009 死者の喧嘩は犬も食わない
一度は殺されそうになり、父を失い、母を失い。
何処にも居場所がなく。
母の身代わりになることでしか自分の価値を見出せず。
それすら逆効果で、結果、母を二度目の自殺未遂に追いやった。
そんな人生は生きていないのと同じで、最初から生まれていなかったことと同義で、だから消えたところで何も変わらないと、彼女は言った。
……このまま。
このまま俺が一歩後ろに下がれば、木霊はテトラの銃弾で魂ごと消し去られる。
本人がそれを受け入れた以上、俺が阻む理由はなかった。言い渡された仕事を完遂できないにしても、それが俺の落ち度とされることはないし、上の決めた処遇であれば平伏してしかるべきだ。
「うるせーアホ。このトンチキ娘」
「と、トンチキ!?」
だが俺の口からは、どうしたって平伏の言葉は出てこないようだった。
もういい。なるようになれだ。
「お前のために怒るなだって? だったらお前に怒ってやるよ。場の空気に流されてしおらしいこと言って自分に酔ってんじゃねえ。バーカ。おたんこなす、カボチャ娘」
「え、あの、入鹿さん。キャラクターが崩壊してません……?」
「いや、キタローは今でこそクールぶっているけれど、元々はこんな感じだったよ。初めて仕事で一緒になった時にいきなり『何見てんだてめえ』と肩を揺らしながら近付いてきてね、あのモブのチンピラみたいな立ち振る舞いはとても印象的だった。他にもたとえば――」
「黙れドク」
頼むから黙っててほしい。
「キャラが崩壊するくらいに怒ってんだよ。散々人を振り回しときながらダメだと思ったら簡単に諦めやがって、そんな程度の覚悟だったら最初からイキったことぬかすなクソガキ」
「で、でも」
「デモもストもねえ。自殺した次はなんだ、素直に撃たれますってか? お前、二度も自分を見捨てるつもりかよ。それに思い残しがないだって? 未練たらたらの奴がよく言うぜ。どうして抵抗しない? 少しは足掻いてみせろよ、この死にたがり女」
「だ……黙って聞いてればですね!」
木霊が吠えた。火種に酸素を送り続けた結果、無事に着火してくれたらしい。
「好き勝手言ってくれますけど、そんなの私だってわかってますよ! いきなり銃を向けられて魂消すとか言われて、そんなの全然意味わかんないし、嫌に決まってるじゃないですか! でも、じゃあどうしろって言うんですか!? 抵抗しろって言われても私一人じゃどうにもならないし、このままじゃ入鹿さんに迷惑かけちゃうと思ったから――」
「それだよ」
「……はい?」
「それがムカつくって言ってんだ。迷惑なんて最初に会った日からかけられっぱなしなんだよ。死んだ後にまで迷惑がどうとか気にしてんじゃねえ。もう少し人を頼ったらどうなんだよ、このすっとこどっこい」
こんなのはまったく俺らしくない。柄にもなく熱くなり、怒りに任せて組織に背くような言葉を吐いて、職務に忠実で優秀なアルバイトは見る影もない。
まるでピエロだ。
「……だって入鹿さん、大事なこと黙ってたじゃないですか。それで信用しろとか言われても」
なかなか痛いところを突いてくる。
「というか〝キタロー〟ってなんですか? 入鹿さんじゃないんですか?」
「俺の名前は日影亀太郎、誰もが認める平成生まれの現代人だ」
「へえええっ!?」
やはりまだ信じていたか。
「入鹿さんの嘘つき! やっぱり信用できない!」
「俺が嘘つきなのは認めるが、これに関しては信じた方が悪いと思うぞ。それに名前は嘘でも、信じろと言ったのは嘘じゃない。テトラ、これを」
俺はポケットから一枚の紙切れを取り出して、川で溺れる河童でも見るような目を俺たちに向けていたテトラの足下に滑らせた。
「あん? なんじゃこれ」
テトラが紙を拾い上げて検分する。
すぐに目の色が変わった。
「こいつは……へえ。ずいぶん手回しがええじゃんか、アニキ」
「滞留勅許か。驚いたね、私も実物を見るのは初めてだ」
後ろから覗き込んだドクも驚いたようだった。
それは、浮遊霊に現世に留まる猶予を与える許可証だった。
そんなものが必要となる場面が基本的にないため、発行するためには理由を明記した書類を提出し、熾天使かそれに準ずる上位職から承認を得なければならない。
「滞留を求める理由は『自殺原因の調査のため』……なるほど、これがあればその娘の滞留は正式に認められることになるね。昨日付けで発行されているから悪霊管理部の認定も無効化できるわけだ。でもキタロー、これはそう簡単に発行されるものじゃないはずだよ。どうやってこれを、しかもあのウリエル様から引き出せたんだい?」
「あの野心の塊のような天使様の機嫌を取る方法はひとつだろ。仕事で際立った成果を上げること。それも業績表彰を受けるくらいのな」
テトラの考えたコースをめぐったあの日。木霊と一日を過ごして、これ以上の話を聞くにはそれなりの時間がかかると考えた俺は、翌日から滞留勅許を取得するための行動を開始した。
俺の場合はウリエルの承認が必要になるわけだが、あの面倒くさがりがたかが浮遊霊一人のために俺の要請に応えてくれるとは思えなかった。
だから、「三日で百人の浮遊霊を成仏させる」という成果をエサにした。
現世に留まっている浮遊霊の数は多く、成仏促進課の少ない人手ですべてをカバーすることはできない。一日五人というノルマは課されているが、逆に言えばノルマさえこなしていればよく、積極的にそれ以上の結果を残そうとする奴はいない。故に、危険性が低いと判断された浮遊霊は後回しになり、放置されているのが現状だ。そのため成仏促進課の成績はお世辞にも良いとは言えず、上昇志向の強いウリエルにとっても悩みの種になっているのだった。
だからこそ「三日で百人」という功績は際立つ。業績表彰の対象にでもなれば、ウリエルにとっても旨い話であるに違いなかった。
期待通り、無事に目標を達成した俺の報告を受けたウリエルは、俺の要請にほくほく顔で応えてくれた。
主張を通す時は事前の根回しが肝心。それは人間も天使も変わらない。
「三日で百人って……転校生が友達百人作るのだってもう少しかかるぜ」
テトラは完全に呆れているようだったが、無理もなかった。もう二度とやりたくないし、この三日間の社畜生活については思い出したくもない。
「とにかくそういうわけだ。木霊ゆらぎについては俺の監督責任下において引き続き事情聴取を行う――文句はないな?」
「へえへえ」
テトラは握っていた拳銃をしまい、俺たちに背を向けた。
「あーあ、とんだ無駄足じゃわ。ま、おかげで俺もやりたくもねー仕事しなくて済んだけどな。あんま無茶すんじぇねえぞアニキ」
テトラが帰っていくと、続けてドクも「それじゃ私も」と飛び立った。
「礼を言うよキタロー、いいものを見せてもらった。さっきは色々言ってしまったけれど、『君がこの仕事に向いていない』という言葉は撤回させてもらうとするよ」
「いや撤回しなくていい。他にいい仕事があったら紹介してくれ」
「はは、そんなものがあったら私が立候補しているさ。それじゃ、健闘を祈るよ」
とまあ――そんなこんなでようやく修羅場を脱したものの。
万事めでたしでハイタッチという空気でもなく、俺は全身の脱力感に身を任せてその場にしばらく突っ立っていた。ただ疲れていた。
ややあってから、隣で同じように立ち尽くしている木霊が「あの、入鹿さん」と呼んできた。
「なんだ。あと俺の名前は日影亀太郎だ」
「入鹿さん。その、ありがとうございました。あの滞留ナントカって紙のおかげで助かりました。ただ、これは素朴な疑問なんですけど……あんな切り札があるならどうして最初から出さなかったんですか?」
「わかってないな。ものには順序ってもんがあるんだよ」
曖昧に答えてニヒルに笑ってみせるが、当然これも嘘である。
今さら「色々あって忘れてました」なんて、口が裂けても言えなかった。