地方公務員試験にパスするなりして、忙しいながらも安定した人並みの生活を手に入れることである。
最近の若者は夢がない、という風に言われるかもしれない。が、高二ともなるとそろそろ夢と現実の妥協点を見極められる年頃だし、いつまでも――例えば、あくまで例えばの話だが――小学校の卒業文集の将来の夢に《ダンデライオン一座に入って世界中を巡業したいです》と書くようなメンタリティーのままで大人になったら、それはそれで由々しき問題ではないだろうか。
だから、平凡な日常をこよなく求める私・御子柴麻琴としては、一日の始まりである朝の描写から、この非日常の物語の幕を開けたいと思う。
たとえ、月並みな書き出しだと謗られようとも、それが一番無難なようだから。
今年のゴールデンウィークの大半は、浜松で養鰻業を営んでいる叔父の家で過ごした。旅費は出すから遊びに来い、と前々から言われていたのだ。
免許を取り立ての従姉の車で静岡県内をあちこち観光して回り、ゴールデンウィーク最終日の前日である昨日の昼過ぎに帰宅の途に就いた。Uターンラッシュを避けたつもりだったが、その認識は全くの見込み違いだったことを、両手に大荷物を抱えたまま、新大阪まで立ちっぱなしを余儀なくされた下りの新幹線で、存分に思い知らされた。
瀬戸内海に面した我が県の県庁所在地で新幹線を降り、在来線に乗り換えて三十分ほどで白陽市に到着。駅前ロータリーで市営バスに乗って、誰もいない我が家に帰り着いた。
もはや台所に立つ気力が残っていなかったので、夕食は出前の中華丼で済ませ、風呂は沸かさずにさっとシャワーだけ浴びた。そして、自室のベッドで寝そべりながら携帯でネットの海をあてどなく航海しているうちに、いつしか白河夜船になってしまった。
よほど疲れていたらしく、黒一色に塗りつぶされた意識の中で有限とも無限ともつかない時間を過ごしていたが――明け方になり、クリーム色と空色の斜め格子柄のカーテン越しに、出窓から射してくる白く柔らかい朝日に瞼を暖められるにつれて、それまでアメーバのように伸縮自在で曖昧だった意識が、明確な輪郭を持ちだす。
が、すぐに《二度寝》という名の強力無比なチャームに容易く屈してしまい、はだけていた布団を頭の先まで被り直して夢の世界に戻ろうとするものの、一度覚醒しかけた私の意識は、まるで親とはぐれた子供のように、夢現の淡い境界線上をうろうろと落ち着きなく彷徨っていて――。
――夢の中の私は旧校舎の裏手にそびえ立つ、その下で愛を告白すれば永遠に幸せになれるという、どこかで聞いた風な伝説の樹に足を向けていた。実際のところ、我が校にそんな樹は存在しないのだが、夢にツッコんでも致し方あるまい。
とくんとくん、胸が高鳴っている。先ほどから動悸・息切れが止まらないが、別に心臓の薬を必要としている訳ではない。
旧校舎の角を曲がると視界が展け、天を衝くほどの高さの伝説の樹がその姿を現した。ふと巻き起こる一陣の風が、幾重にも折り重なる新緑の木の葉をざわつかせ、それに合わせるかのように私の心臓も更に激しいビートを刻みだす。
待ち人は樹の下にいた。目を刺すような逆光のせいで、その姿は影絵のように判然としないが、その人が私にとってかけがえのない存在であることだけは、なぜか確固たる認識があった。
一歩一歩、樹の周りに茂る緑色のカーペットのような下生えを踏みしだきながら、濃い陰に包まれた樹の根元に近付いていく。手を伸ばせば届く距離にまで達したその時、私は胸の奥にたぎっていた想いを自然と口の端からこぼし、再び巻き起こった爽やかな風に乗せていた。
相手の中で時の流れが一瞬止まったようだった――が、いきなり緊張で固まっている私の肩を強引に抱き寄せると、生温かい息のかかる距離まで顔を急接近させてきたので、私は自分の心臓が肋骨を突き破って飛び出てしまうんじゃないかと錯覚するくらい、無様に焦ってしまった。
あれっ、何か一つ段階を豪快にスルーしてる気がするんですが……バラエティー番組のCM前の煽りではないが、予想だにしない展開。両肩に置かれた手を振りほどこうと、精一杯の抵抗を示すも徒労に終わった。
唇が二つ重なる。熱くてとろけそうだ。
それはファーストキスと少しも変わらない、バニラのように甘くまろやかな味だった。少しもゴツゴツした感じがなく、まるで極上のマシュマロみたいに官能的で柔らかい唇。
鼓動が二つ重なる。思春期の男の子特有の野生の獣のように脂ぎった体臭も全然感じられないし、そのエロティックなほどすべすべした肌はよく磨かれた大理石のようにきめ細かい。
胸なんかこんなにふかふかしてて……って、あれ?
え~と。
………
……
…
胸って何さ?
「――マコちゃん、おはよっ☆」
「う……ん……今、何時……?」
「十一時。ふふっ、今日も素敵な寝顔やったで」
「ふぁ……」
靄がかっていた意識が徐々にクリアになって、声の主を特定し得る段階まで達した瞬間、私は寝起きで鈍っている身体中の筋肉に総動員を掛けて、えいっと上体を起こすと、今まで私の唇を奪っていたバカの両サイドのこめかみにげんこつを素早くあてがい、
「は~る~み~っ」
渾身の怒りを込めてグリグリ動かした。
「痛っ、イダダダッ!」
「返せっ、今まで奪ってきた私の唇をそっくり耳を揃えて返しなさいよ」
「くぅぅうっ、く、唇に耳ってどこやねんっ」
「あんたまだ、自分にツッコむ資格があるとでも思ってるのかしら」
「痛っ、これってマジ洒落になら……ちょ、マコちゃんロープロープっ!」
甲高い哀願の声には耳を貸さず、更にげんこつに力を込めて激しくえぐるように動かしていると、爽やかな朝の光に満ちた室内に、春水の音階の外れた断末魔が響き渡ったのだった。
***
あらかじめ断言しておくが、私は所謂百合属性なるものは一切持ち合わせてはいない――はいそこ、残念とか言わない。
「ねえ、これって住居不法侵入と婦女暴行未遂として十二分に立件出来るケースだと思わない?」
はだけていたパジャマの襟元を整え直した私は、足元でツインテールを歌舞伎の連獅子のように振り乱しながら、グリグリ攻撃のダメージに身悶えている為永春水を見下ろして、ため息をついた。
「ということで今から通報しても構わないかしら、構わないわよね」
「……入稿が迫っとるから、それだけは勘弁してぇな」
よろよろと起き上がった春水が、涙目で言った。
為永春水。随分とエキセントリックな名前――春水のお父さんが大学で近世文学を専攻していたので、苗字が同じなのもあって愛娘にこんなふざけた命名をしたらしい――だが、名は体を表すという言葉通り、その中身までエキセントリックな電波少女である。
彼女は小学三年生の二学期に私のクラスに転校してきて、それ以来の腐れきった縁だが、しばしば本気で他人のふりをしたくなる。先ほどの事例で充分判ってもらえたとは思うが、こちらの予想の遥か斜め上な奇行が多過ぎるからである。
何をどう考えれば、キスで友達を起こそうなどという迷惑極まりない結論に到達するのだろうか。彼女の脳味噌の中のシナプスは、かのゴルディオンの結び目も顔色なからしめるほどの複雑怪奇な配線になっているに相違ない。
「光になるんやな、判るで」
……ゴルディオン違いである。
「とにかくっ、何で私をキスで起こすなんて朝っぱらから愉快過ぎる真似するのかしら」
「まあまあ、そない怒らんといてな。ほらっ、舌までは入れてへんやろ」
「入れられてたまるもんですか」
ふ~~~っ。
朝っぱらから無駄に精神を摩耗させられた私は、肺の底に溜まった空気の総ざらえをして、目の前の友人をしみじみと眺めた。
ルックスはまぁ可愛くないことはない――いや、回りくどい二重否定は止めよう――大げさな表現かも知れないが、初対面の人間に売り出し中のグラビアアイドルだと紹介しても、冗談に思われない域に達しているといっても過言ではない。
ツインテールに結わいた色素の薄い艶やかな髪、ブラウンの涼やかな瞳、すっきりとよく通った鼻梁、小悪魔めいた印象を与えるチャーミングな八重歯――個々のパーツが強い魅力を放ちつつも、全体としてバランスよくまとまっており、モンゴロイド系離れした光り輝くような美貌を形作っている。正直、長年友人をやっている私ですらほのかに嫉妬を感じてしまう。そういった潜在意識の存在は、自分でもあまり認めたくないけど。
とはいえ、彼女は校内唯一無二の電波系という評価がすっかり定着しているので、第二次性徴の洗礼を受けてさかりの付いた男子連中も、遠巻きにその美貌を愛でるにとどまっており、全然身近には寄り付こうともしない。これで性格がまともだったら男子の熱視線を一身に集める一方、女子からの風当たりは相当強かったろうことは想像に難くない。これが天の配剤、というやつだろうか。
だったら私にも少しは配慮して下さいよ、神様。春水と同類と認識されて男の子が寄って来る気配が一向にないんですけど……。
「嫌やな、マコちゃんにはこのウチがおるやん」
「春水、今の言葉って軽い冗談よね。じゃなかったら咬み殺すよ」
アルカイックスマイルを浮かべた私は、握り拳に息を吹きかけるという古典的なジェスチャーで発言の撤回を促す。
「イヤヤナァ、ジョウダンニキマットルヤン」
「おい、ちゃんと私の眼を見て言え」
そして、なぜにボーカロイドっぽい喋り方になる。
「……それはともかく、ゴールデンウィーク最後の日にわざわざ私ん家に押しかけてきた理由を、是非伺いたいのだけれども」
う~っ、と思いっきり背筋を伸ばしてベッドから起き上がり、寝癖でくしゃくしゃになった髪を手櫛で整えながら、水を向けてみる。
「助けてほしいねん」
「だが断る」
「……いや、少しくらいはウチの話聞いてくれてもええやん」
「助けてもらいたいならそれなりの口の利き方があると思うのだけど」
私の言葉に春水は困ったような顔をしていたが、やがてたどたどしい標準語で、
「朝早くからお騒がせして申し訳ありません、女王様。再来週の即売会に出す新刊の原稿が全然進まないので、わたくしめのむさ苦しいあばら屋に是非とも女王様の御来駕を賜り、原稿を手伝ってもらえませんでしょうか」
「くぉら」
女王様とか呼ぶな。私は何者だっての。
「う~ん、どうしようかしら」
今日の予定は、夕方から近所のスーパーで冷凍食品全品五割引きのタイムセールがあるくらいで、他には何もない。有り体にいえば暇だったから彼女の誘いは渡りに船、別段もったいぶる必要もないのだが、即座にイエスと答えるのも何となく癪に触る。
「ささやかなお礼として《パティシエ・トマ》のケーキの用意がございます、女王様」
「――それを先に言いなさいよ」
君子豹変す、の故事に倣って私は急に身を乗り出したのだった。