004 高架下の勿忘草
「アニキ、今日は映画行くんじゃなかったんか? 観たいタイトルがある言うてたじゃろ」
オフィスで書類仕事をしていると、外回りから戻ったテトラが声を掛けてきた。
「見ての通り残業だよ」
「なんじゃ、例のマルシキの件か?」
「せっかく忘れようとしてるのに思い出させないでくれ」
テトラの言う通り、本来ならば行きつけのシアターで目当ての映画を観ているはずの時間だった。木霊が逃げたりしなければ今日は定時にあがれるはずだったのに、あのじゃじゃ馬め。
映画鑑賞は、俺にとっての最高のストレス解消法だ。
人間界に降り立つのはあまり好きではないが、映画館だけは別だ。客のまばらなレイトショーで、前方寄り中央の席に陣取り、新作から名作まですべからく、心ゆくまで愉しむ。浮遊霊であることのメリットを最大に活かせる瞬間である。
「明日からそっちの方に時間を取られそうだから、今日のうちに他の仕事を片付けておこうと思ってな。映画はまあ、上映期間が終わるまでには観に行くさ」
「そら難儀なこって。相変わらずクソがつくほど真面目じゃな、アニキは」
その通り、俺は仕事に関しては真面目なのだ。そして真面目な奴ほど割を食う。
「お前こそ最近遅いみたいだが、忙しいのか?」
そう訊くと、テトラは口を尖らせて仏頂面をした。
「忙しいなんてもんじゃねーわい。悪霊管理部の奴らが張り切ってんのか、最近は悪霊認定くらう奴が多くてキリがねーんじゃ」
テトラの言う悪霊管理部とは、管理セクターの部署のひとつである。
管理セクターはその名の通り、ジェネシス全体の管理業務を担うセクターであり、ジェネシスの中でも最大の人員数を抱えるグループである。
たとえばドクのいる法廷部は管理セクターの花形部署だ。他にも、回収した魂の在庫管理や品質管理を担う魂管理部、成仏した魂の仕分けと出荷を行う流通計画部、人員配置や労働管理を行う人事部、大きな会議や記念行事を仕切る総務部などなど。こうして見ると本当に一般的な会社組織と変わらない。
ちなみに悪霊管理部は、人間界に何かしら悪影響を及ぼす恐れのある霊を「悪霊」と認定し、その情報を管理する部署である。
ただし、管理はあくまで管理であって、実際に悪霊を大人しくさせるのはテトラの所属する悪霊対策課の仕事であり、悪霊対策課と俺の所属する成仏促進課は同じ回収セクターに所属している。
つまり、テトラと俺は課こそ違うものの、同じ回収セクターの雇われ浮遊霊として、またウリエルの気まぐれに付き合わされる苦労を共有する仲間として、こうして軽口を叩き合う仲なわけである。
「そういえばよー、アニキの担当してるマルシキの子、えらい可愛いらしいじゃんか」
テトラが無邪気な笑みを向けてくる。坊主頭に童顔のテトラがそんな表情をすると野球少年のようにしか見えない。
「なんだそりゃ。誰から聞いた?」
「夜空でお熱いドライブデートかましてたって、噂になっとったで」
「ひどいゴシップ記事だな……」
あれだけ派手に飛び回れば他の職員に見られていたとしても仕方がないが……日頃から極力目立たないようにと気を遣っているのに、最悪な目立ち方をしてしまったらしい。
「ええなあ、女の子と追いかけっこなんて」
「何がいいんだ。死んだ身で女の尻を追いかけたって虚しいだけだろ」
「それを言ったら終いじゃろ。生きてようが死んでようが、女の子とイチャつきたい気持ちは変わらんけんね。死んだら死んだなりにせいぜいあの世を謳歌しねーとな」
「謳歌ねえ」
そんな風に思えるテトラが少しだけ羨ましい。
「それにアニキは知らんじゃろうけど、実際付き合うとる奴らもおるんだぜ。ほれ、広報部のカナちゃんと人事部のトシキとか」
「え……あいつら付き合ってたのか?」
「結構有名だぜ。隠しとるみたいじゃが、こっそりお忍びデートしとるのがようけ目撃されとる」
そういえば前に映画館でそのペアにばったり出くわしたことがあるが、そういうことか。
まったく節操のない連中が多くて困る。浮遊霊同士が付き合ったところで、その先に未来はないというのに。
まあ、考え方は人それぞれだし好きにすればいいとも思うが、何となく面白くないので話題を戻すことにした。
「さっき悪霊が急に増えていると言っていたな。何か理由があるのか?」
「いや、悪霊管理部の方からは何も聞いとらん。ウリエル様は『うちの仕事増やしやがってミカエルのクソが』って恨み節言うとったけどな」
ウリエルのミカエル嫌いは周知の事実である。野心家であるウリエルがミカエルの権威に嫉妬していることもあるが、それ以上に性格的に反りが合わないのだろう。俺にもよく愚痴をこぼしてくるが、熾天使同士のごたごたに首を突っ込む勇気はないのでその手の話には極力反応しないようにしている。
「んじゃワシはそろそろ帰るわ。また明日な、アニキ」
「ああ、お疲れ……なあテトラ、ちょっと訊きたいんだが」
「あん?」
帰宅しようとするテトラに、俺はふと思いついた質問をぶつけてみることにした。
「俺の営業スマイル、別に変じゃないよな?」
「にっ!」
「にっ」
テトラにつられて笑顔を作る。するとテトラは嬉しそうに言った。
「うん。めっちゃキモいわ」
***
木霊ゆらぎは河川敷にいた。
県境を流れる幅の広い川を横切る高速道路の高架下。日が当たらないため薄暗く、そこだけ世界から取り残されたような寂莫としたコンクリートの上で、一人ぽつんと立ち尽くしていた。
「ここ、私が自殺した場所なんです」
俺が背後に立ったことに気付いたらしく、独り言のように呟いた。
「こんな場所で? 入水自殺でも図ったのか?」
「練炭です。車の窓を塞いで、睡眠薬を飲んで」
「お前一人でか?」
「いえ、SNSで知り合った人と一緒に」
集団自殺か。一人では死ぬ勇気のない自殺志願者たちが同志を募り死の瞬間を共にするというのはよく聞く話だ。
木霊ゆらぎが自殺を図ったのは今から一ヶ月も前のことらしい。しかし俺に話が回ってきたのが昨日。タイムラグの理由は、木霊ゆらぎがこの場ではすぐに死なず、一ヶ月の間生死の境を彷徨った後に治療の甲斐なく死亡したと、そんなところだろう。
「他の皆さんはどうなったんでしょう?」
「さあな。もしかしたら一命を取り留めてどこかの病院に収容されているかもしれない。無事に死ねたとしたら、とうに法廷部の連中に処分されているはずだがな」
隠す必要もないのでありのままを伝える。
「処分?」
「前にも言ったが、自殺者は魂を穢した罪に問われるんだ。その場合は法廷部が出てきて直接ペナルティを与えることになる。あんたが今こうしていられるのは、あんたの魂が穢れているかどうかの判断がついていないから――それを調べるのが俺の仕事だ」
「そうですか。……穢れちゃったんですかね、私」
木霊ゆらぎが切なそうに笑い、俺は失言に気付いた。他意のないただの業務用語でも、当事者には人生を否定されたように聞こえるだろう。
普段ならこんなミスはしないのだが、この娘と喋っているとどうにも余計なことを喋ってしまう。
気まずさを誤魔化すように空を見上げると、厚い雲が太陽を覆い隠し、高架下の陰りを濃くしていた。
この場所にはもう何も残っていない。死のうとした人間のことなど忘れ去ったかのように。
「入鹿さん、私を捕まえにきたんですか?」
「どうせまた逃げるんだろう?」
「いえ、あの時はその、私もテンパっちゃってて……すみませんでした。入鹿さんを困らせてしまって」
「気にするな、大事にはなってない。……まだ話す気はないか?」
木霊ゆらぎは無言で応える。
「そうか。なら仕方ないな」
俺が近づくと、びくっと肩を震わせてこちらに向き直った。怯えた目。
構わずその腕を取る。
「待ってください入鹿さん、私まだ――」
その腕を引いたまま上空に飛び上がる。高架を突き抜け、行き交う車の列が蟻の行列にしか見えない高さにまで浮上した。
「わわ、高い! 怖いです!」
「平気で飛び回っていた奴が何を今さら」
「フライングパイルドライバーですか!? ストライクヘッズですか!?」
そんな大技が使えてたまるか。
「垂直落下で頭から叩きつけるつもりはねえよ。いいから黙ってついてこい」
事態を呑み込めず慌てふためいている木霊ゆらぎに、俺は昨夜テトラから授かった殺し文句を放った。
「死ぬほど楽しい思いをさせてやる」