聞き取り不能
槙野フサという人は、話の途中で、ときどき「はい」と言う。
誰かに相づちを打つような声だった。聞き手の久住が何か言ったわけではない。フサが自分で話していて、ふっと言葉が切れ、一秒か二秒あいて、「はい」と言う。それからまた続きを話す。
年寄りにはよくある口癖だ、と宮下透子は思った。自分の話を自分で確かめるような「はい」。録音を聞いていると、六十分のうちに二十回は出てくる。
透子はそれを、全部消した。
仕様書は、メールの本文に箇条書きで書いてあった。
・ケバ取りでお願いします(「えー」「あのー」、言い直しなどは除いてください)
・話者は「久住」「槙野」としてください
・聞き取れない箇所は●●とし、時間(00:00:00)を添えてください
・原稿は槙野さんにお読みいただき、ご本人の確認が済んだものを記録集に掲載します
市立郷土資料館の学芸員、久住啓。前に一度、資料館の講演会の録音を起こしたことがあって、その縁でまた声がかかった。今度は、来年の春に出す『笹川水害七十年 聞き書き集』の音源だという。語り手は四人。そのうち一人分、四回の聞き取りを透子が受け持つ。予算が少ないので業者を通さずにお願いしたい、と久住は書いていた。単価は業者経由の仕事より少し良かった。
透子は三十八歳で、文字起こしの会社の事務を辞めてから六年、家でこの仕事をしている。ワンルームの窓ぎわに机を置き、ヘッドフォンをして、足もとのフットペダルで再生と停止をくり返す。一時間の音源を起こすのに、だいたい四時間かかる。月に二十本起こせば、家賃と食費と国民健康保険が払える。十五本だと払えない。
聞こえたとおりに書くのが仕事ではない、と透子は思っている。話し手が言いたかったことを、読める形にして渡すのが仕事だ。「えー」も「あのー」も、話し手は言ったつもりがない。言い直しも、咳も、遠くの救急車も、話し手の言葉ではない。それを拾わないのが腕だった。
この仕事を始めたころ、透子は全部を拾っていた。相手が鼻をすする音も、言いかけてやめた言葉も、隣の部屋のドアの音も。そうして納めた原稿を、依頼主は一行ずつ消して返してきた。読めません、と添えてあった。それから透子は、聞こえても書かないことを覚えた。覚えてからは、仕事が途切れなくなった。
一本目の音源は、フサの生い立ちから始まっていた。新沢の生まれで、家は川べりの農家だった。父は無口で、母はよく働いた。十四の夏まで、笹川は泳ぐ川だった。
話しぶりはしっかりしていた。八十四歳とは思えないほど、言葉がはっきりしている。ただ、ときどき言葉が切れる。
槙野 それで、夏になると、川で……はい。川で、よく遊びました。
透子は「はい」を消して、「夏になると、川でよく遊びました」と打った。
フサは、堤防の上を自転車で走ったこと、用水路で鮒をすくったこと、夕立のあとの川が茶色く膨らんでいくのを見るのが好きだったことを話した。久住の質問は短く、余計な相づちを打たない。いい聞き手だった。起こす側からすると、声がかぶらないのはありがたい。
二十三分四十一秒のところで、フサが三秒ほど黙った。
そのあいだに、何か聞こえた気がした。息のような、水を手ですくうような、ごく小さな音。透子はペダルを踏んで五秒戻し、もう一度聞いた。今度は何も聞こえない。もう一度戻すと、また何か聞こえる。録音機のノイズだろう、と透子は思った。古いICレコーダーを机に置いて録ると、こういう音がよく入る。言葉ではないから、●●も付けなくていい。
三秒の間が明けて、フサが「はい」と言った。
透子はそれも消した。
その晩、一本目を納品した。翌朝、久住から「読みやすくて助かります」と返事が来た。
***
二本目は九月の終わりに届いた。
八分十二秒。フサが、田んぼに水を引く堰の話をしていて、言葉が切れた。
——いた。
子どもの声だった。
透子はペダルから足を離した。ヘッドフォンを片方ずらして、部屋の音を聞いた。冷蔵庫が低く唸っているだけだった。ヘッドフォンを戻し、五秒戻す。
——いた。
小さな女の子の声だ。遠い。部屋の奥か、窓の外くらいの距離がある。そのすぐ後に、フサの「はい」が入っていた。
テレビか、近所の子どもか。透子は原稿に「(子どもの声)●●(00:08:12)」と打ち、久住にメールを書いた。八分十二秒付近に子どもの声のようなものが入っています、どなたかいらっしゃいましたか、起こしたほうがいいですか。
返事は一時間ほどで来た。
——フサさんはお一人暮らしで、当日は私と二人きりでした。テレビも消していただいていました。外の声かもしれません。背景の音は起こさなくて結構です。
透子は打った一行を消した。
それから、いつもどおり頭から聞き直した。起こした文字と音を突き合わせて、聞き違いを直す作業だ。八分十二秒まで来たとき、透子はペダルに足を乗せたまま身構えた。
何も入っていなかった。フサが黙り、また話しはじめる。声はない。
気のせいだったのかと思いながら先へ進み、十九分三十秒のところで、透子の手が止まった。
——いたよ。
さっきより近い。
画面の下に、音の波形が細長く表示されている。十九分三十秒は、一回目に聞いたとき、平らだった。そこに今、小さな山がある。透子はそれを覚えていた。覚えていたから、背中が冷たくなった。
ソフトの不具合だと思うことにした。共有フォルダから、音源をもう一度ダウンロードした。別の再生ソフトで、新しいファイルの十九分三十秒を開く。山はそこにあった。八分十二秒は平らだった。ファイルの更新日時は、久住がアップロードした日のままだった。
透子は長いこと、波形を眺めていた。
それから、十九分三十秒の行に「(子どもの声)いたよ」と打って、再生した。
声はしなかった。山も消えていた。
透子は息を止めたまま、その一行を消した。もう一度、頭から聞いた。十九分三十秒は平らだった。そのかわり、三十一分五秒に山ができていた。
——いたのに。
耳のすぐそばだった。
透子はヘッドフォンをむしり取るように外して、机に置いた。手のひらが湿っていた。窓の外で、自転車のブレーキが鳴った。いつもの夕方の音だった。それがひどく遠く聞こえた。
書けば止まる。消せば、別の場所で、もっと近くで言う。
一本目のことを思い出したのは、しばらくしてからだった。透子はスピーカーに切り替えて、一本目のファイルを開いた。二十三分四十一秒。フサが黙る。息のような、水をすくうような音。何度戻しても、それ以上にはならなかった。言葉には聞こえない。波形にも、小さなざらつきがあるだけだった。
あれは、消していない。打ってもいない。ただ、聞こえなかったことにした。
透子はファイルを閉じた。
そんなことを久住に書けるはずがなかった。書いたら、どうなるかは分かっていた。丁寧な返事が来て、次の仕事は来なくなる。背景の音は起こさなくて結構です、と言われている。仕事は仕様どおりにするものだ。
透子はヘッドフォンを使わずにパソコンのスピーカーで残りを聞き、三十一分五秒の前後だけを音を消して飛ばし、二本目を納品した。
***
夜中に目が覚めた。
午前二時を少し過ぎていた。部屋は暗く、机の上だけ、充電中のスマートフォンの小さな光がある。そのそばに、ヘッドフォンがあった。コードはパソコンから抜いて、机の上で丸めてある。
その中から、声がした。
——けした。
透子は布団の中で動けなかった。
ヘッドフォンのコードは、どこにもつながっていない。それでも、片方の耳あての中で、子どもが言った。もう一度。けした。
透子は布団をかぶった。耳をふさいだ。ふさいだ手のひらの内側で、自分の血の音がした。その音の奥で、もう一度、言われた気がした。朝まで、そのまま目を開けていた。
明るくなってから、ヘッドフォンを机の引き出しにしまった。引き出しを閉める手が、自分でおかしいほど震えていた。
昼すぎに、河合さんに電話をかけた。透子が事務をしていたころ、空いた時間に起こしの仕事を教えてくれた人だ。いまも同じ会社で、新人の原稿を直している。
「あるよ、たまに」
河合さんは、透子の話を半分も聞かないうちに言った。
「誰もいないはずの声が入ってるの。葬儀屋さんの打ち合わせとか、病院の聞き取りとか。古い家で録ったやつに多い気がする。気のせいかもしれないけど」
「どうしてるんですか、そういうとき」
「起こさないよ」
河合さんは笑いもせずに言った。
「起こしたって、誰も得しないもん。お客さんは気味悪がるし、こっちは頭がおかしいと思われる。聞こえなかったことにして、次のファイル開くの。宮下さんも、そうしなさい。それが一番いいの」
電話を切ってから、透子は久住宛てのメールを書いた。体調を崩してしまい、残りの二本はお受けできそうにありません。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。
送信のボタンの上で、指が止まった。
辞めても、あの声は引き出しの中にいる。三本目と四本目は、ほかの誰かが起こすだろう。その人も、背景の音は起こさなくて結構です、と言われるだろう。河合さんのように、聞こえなかったことにして、次のファイルを開くだろう。透子がしたように。
消したのは、私だ。
透子はメールを下書きに残して、パソコンを閉じた。
***
三本目には、久住の短いメールが付いていた。
——いつもありがとうございます。次回、四回目はフサさんに原稿を読んでいただく確認の回です。私どもの方針として、語り手が話されたことだけを残し、載せるかどうかはご本人に決めていただいています。それから、三回目は水害の夜のお話なので、亡くなった方のお名前が出てくるかもしれません。表記の確認用に、巻末に載せる予定の犠牲者名簿の写しを添付します。当時の町の記録です。
名簿は一枚のスキャン画像だった。罫線の入った古い用紙に、手書きの名前が二十三並んでいる。透子は起こしに入る前に、上から下まで目を通した。いちばん上の名前は七十一歳の男で、いちばん下は二歳の男の子だった。行方不明の印が付いた名前が、五つあった。
三本目は、水害の夜の話だった。
透子は引き出しを開け、ヘッドフォンを出した。しばらく手の中で持っていた。それから耳に当てた。今度は、間が来ても再生を止めないと決めていた。止めて戻すたびに、こちらから声を探しに行っている気がしたからだ。
昭和三十一年七月、三日続いた雨の夜に、笹川の堤防が切れた。フサの話では、最初に気づいたのは父だった。夜の十時過ぎ、半鐘が鳴る前に、父は土間に下りて戸を開け、すぐに閉めた。閉めた戸の下から、水が入ってきたという。
槙野 父が先に行って、母が後ろから……はい。私は、母の後ろを、ひとりで歩きました。家の前の道が、もう川みたいになっていて。
久住 暗かったでしょう。
槙野 真っ暗でした。電気は、とっくに。父が懐中電灯を持ってたけど、前しか照らさないから。後ろは、母の背中だけ見て歩いて。
十二分。
——とうこさん。
透子はペダルから足を落とした。
聞き違いではなかった。十二分ちょうど、フサが言葉を切った三秒のあいだに、子どもがはっきりと、透子の名前を呼んでいた。録音は十月の初め、フサの家の居間で録られている。透子はその家に行ったことがない。フサにも、会ったことがない。
フサが「はい」と言い、話を続ける。
槙野 用水路の脇を通ったときに、水が膝まで来て。流れが速いんです、用水路のほうから来る水は。足を取られそうになって。……はい。でも、みんな、なんとか、高台の学校まで。
久住 学校で、朝まで。
槙野 ええ。講堂に、近所の人がみんな。濡れたまま、ござの上で。誰かが名前を呼んで回ってましたね、一晩じゅう。何々さん、いますか、って。返事がないと、また呼んで。朝になっても、まだ呼んでる人がいて。
久住 フサさんのご家族は。
槙野 うちは皆、無事でした。
——わたしもいた。
——おき ちよ。
——おねえちゃんが、て、はなした。
間が来るたびに、声は一つずつ言った。そのたびに、フサが「はい」と言った。
透子は名簿の画像を開いた。上から十四番目に、「沖 チヨ 六 新沢 行方不明」とあった。起こしに入る前に、一度は目で追った名前だった。
四本目は、フサが原稿を読む回だ。三本目の原稿を、フサが読む。
透子は、ペダルに足を戻せないまま、しばらく画面を見ていた。久住の方針を思い返した。語り手が話されたことだけを残す。フサは「うちは皆、無事でした」と話した。それが、フサが話したことだった。
消せば、声はもっと近くで言う。書けば、黙る。そこまでは分かっていた。分からないのは、何を書くかだった。
「おねえちゃんが、て、はなした」。フサはそんなことを言っていない。フサの名前で出る原稿に、フサを責める言葉を、フサ以外の誰かの声として載せる。それは、話し手が言いたかったことを読める形にして渡す、という仕事の、いちばん外側だった。八十四歳の人が自分の原稿を読んでいて、その一行に行き当たるところを、透子は思い浮かべることができなかった。
「とうこさん」も書かなかった。それは透子に言った言葉で、記録に言った言葉ではない。
透子は原稿の末尾に、一行あけて注記を打った。
※背景に、女児とみられる声が入っています(話者二名のほか)。以下のとおり聞こえます。
00:14:52 わたしもいた
00:17:06 おき ちよ
頭から聞き直した。十四分五十二秒と十七分六秒は、平らだった。十二分は「とうこさん」と言い、二十一分は「て、はなした」と言った。その二つは、聞き直しても消えなかった。けれど、動きもしなかった。近づきもしなかった。前に聞いたときと同じ場所で、同じ距離で、同じことを言った。
透子はしばらく、二十一分の山を見ていた。それから、三本目を納品した。
電話は翌日の昼に来た。
「これは……どういうことでしょう」
久住の声は怒ってはいなかった。困っていた。
「聞こえたままです」と透子は言った。「不要でしたら、削ってください」
「私も聞き直しました。水の音みたいなものしか、聞こえませんでしたけど」
「そうですか」
「宮下さん、正直に言うと、こういう注記は困ります。フサさんは、ご家族は皆無事だったと話されています。それに、この名前は」
久住はそこで言葉を切った。名簿の写しを送ったのが自分だと思い出したのだろう、と透子は思った。
「名簿から写したと思われても、しかたがないと思います」と透子は言った。「でも、写していません」
「……」
「原稿は、槙野さんに読んでいただくんですよね」
電話の向こうで、久住が黙った。
「……ええ」
「削るかどうかは、ご本人が決める、と」
「……そうですね。そういう方針です」
久住は小さく息をついた。
「では、このままお見せします。削るとおっしゃったら削ります。そのときは、宮下さんにはもうお願いしないかもしれません。それでいいですね」
「はい」と透子は言った。
その夜、引き出しの中は静かだった。
透子は眠れなかった。午前二時を過ぎても、三時を過ぎても、机のほうに耳を澄ませていた。何も聞こえなかった。冷蔵庫が唸り、止まり、また唸った。
静かになったのか、黙っただけなのか、透子には分からなかった。二十一分の「て、はなした」は、まだ三本目の録音の中にある。書かなかったのは自分だ。明け方、透子は引き出しを少しだけ開けて、また閉めた。
次の夜も、静かだった。
***
四本目は十月の半ばに届いた。
久住のメールには、フサさんのご希望で、確認の回も原稿に起こしていただけますか、仕様は同じで、とだけ書いてあった。仕事は、まだ来ていた。
録音は、紙をめくる音から始まっていた。久住が、刷り出した原稿を一本目から順にフサに渡し、フサが読む。ときどきフサが「ここは、こう言ったかしら」と言い、久住が録音を確かめて答える。堤防の上の自転車。用水路の鮒。読む声は、話す声より少し低かった。
一本目を読み終えたとき、フサが言った。
槙野 きれいに直してくださって。私、こんなにちゃんとしゃべってないでしょう。
久住 いえ、おっしゃったとおりですよ。
槙野 そうかしら。
透子は、それをそのまま打った。
二本目は早かった。堰の話。田植えの話。フサは一度も手を止めなかった。
三本目に入って、読む速さが落ちた。堤防が切れた夜の話だ。父が戸を開けて閉めたところで、フサは小さく笑った。そうそう、こうだった、と言った。母の背中だけ見て歩いた、というところで、紙の音が止まった。
三十八分を過ぎて、もう一度、紙の音が止まった。
波形が平らになった。四十秒、何も入っていなかった。透子は音量を上げた。フサの呼吸と、壁の時計の音がした。どこか遠くで、救急車が鳴っていた。
槙野 久住さん。この、終わりのところの。
久住 ああ……それは、起こしてくださった方が付けた注記で。背景に何か入っている、ということなんですが。私が聞いても、よく分からなくて。不要でしたら削ります。
槙野 聞かせてください。
久住 え。
槙野 十四分の、なんとかってところ。録ったの、ありますでしょう。
久住がノートパソコンを開く音がした。小さなスピーカーから、三本目の、少し遠いフサの声が流れた。用水路の脇を通ったときに。流れが速いんです。音が止まり、数秒の間があって、また録音のフサが話しはじめる。
録音の中の間に、何が聞こえたのかは、四本目の録音には入っていなかった。ノートパソコンの小さなスピーカーから、もう一度レコーダーに録られた音では、透子にも何も聞き取れなかった。
聞き終わってから、フサは長いあいだ黙っていた。
槙野 これ、起こした方は、どんな方。
久住 女性の方です。三十代の。丁寧な方ですよ。
槙野 そう。その人のところにも、行ったんだね。
また間があった。今度は短かった。
槙野 チヨは、妹です。沖チヨ。……あの晩、私が手を引いてました。母は父の後ろで、荷物を持ってたから。用水路のところで、水が急に来て。チヨが、引っぱられて。私も引っぱられて。私、怖くて、離しました。手を。
久住 フサさん。
槙野 母は、それから一度もチヨの名前を言わなかった。次の年に町を出て、向こうでは、子どもは私一人ってことにして。だから私も言わなかった。うちは皆、無事だったって、そういうことになったんです。
透子は、打つ手を止めなかった。止めたら、聞いていられなくなる気がした。
——おねえちゃん。
フサの声のすぐそばだった。もう遠くなかった。
録音の中のフサが、「はい」と言った。
久住 ……今、どなたに。
槙野 チヨに。
久住 ……。
槙野 ずっと、返事だけはしてたんです。はい、って。それしか言えなくて。それ以上言ったら、母が、ね。母が死んでからも、なんだか、言えなくて。
槙野 久住さん。名簿の方じゃなくて、私の話のほうに入れてください。あの晩、チヨもいたって。私が手を離したことも。
久住 ……分かりました。
そこから先、音源は最後まで、話し手が二人の録音だった。久住が段取りを確かめ、フサがお茶を勧め、湯呑みの音がして、録音が切れた。間はいくつもあったが、どこにも、何も入っていなかった。
透子は、子どもの声の行に、話者を付けなければならなかった。仕様には「久住」「槙野」の二人しかない。※を付けて注記にすることもできた。三本目でそうしたように。
少し考えて、「チヨ」と打った。
チヨ おねえちゃん
槙野 はい
打ち終えてから、透子は椅子の背にもたれた。
消してきた「はい」のことを考えた。一本目の、川で遊んだ話の途中の「はい」。二十三分四十一秒の、三秒の間の後の「はい」。二本目の、八分十二秒の後の「はい」。六十分に二十回。フサは、言葉を切って、少し待って、それから「はい」と言っていた。
年寄りの口癖だと思った。話し手が言ったつもりのない言葉だと思った。
七十年、それしか言えなかった返事を、透子は全部、ケバとして取っていた。
きれいに直してくださって、とフサは言った。
透子は一本目のファイルを開いた。
納品した原稿を横に並べ、二十三分四十一秒の三秒前に、カーソルを置いた。ヘッドフォンを両耳にかけた。ペダルを踏んだ。
フサが黙った。
あのとき息か水の音だと思ったものが、今度は、言葉に聞こえた。
——おねえちゃん。
フサが、「はい」と答えた。
透子は、その二行を打った。
チヨ おねえちゃん
槙野 はい
保存して、ペダルを踏んだ。
次の間は、二分十秒先にあった。




