よく砥がれた包丁を、料理に使うとは限らない。
「……なんだいそりゃ。お客さんには、おれが豚に見えるかい?」
「いえ、いえ。どちらかと言うと、豚を食う狼、ですかね」
雲行きが怪しくなってきやがった。お代わりなんざ出さねえで、追い出してやればよかった。全くホント、よく知らねえ客に声なんかかけるもんじゃねえ。
「おいおい、狼が食う子豚は三匹が精々だろ。ゴブリン共は三匹じゃすまねえぞ。ところで、そういや腹が減ってるんだったな。おれのメシ用に買っといた材料があったの思い出したんだが、食うかい。今日は肉でも焼こうと思ってな。そういやありゃ、豚肉だったな」
「やっぱり、豚を食う狼さんじゃないですか。でも、それはありがたい。幸い懐は暖かいので、分けて頂けると嬉しいです」
ヤツの言葉を背に受けながら、おれは厨房に向かって歩き出す。
「でね、実は」
厨房を覗き込むように、男の間抜け面がこちらを見ていた。大人しくメシも待てねえのか。ガキじゃあるまいし。
「爪先立ちの貴公子なんですが、こっちもダメだったんです。盗まれちゃいまして」
よほど役に立たねえと見える。それじゃあ、何の為に雇われたかわかりゃしねえじゃねえか。
「断っておけばよかったかなぁ。依頼を受けるときもおっかなびっくり、ブルジョアーノさんの家に行きましたよ。すごいおうちでしたねぇ、あっちゃならないものが沢山あって。禁猟指定の動物の剥製に、行方不明になったはずの絵画、宝石。予告状で盗むと言われてたのは、その宝石ですね。それと、自慢げに見せてくれたのは……あれは多分……奴隷」
包丁を握る手に、思わず力が入る。
「ひどい扱いでした。仕事じゃなきゃもう行きたくないですねえ、あそこ。ご飯は美味しかったですけど。あ、食事どれくらいで出来るでしょうか? もう焼けます?」
質問に、答えることは出来なかった。焼いてる匂いなんて、する訳がねえ。本当は、メシの材料なんてねえんだ。そもそも、料理なんざしたこともなかった。
「それと、申し訳ないですがもう一杯、麦茶のお代わり頂いてもよろしいですか。それにしても、冷蔵庫があるのにわざわざアイスクーラーに入れて外で冷やしてみせるなんて、なかなか風流でいいですねえ」
返事は、しなかった。
「鍵付きの冷蔵庫、さっきあなたが言っていたようにこのあたりじゃよく見ますけど、大変ですよね。鍵失くしちゃったらどうしてるんです?」
なのに、ヤツは勝手にまくし立ててきやがる。相変わらず、平和そうなボケた声を出しやがる。その声が、どんどんおれを駆り立てやがる。
「あ、もしかして失くしちゃったんですか? 爪先立ちの貴公子、さん」
思わず、おれは振り返っていた。
「お客さん、おれが巷を賑わす大怪盗だって言うのかよ。ただのバーの親父だぜ」
「嫌だなあ、死人を名乗るのはタチが悪いですよ。本当のこの店のマスターは、きっともう死んでますよね?」
おれは包丁を隠すように持ちながら、厨房からでる
男の口がこれ以上余計な事をしゃべる前に、黙らせておいた方がいい。幸い、計画はうまく行っていた。今夜で仕事が終わるのは、こいつじゃねえ。おれだ。
「ここの本当のマスターは、脛あてゴブリンの一味のはず。あなた、ゴブリンにもなれないただのごろつきでしょう」
厨房から、ホールへ出る。
男はもうこっちを見ちゃいねえ。好都合だ。そのままグラスでも眺めたまま、死ぬといい。
「五日もここでじっと僕の相手をしていたのは、警備が解けるのを待ってるんでしょう。でも、残念ながらバレてます。諦めた方がいい。大体、食べるものもなくこんな所に押し込んでちゃ、彼女がかわいそうじゃないですか」
だめだ。早く口を止めねえと。息の根を止めねえと。
こいつには、多分全部バレている。
「脛あてゴブリンはあなたに、そそのかされたんですよね。彼女を盗む為に、豪邸の警備の囮役にされた。あなたは、彼らが押し入った騒ぎに乗じて、奴隷を一人盗んだ。爪先立ちの貴公子が予告状にないものを盗むなんて、前代未聞です。宝石以外を盗むのも、ですね。ブルジョワーノさん、とても怒ってました。あの事件から五日、彼の私兵は必死で行方を探してるらしいです」
あと、一歩。
もう少し近づいて、この手の包丁をさっくり差し込んでやりゃあ、おれの仕事は終わりだ。ずっと奪われていたダイアナと、やっと一緒に暮らす事が出来る。あと一人、殺せば。
「それと。怪盗爪先立ちの貴公子は、決して人殺しをしません。正しくは爪先立ちの貴公子の偽者ですね+」
包丁を振りかざしたおれを見ても、男は動じずにそっと帽子に手を伸ばす。
次の瞬間、おれの目は閃光に覆われていた。




