妙な名刺に書いてある肩書きが、実在するとは限らない。
店を後にして、僕はシモキタの街へ足を踏み出す。夏ももう終わりだと言うのに、夜の空気は未だ汗ばむだけの熱を持っていた。普段は滅多に着ないスーツも帽子も、今すぐに脱ぎ捨てたいくらい鬱陶しい。
少しばかり、有名になりすぎたのかもしれない。今後はもっと煩わされる事が増える気がする。想像するだけで、気が滅入った。
気分を切り替える為に、胸ポケットから名刺を取り出し、破り捨てる。即席で用意した、適当な肩書きだった。荒れ果てたこの界隈では、よくわからない肩書きの方が信じられるかと思って作ったものだ。先ほどの男の反応を見る限り、効果はそこそこ期待出来るだろう。でも、これはもういらない。
あの男には三つ、嘘をついた。そのうちの一つ、肩書き。
手で細かく契られた名刺だったものは、ぬるい風に運ばれて夜に浮かんでいく。こんな肩書きの男は、存在しない。僕も偽者だ。
あの男は、ただ恋人を救いたいだけだった。幼い頃から共に育った恋人。ギャングにだまされた親に、ブルジョワーノに奴隷として差し出された恋人。そして、身分を偽ってでも助けたかった、ただ一人の恋人。
最後は、それなりに派手になってしまった。店内に隠れているはずの奴隷だった彼女は、騒ぎを聞きつけて今頃あの男の介抱でもしているだろうか。僕の悪ふざけが彼と彼女の未来を閉ざさない事を、ぼんやりと祈りながら歩き続ける。
あの男が余計な事さえしなければ、こんな真似をする必要はなかったのに。
僕の耳に、妙な話が聞こえてきたのは一週間前になる。
ブルジョワーノ邸に、爪先立ちの貴公子から予告状が届いたと言う噂だ。噂が流れてくるまで、そんな話は聞いたことがなかった。
予告状には、「豪邸にある宝石を盗み出す」と書かれていたらしい。ブルジョワーノ邸で宝石と言えば、『太陽の欠片』以外にない。数年前に発見された、日の光を溜め込んで閃光を生む特性を持つ宝石だ。光を蓄えていない状態でも、それは温かみのある橙色の美しい宝石だと言われている。それはまだ世界で一つしか、発見されていない。
本来は研究機関が買い取ったはずのものだった。発見地から輸送されるまでに間に何者かが強奪され、一時期話題になった事を記憶している。盗品が巡り巡って、ブルジョワーノの手元にたどり着いたのだろう。
ブルジョワーノはごうつくばりで、無慈悲だ。そうでなければこの無法極まる街に、平然と豪邸を構える事は出来ない。彼が話題の怪盗に取った対応は、私兵軍で警備を強化する事だった。特に太陽の欠片の保管場所には、かなりの兵を割いたに違いない。
そしてその対応を見越して、あの偽マスターは脛あてゴブリンを嗾けた。私兵軍とゴブリンを争わせ、その隙に宝石ではなく、奴隷として売り飛ばされた恋人を救う為に。
脛あてゴブリンの手下のような真似をしていた彼が、ブルジョワーノ邸への襲撃を唆すにはどれほどの苦労があったのか。幼馴染を救いたい一心とは言え、仮の仲間の信用と世間的には隠されているはずの怪盗の予告状の書式を得る為に、彼はどれほどの苦労を払ったのだろうか。もう、僕にそれを知る術はない。彼らに意図せず再会する可能性は、ひどく低いだろう。
しかし、面倒だった事を覗けば、さほど後味の悪さはなかった。無法者はブルジョワーノが雇っている私兵団に皆殺しにされ、不幸な恋人達は再会する事が出来た。今、その片方の意識はないだろうが、後でゆっくり街の外に逃げる事は出来る。僕は、彼を騙して小さな憂さ晴らしをした。
僕は数日間カウンターの向こうで見続けた男の姿を思い出だす。根は随分と真面目な男なんだろう。不慣れながらも、バーを開店する時間も、頼んだ麦茶の出し方も、客へのあしらい方も、バーのマスターらしさも不変だった。
4日前の襲撃以降、ブルジョワーノは私兵を街に解き放ち、奴隷と犯人の行方を血眼に捜していた。男は出るに出られず恋人と共にここに潜まざるを得ない。怪しまれない為に営業を休むわけにはいかなかった。僕が訪れるようになってからは、僕のことをブルジョワーノの配下かどうか判断する為にも、バーのマスターであり続けたのだろう。
そう言えば、彼には噂についても嘘をついた。
あのバーがゴブリンの巣だなんて噂は、ない。カマをかけただけだ。きっとどこで漏れたのかと慌てたことだろう。噂もなければ、もう死んだゴブリンから聞き出すことも出来ない。冷蔵庫の鍵は本物のバーのマスターが持っているだろうが、きっと持ち主と一緒に鉛玉でひしゃげている。鍵から身元をたどることも出来ないだろう。
鍵さえあれば、もう少し彼の偽装は楽に違いなかった。
あのバーを訪れた最初の日から、訪れるたびにずっと氷と麦茶は必ずあのアイスクーラーの中に収められていた。水と氷と乾燥した茶葉、これだけあれば麦茶は作れる。どれも、鍵を開ける必要はない。目を付けられないよう、必死だったんだろう。
あそこで僕を刺そうとしなければ、種明かしして帰ってもよかった。
だが、爪先立ちの貴公子を名乗る以上、ルールは守られなければならない。美学は、己の中に持ち続けなければならない。黙っては、いられなかった。
『怪盗爪先立ちの貴公子』は、何者も殺さない。殺してはいけない。例えそれが、怪盗の名を勝手に名乗る不届き者だとしても。
そして、予告のあったものは必ず盗まなければならない。
これが、最後の嘘。宝石は期日通り、盗み出された。僕は帽子に包んでいた、既に光を失った橙の石ころを取り出す。面白いものではある。でも、趣味じゃない。これは研究機関にでも送り届けてやろう。
私兵が消えたばかりのシモキタの街は、随分静かだった。ブルジョワーノが犯人を見つけるために提示した期限は五日。期限までに犯人を見つけられず、また宝石も盗まれた彼らが今頃どうなっているか。それは僕が考える事じゃない。
と言うわけで、これにて完結となります。
実はこれは、イラストを下さった中村はちすさんに主人公原案頂戴して書いた、企画作品でした。
なので最初からイラストがあるわけですね。
中村さんには所々無茶振りをされたような気がしないでもないですが、書いている本人はとても楽しめました。貴重な経験させて頂き、本当にありがとうございます!
作中に出てくる「脛あてゴブリン」と「爪先立ちの貴公子」は、何故かわいたけど使いどころがないワードだったので無理矢理ねじ込んでやりました。
あー疲れた。連続投稿必死でやるの、なかなかハードです。
しかも経験ないジャンルに挑んだので、出来にものすごくハラハラ。
楽しんで頂けたようであれば大変嬉しいです。
それではこれにて「問題解決屋ショーンと、豪邸襲撃事件」、完結です。
貴重なお時間を割いていただきありがとうございました!!!