011 雄弁なる鼓動
「心臓が……!!」
木霊冬美は左胸に手を当てて狼狽していた。
「大丈夫だ」
俺は冬美の拘束を解いて起き上がらせ、その両肩を掴んだ。ナースコールを押されでもしたら困る。
「鼓動を感じるか? それはあんたが受け継いだ命の証拠だ。その心臓は生きたいと願っている、だからあんたは生きるしかない。惨めでも辛くても、生きるしかないんだ」
看護師の口調が変わっていることに疑問を抱く様子もなく、冬美は両目に涙を溜めて苦しげな表情をしていた。
「でも私は、あの子を……」
冬美は娘の死の呪縛に捉われている。娘を怨霊にしてしまっている。そこから解放されない限り、あいつの叫びが届くことはない。
ならば強引にでも向き合わせてやる。
「勝手に死んだ娘のことなど忘れてしまえ。あんただって本当は恨んでるんじゃないのか? 自分に背負いきれないほど重い十字架を背負わせた娘のことを」
口八丁こそが俺の十八番。ウリエルの指よりも頼りになる仕事道具だ。
今の冬美に優しく寄り添う言葉は必要ない。耳元で呪いの言葉を囁く……亡霊の本領を発揮するだけだ。
「ゆらぎを悪く言わないで!」
冬美が初めて大きな声を出した。
「恨むだなんて……あの子がどれだけ辛い思いをしたのか知らないくせに、わかったようなことを言わないで! ゆらぎは自慢の娘でした。私も主人もあの子を愛してました。それだけは今も絶対に変わらない……たったひとつの宝物だったんです。どんなにお金がなくても、希望がなくたって。だから私たちは絶対に諦めちゃいけなかったのに……逃げてしまった。あの子に甘えてしまったんです。私があの子に恨まれるのは仕方ないです、でも私があの子を恨んでるわけがないでしょう。あの子の心臓はまだここで動いているのに、忘れられるわけがないでしょう!」
休まず言い切ったところで、冬美はぜえぜえと息を切らしながら咳込んだ。衰弱した身体で声を張り上げるのはさぞ負担が大きかっただろう。
だが涙の滲んだその瞳は生気を取り戻し、子を愛する親のそれになっていた。
「そうか。ならあんたは一人じゃないな」
「……え?」
「せっかくそこにいるんだ、あんたの言葉を聞かせてやれ」
冬美はきょとんとして、俺が指し示した先、自分の左胸に視線を落とした。
心臓はまだ強く脈動している。
ふいに、冬美の両目が大きく見開かれ――その全身がぶるりと震えた。
「……ゆらぎ?」
〝心臓に憑依される〟というのがどういう感覚なのか、もちろんそんな経験をしたことのない俺にはわからないが、その様子を見るに、明らかに異なる者の存在を感じているようだった。
霊が人間に憑依することはあっても、身体の一部に、それも臓器に憑依するなんて話は聞いたことがない。人間の命を脅かす行為であり、重罪であるに違いない。
だが、自分の心臓。
心臓を失った木霊ゆらぎの肉体は間違いなく個体としての死を迎えている。だが彼女の心臓は、今も母親の胸で動き続けている――生きている。
であれば、木霊ゆらぎが自分の心臓に憑依する行為は、一時的に肉体を離れた魂が肉体に戻ったのと同じ、一種の蘇生であるとはいえないか?
……なんて、明らかに無理筋の詭弁なのだが。
木霊ゆらぎはこの方法を選んだ。自分で選択し、俺に頼んできた。
自殺者の本音を引き出し、その罪を正しく問うのがマルシキを調査する本来の目的だというなら、罪を悔いている者の贖罪に力を貸すことだって業務の範疇だろう。
ならばこれは俺の仕事だ。天使だろうと文句は言わせない。
「そこにいるのゆらぎ!? ゆらぎ!」
冬美は泣いていた。泣きながら娘の名前を呼んでいた。
俺にできることはもうなさそうだった。
だから席を外そうと病室の出口へ向かった――その時だった。
「何を企んでるかと思えば、キタローちん」
心臓を直接鷲づかみにするような声が室内に響いた。
「勝手な真似してくれてんじゃねえか。このウリエル様に黙ってよ」




