望む望まぬにかかわらず
・・・キィ。
蝶番が音を立てる。
「いらっしゃいま・・・ あ」
「よう」
すっかり元気になり、ウェイトレスなども含めて店を切り盛りしているティナは、その客が誰だかわかった。
雨具で顔が隠れているが、その身長と雰囲気からすぐ知れる。
リドルだ。
それを乳飲み子のように抱えることを許されるのは、ティナの旦那でリドルの友人のヴァスか、自分の親友でリドルの友人でもあるファロー・チェヌカくらいだ。
旦那は上にいる。なら客はファローだろう。
「・・・まああれだ。文句を言いに来た」
「あはは。ごめんね」
それで済む話ではない。
『アイディス』を、カルファト研究室に送ったのは、定期検診的なやりとりがあったことを隠していたことを含めて反則ギリギリ・・・いや、ギリギリでアウトだろう。一歩間違えば取り返しがつかないことは語り合いさえしたというのに。
もしものことがあったら、傷つくのは、全てを失いかねないのは、自分の愛しい人だろうに。
「でも、私はね。それでも・・・
今、『あれ』が欲しいだろう誰かを考えずにいられなかったんだ」
まるで、演劇なら、『それで世界が滅ぶとしても』とでも続けそうであった。
実際、それくらいの思いなのだろう。また、そんな思いは、彼女の立場でないとわからないのかもしれない。自らの命が削られていくのを感じながら生きたことのある者にしか。
本当は、寿命というものがある以上、すべての生き物が同等にそれなのだが、自覚させられる何かがあるかどうかが重要なのだろう。
しかし、本題はそこではなかった。
「実は、あの件でトラブルがあった。
・・・責任はティナ、お前にもある。一働きしてもらうぞ」
張り詰めた空気が流れる。
覚悟はしていたことだ。それが何かはわからなくても、『きっと何かは起こる』と。
「・・・何をすればいい?」
この度胸がティナのティナたる所以だ。
十二分に使えるだろう。
そのやりとりが終わるか終わらないかの時点で、やっと気配を感じたのか、降りてくる人影があった。
「リドル! ファロー!?」
「ようヴァス。まだ久しぶりというほどでもないな」
何が起こったのかを、リドルは二人に告げた。
結局、二人に『普通の夫婦』などをさせてやることは出来なくなった。
だが、同情はしない。
原因は、ティナのエゴだ。ならばせいぜい役に立ってもらわねば。
・
往診の道中、医師は高揚を抑えきれずにいた。
(もう少しだ)
『万能薬』の調査は、実用までにはもう少しといったところだろう。
正体は見えたし、効能はわかった。あの薬・・・ 彼の血は、ようは『超強力な抗体』だ。しかも、それでいて人体に悪影響はない。
『アナフィラキシーショック』(抗体の過剰反応によるショック症状のこと。蜂の毒に二度犯されると起こるショック死などが知られている)などに代表される、『強力である』ことに対するリスクはない。少なくとも今まで使った者達には、老若男女に至って特筆すべき影響は出ていない。
使える。
万能薬として、広めるだけの価値があった。
後は、製造元となる、あの姉弟の弟の方・・・ あの血を持つ人間を増やす方法を考えねばならない。それさえ出来れば、『医療』が根本から変わる。
莫大な富、名誉、いや・・・ 自分の名は革命と共に歴史に名を残す。
誰もが病魔に怯えずに済む、夢のような世界の顕現とともに!!
(もう少しだ・・・!)
その日の往診も、滞りなく終わった。
今後、自分の歩む道を思えば、今していること・・・『貧民街で医療に携わっている』事は、美談にできるだろう。利など求めず、ただ人々のために生きてきた聖者の起こした奇跡・・・ゾクゾクする。
だからこそ手は抜けない。その美談の中で、実はおざなりな診察しかしない薮であったなどという話は挟ませたくない。そう思うと、自然と一つ一つの所作が丁寧に、献身的にさえなる。
この地道な作業の一つ一つが、あらん限りの憧憬を、崇拝を一身に受けるための布石だ。
診察した老人の心からの礼と、その孫娘のてすがら渡してくれた菓子が、その未来を想像させ、ことのほか気を良くした帰路。
明日は、カーリマンズ学院の門を叩く予定だ。
あの姉弟に何が起こったのかを、必ず探り出して見せる。
そんな揚々とした気持ちでいたその時。
ヒヤリ
背筋に冷たいものが走る。
(・・・何だ?)
と、思った時には、
ドッ
・・・背中とも首筋ともつかぬところに衝撃を受け、医師は気を失う。
その後の会話は、医師の耳には届かない。
「・・・間違いないな」
「姉弟の方も拘束が完了した。合流させる」
会話をしなかった者がもう一人。それで三人。・・・彼らは、それ以上は喋らず、医師を簀巻きにして荷物に偽装した後、去っていった。
黒ずくめのローブの集団・・・などではない。
本当に其の辺の日雇い人夫のような格好だ。
あまりに人の多い、『都市』と呼べるような場所では、顔見知りでさえない者を見かけることは日常すぎる。記憶しても仕方ないと判断したものを人は覚えない。目にしたそばから忘れていってしまう。
彼らが、遠国『カイゼル帝国』の諜報員であることに思い至る人間は、彼らが根城にしている場所に戻るまでに存在していなかった。




