003 飛んで灯に入る不良少女
木霊ゆらぎという娘は、外見も精神的にも歳相応の幼さを残しているように見えるが、その第一印象とは裏腹に、何故だろう、どこか達観しているような老成した印象も受ける。
ひとしきり盛り上がって満足したのか、眼下の景色を見下ろしていた彼女が「すごい眺めですねえ」と呑気なことを言った。
「そうか? ただのビル群にしか見えないが」
「それは入鹿さんが見慣れちゃったんですよ。私、死んだの初めてだから」
「そりゃそうだ」
とうに太陽は沈み空は眠たげな薄闇に包まれていたが、高度五百メートルから見渡す街並みは煌々として明るく、夜に呑み込まれんと必死に光のバリアを張っているように見える。どこか切実とした、哀愁の漂う光だ。
「入鹿さんはその、ジェネシスって会社みたいなところで働いてるんですよね? なんだか死ぬ前の世界とあんまり変わらないなあ」
「一面のお花畑みたいなのを想像してたか?」
「うーん。あんまり想像したことはないですけど、イメージとは違うなって」
そりゃあそうだろう。わざわざこんな夢もへったくれもないリアルな世界観を想像する変人がいるとは思えない。
「死後の世界にファンタジーを持ち込むは人間のご都合主義的な妄想だよ。死んだら楽園に行けるなんてシステムじゃ天国はいつかパンクしちまうだろ。この世を上手く回すためにはあの世も機能的である必要があるんだ。それが会社的だというならそうなんだろう」
「入鹿さんはどうして働いてるんですか? お給料も出ないのに」
「そりゃ皮肉か? 女子高生」
「あ、いえ! 死んでまで働いてるなんて立派だと思います!」
まったく素直に喜べない賛辞だった。
「でも、やっぱり」と、木霊ゆらぎは続けた。
「自殺した人だけが罪に問われるっていうのは、ちょっと納得いかないですけど」
「……まあ、な」
自殺した霊は皆、口を揃えてそう言う。どうして自分が責められるのか、自分はこの世界に殺された、むしろ被害者だと。
気持ちはわかる。俺だって「自殺は愚かな行為だ」などと安易なことを言うつもりはない。他人を死に追い込んだ人間の方がよほど罪深いとも思う。
ただ、それはあくまで人間の理屈である。納得がいこうがいくまいが、天使からしてみればそんな感情論は一切関係がない。他者を殺める行為は肉食獣が草食動物を食い殺すのと変わらず、その罪はあくまで人間が人間の定めたルールに従って裁くべきである。故に罪には問わない。
しかし自殺は自分の命の価値を貶め、その魂を穢す行為である。故にどんな理由であれ有罪。
それが死後の世界の厳然たるルールだ。
「ただまあ、何度も言っているように、あんたはマルシキだからな。情状酌量の余地はある」
「あの、そのマルシキって何なんですか?」
ようやく本題に入りかかったところで話の腰を折ってくる。
「説明しただろう。聞いてなかったのか?」
「すみません、私、理解力がなくって」
「学校の成績は?」
「いやあー、はは」と、気まずそうに頭を掻く。
「私、学校にあまり行ってなかったですから」
「……なんだ、不良少女か? 人は見た目によらないな」
俺がそう返すと、木霊ゆらぎは何故だか照れくさそうに笑った。
「まあいい、あんた自身の話だからもう一度説明するぞ。たとえばそうだな……ある一家が心中をしたとしよう。親の道連れにされた子供は確かに〝自殺者〟ではあるが、自らそれを望んだわけではないよな。実質的には親に殺された〝被害者〟でもあると言えるだろう。では、誰かに自分を殺すよう依頼した場合はどうか? 殺された〝被害者〟ではあるが、しかしこれは他人を道具とした〝自殺〟だとも言える。とまあ、こういうどっちつかずのケースでは罪の判断が難しいらしくてな、俺のいる成仏促進課が個別に事情を確認することになっている。それが〝要鑑識〟の意味だ。あんたもそういうケースだと認定された――わかるか?」
「わかります。でも、ということは」
と、期待のこもった目で見つめてきた。
「入鹿さんが私の弁護士ってことですね!」
「違……いやまあ、そんなところだ」
正確には俺は自殺者の味方というわけではないのだが、あえて正す必要もないので頷いておく。
「そういうわけだから、あんたを弁護するためにも事情を聞かせてくれ。単刀直入に訊くが、どうして自殺したんだ?」
しかし木霊はその質問に答えず、何か考え込むようにしていた。
「あの、もし私が素直に話したらどうなるんです?」
「俺が意見書をまとめて法廷部に送り、あんたは法廷にかけられることになる」
「話さなかったら?」
「俺が困る」
次の瞬間、俺の視界から木霊ゆらぎが消えた。
慌てて周囲を見渡すと、はるか真下にその後ろ姿が見えた。ビル群の方に向かって猛スピードで降下している。
「おい待て!」
俺から逃げようとする浮遊霊は今までもいたが、ここまで唐突に逃げ出す奴は初めてだった。
「どこへ行く! 話はまだ終わってないぞ!」
後を追いかけるが、なりたての浮遊霊とは思えない、まるで躊躇のない全速力でぶっ飛んで行く。本気で逃げるつもりだ。
「ごめんなさい! 困ってください入鹿さん! 私、まだ成仏するわけにいかないんです!」
風に乗って微かに届くその声から、木霊ゆらぎの切実な様子が伝わってくる。
「くそ――木霊、目的は何だ!? 内容次第では協力してやれるかもしれない! 言ってみろ!」
「絶対無理です!」
「何故だ!?」
「私の目的は〝復讐〟ですから!」
復讐、だと? それは浮遊霊がもっとも口にしてはならない言葉だ。
高層ビル群がすぐ目の前まで迫ってきたところで、木霊ゆらぎは水平方向に舵を切った。さながらアメリカンコミックのヒーローのようにビルとビルの隙間をぎりぎりで滑空していく。
とんでもない――どんな反射神経をしているんだ?
俺はなんとか声の届く範囲に追いすがりながら声を張り上げる。
「いいから止まれ! 無理やり逃亡を図ると悪霊認定を受ける可能性がある! もし悪霊になんてなったら――」
「構いません! 私、不良少女ですから!」
まったく聞く耳を持とうとしない。
このまま追いかけても距離は縮まるどころか広がる一方だろう。県境の川を越えたところで俺は追跡を中止した。
木霊ゆらぎはそのままどこまでも飛んで行きそうな勢いで、街の灯の中に消えていった。