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妹には王都の伯爵令息、私には傷だらけの辺境伯――厄介払いのはずが、夫に溺愛されています

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/06

 妹の花嫁衣装を仕立てるために、母は三人の職人を呼んだ。

 私の衣装は、二年前の箱から出された。


「袖を替えれば着られるでしょう」


 母が広げた白いドレスには、まだ私の体に合わせる前の仕付け糸が残っていた。

 十六歳のとき、父の決めた縁談を断った。その相手との式に使うはずだったものだ。


「あちらへ嫁げば、流行など気にしなくて済むわ」


 向かいでは、妹のマルゴが銀糸の刺繍を指でなぞっていた。

 仕立屋が裾に真珠を縫いつける案を出すと、母は迷わず頷いた。


「お姉様も、よかったわね。今度は結婚できそうで」


 私は、箱の底に落ちた針を拾った。

 返事をすれば、また素直でないと言われる。


 妹の相手は、王都に屋敷を持つラセル伯爵家の嫡男、バスティアン様だった。

 舞踏会で二度踊っただけで、妹は彼の目の色も、乗っている馬の毛色も覚えていた。


 私の相手について分かっているのは、北の国境を治めるヴェルネ辺境伯ということ。

 二十五歳。未婚。

 戦で負った傷が顔に残っていること。


「お気の毒よね。お顔に傷があるなんて」


 妹は鏡の前で、首飾りを当て直した。


「でも、お姉様なら平気でしょう。怖い方にも、言い返せるもの」


 私は拾った針を、針山へ戻した。


「まだ、お会いしていないわ」

「噂は聞いているでしょう?」

「だからこそ、会ってから考えるわ」


 母が私のドレスを畳んだ。


「そういうところよ、サフィナ」


 いつもの声だった。

 妹が黙っていれば礼儀正しく、私が黙っていれば愛想がない。

 妹が欲しがれば可愛らしく、私が希望を言えば面倒になる。


 七歳の誕生日にもらった髪飾りを、私は一度もつけなかった。

 六歳のマルゴが欲しいと泣くと、母は私の手から箱を取った。


「あなたはお姉さんでしょう。我慢できるわね」


 妹の髪に私のリボンが結ばれ、私には菓子が一つ余分に渡された。


 妹は小さい頃、よく熱を出した。

 両親は付ききりになり、私には一人で寝るように言った。元気になっても、妹を泣かせてはいけなかった。

 貸した人形を壊されると、貸した私が悪かった。


 十歳のとき、妹が先に使った練習帳を渡された。

 汚れた頁を避けて書くと、父は、なぜ初めから書かないのかと叱った。新品が欲しいと言えば、使えるものを粗末にするなと言われた。

 妹の字は、上手になったと褒めた。私の字には、直すところだけを教えた。


 妹が丈夫に育っても、扱いは変わらなかった。

 甘えて抱きつく妹は可愛く、私は抱きつく時刻を探しているうちに大きくなった。


 妹には明るい色が似合う。私には地味なものがちょうどよい。

 妹の笑い声は楽しい。私が笑うと、声が大きいから控えなさい。


 十八歳の今も、初めての人と話すときには、口元へ手を当ててしまう。

 妹にはあって、私にはないものがあるのだろうと思っていた。


 その私に、縁談が来た。

 父は、お前でも欲しいと言う方がいる、と言った。

 だから初めは、嬉しかった。


 二年前、父が選んだ相手は、夕食の席で給仕の少年に酒をかけた。

 少年が皿を落としたからだ。

 その後、私の手首を掴み、妻になるのだから笑えと言った。


 父に話すと、機嫌を損ねる方が悪いと叱られた。

 母は、男の方にはそういうところがある、と言った。


 縁談を断ったのは私だった。

 父の名前を使わず、自分の名で手紙を書いた。

 それまで年に一度だけ連れていかれた夜会にも、呼ばれなくなった。

 母は、縁談の顔合わせ用に買ったドレスを何年も着られるよう、大きめに仕立て直させた。

 妹には季節ごとに新しい服と靴が届いた。


「マルゴは家のことを考えてくれる」


 父はそう言った。

 断らなければ、父も一度くらい褒めてくれたのかもしれない。

 けれど、あの人の手が私の手首へ近づくのを見ながら、何十年も暮らすことはできなかった。


 妹には、親に可愛がられたまま結婚する道がある。

 私は、ようやく見つかった相手まで、断ってしまった。


     *


 出発の日、父は私に封筒を渡した。

 辺境伯への挨拶状だった。


「今度こそ、相手に恥をかかせるなよ」


 私は受け取った封筒を鞄へ入れた。

 妹の嫁入りは半月後だ。私が先に出れば、祝いの客に顔を合わせずに済む。


 門の前には、辺境伯家の馬車が停まっていた。

 迎えに来た老家令は、私を見るなり眉を動かした。


「お荷物は、こちらですべてですか」


 旅鞄が一つと、ドレスの箱が一つ。

 妹の荷物を運ぶために雇った荷馬車は、裏庭に三台並んでいた。


「はい。お願いします」


 家令は何も尋ねず、私の鞄を自分で持った。

 母は、向こうで不足があれば揃えていただきなさいと言った。

 私は母の方を見たが、母は妹の髪についた糸くずを取っていた。


 馬車に乗る前に、一度だけ振り返る。

 父はもう屋敷へ戻ろうとしていた。


 四日後、辺境伯の屋敷へ着いた。

 石造りの壁は厚く、門には軍服の兵がいた。庭木は、王都より遅い若葉を開きかけていた。


 玄関の階段を、一人の男の人が降りてくる。

 背が高かった。外套を着ず、濃い灰色の上着の袖を少し捲っていた。

 左のこめかみから頬にかけて、白く盛り上がった傷がある。


「サフィナ嬢。ロラン・ヴェルネです」


 私が礼をすると、彼は片手を差し出した。

 馬車から降りるための手だった。


「道中、ご不便はありませんでしたか」

「ありません。休憩も、十分に取っていただきました」


 家令は日が傾く前に宿を取り、食事の間も私を急かさなかった。


 手を借りて降りる。

 辺境伯の手は大きく、甲にも細い傷が何本か残っていた。けれど、私を支える指は、痛いほど強く握らなかった。


「今日は休んでください。お話は明日でも」

「その前に、一つ伺ってもよろしいでしょうか」


 今を逃せば、聞けなくなりそうだった。


「私に、何をお望みですか」


 辺境伯は私を見た。

 少し間が空き、隣の家令が荷物を持ち直した。


「まず、ここで暮らせるか確かめてほしい」


 彼は屋敷の方へ顔を向けた。


「冬は長い。王都ほど店もありません。私も屋敷を空けることがある。結婚の前に、知っていただくべきことがあります」

「私は、結婚のために参りました」

「ええ。ただ、お会いするのは今日が初めてですから」


 彼は私の手を離した。


「こちらからは、まず一月ほど滞在していただく案をお送りしたのですが」


 知らなかった。

 婚姻の届けは、着いたらすぐに出すものだと思っていた。

 父は、辺境伯が急いでいると言った。


「……そのお話は、伺っておりません」


 彼は私を問い詰めず、明日改めてお話ししましょうと言った。


 客室には火の入った暖炉があった。

 寝台の足元に湯たんぽが置かれ、卓には温かいスープとパンが並んでいる。


 侍女が、翌朝は何時に起きるかと尋ねた。


「六時でお願いします」

「早いのですね。何かご予定がおありですか」


 予定はなかった。

 ただ、家ではその時刻に起きていた。遅れれば、食卓で嫌味を言われるからだ。


「……八時でも、よろしいでしょうか」

「もちろんです。朝食はこちらへお持ちしますね」


 その夜は、寝台に入ってから足の先が冷たくならなかった。


     *


 翌日、辺境伯は父へ送った手紙の控えを見せてくれた。

 一月の滞在。互いの意思を確認してからの婚姻。帰る希望があれば、護衛をつけて送ること。

 父が口にしなかったことばかりだった。


「結婚を、お急ぎではないのですか」

「年内にできればと思っています。ですが、誰とでもよいわけではありません」


 彼は、自分で私のカップへ茶を注いだ。


「私の家へ嫁ぎたいという方は、多くありません。理由は、ご覧のとおりです」


 指先が、左頬の近くまで上がった。

 彼は途中で手を下ろす。


「傷のことですか」

「それも。領地の場所や、私の仕事も」

「傷は、痛むのですか」


 彼が顔を上げた。


「いえ。今は、ほとんど」

「では、よかったです」


 傷について、他に何を言えばいいのか分からなかった。

 怖くないかと聞かれたら、怖くないと答えられる。

 けれど目の前の人は、私に戻る道まで用意していた。


「こちらで暮らしてみたいです。一月、置いていただけますか」


 辺境伯は、持ち上げかけたカップを戻した。


「ええ。喜んで」


 それから、屋敷を案内してくれた。

 図書室で私の足が止まった。


 窓際の棚に、旅行記が並んでいた。

 実家では、買ってもらえなかった本だ。


「お好きですか」

「読んでみたかったんです。遠い土地の話を」

「部屋へ持っていって構いません」


 私は二冊を選んだ。

 一冊は彼もまだ読んでいないと聞いて、棚へ戻しかけた。


「先にお読みになってください」

「サフィナ嬢が先に読めば、私も早く読みたくなります」


 彼が上の一冊を取った。


「部屋まで、ご一緒しても?」


 私は頷いた。

 廊下を歩きながら、彼は私の持っている本を指した。


「その著者は、宿の食事に厳しい人です」

「読まれたんですか」

「ええ。途中から、土地の話より何を食べるかが気になりました」


 私はその晩、同じところで笑った。

 翌朝の食卓で話すと、彼は分かっていただけましたかと言って、嬉しそうにパンを割った。

 私が笑うと、彼も笑った。

 慌てて口元へ手を上げる。


「失礼しました」

「何か、失礼なことがありましたか」


 私は返事に困った。

 大きな声を出したわけでも、食事中に口を開けたわけでもなかった。


「笑い方が、あまり綺麗ではないので」


 彼は私の手から、顔へ視線を移した。


「私は、もう一度見たいと思いました」


 手を下ろせなかった。

 彼はそれを無理に動かさず、続けた。


「次に読まれた本の話も、伺いたいです」


 私は頷いた。

 彼とまた話せることが、楽しみだった。


     *


 六日目の午後、庭で辺境伯に会った。

 彼は一本の木を見上げていた。周囲の木は葉を広げているのに、それだけ枝が黒かった。


「枯れているのですか」

「いえ。毎年、これだけ遅いのです」


 彼は足元の草を靴先で避けた。


「戦から戻った年には、枯れたと思って切らせかけました。庭師が待ってくれと言うので、そのままにしたら、六月に葉が出た。それから毎年、少し気になります」

「では、まだ待つんですね」

「ええ。私が毎日見に来ても、早くはならないのですが」


 彼は少し照れたように笑った。

 私は、枝の先に目を凝らした。


 十日目の朝、彼が言った。


「今日は川沿いの砦へ行きます。夕食には戻れそうにありません」

「承知しました」

「明日の午後、お茶をご一緒していただけますか」


 私は彼を見た。


「お忙しければ、お気になさらず」

「私が、ご一緒したいのです」


 彼は返事を待っていた。

 私はカップを置き、はい、と答えた。


 翌日、私がお茶の部屋へ行くと、彼は既に待っていた。


「おかえりなさい。あの木に、葉が出ていました」


 挨拶の後、すぐに言ってしまった。

 彼は立ち上がり、窓の外へ目を向けた。


「もう?」

「下の枝に一つだけ。私が先に見つけてしまいましたね」


 彼は私を見た。


「覚えていてくださったのですか」

「気になると、おっしゃっていたので」


 短い沈黙の後、彼は笑った。

 いつもの小さな微笑みより、ずっと嬉しそうだった。


「お茶の後、案内していただけますか」

「はい」


 卓には、蜜と木の実の菓子が並んでいた。

 私が好きだと話したのは、前の朝食のときの一度だけだ。


「こちらこそ、覚えていてくださったんですね」

「ええ。昨日、砦から帰る途中も、今日はこれを出そうと思っていました」


 彼は一つ取り、私の皿へ置いた。


「帰ってきてよかった。葉も見られるし、あなたにも会えた」


 菓子を口へ運ぶまで、少し時間がかかった。


 お茶の後は、庭を歩いた。

 石畳の先で道が細くなり、私が裾を持ち上げると、彼が立ち止まった。


「この先は、足元が悪いので」

「腕をお借りしても、よろしいですか」


 彼は一瞬、返事をしなかった。

 私が手を戻しかけたところで、腕が差し出される。


「もちろん」


 触れると、彼の腕が強張った。

 嫌だったのだろうか。けれど、小さな葉を見つけた彼は、ありがとうと言った。


 帰りも、私に差し出されたのは右腕だった。

 食卓でも、彼はいつも私を右側に座らせる。こちらからは、傷がよく見えない。


 翌日の午後、私は図書室で本を読んでいた。

 彼が来て、隣の椅子へ座る。

 やはり、私には右側の顔を向けていた。


「閣下」

「はい」

「私のことを、怖がっていらっしゃいますか」


 彼は本を落としかけた。


「いえ。どうして」

「いつも、こちらへ顔を向けてくださらないので」


 彼は黙った。

 そして、閉じた本を膝に置いた。


「以前、小さな子を泣かせてしまったことがあって」


 指先が、本の角を撫でた。


「大人でも、目を逸らす方はいます。あなたには、なるべく気にならないようにと」


 私が嫌われていたわけではなかった。

 胸の奥で、絡んでいたものがほどける。


 私は立ち上がり、空いていた椅子を少し動かした。

 彼の正面に座る。


「こちらの方が、お話ししやすいです」


 彼は、ゆっくり私を見た。

 左の頬の傷が見える。顎の近くにも、細い傷が一つあった。

 目は、左右とも同じ色だった。


「驚きませんか」

「初めてお会いしたときは、少し。でも、もう何度もお会いしていますから」


 怖くないと繰り返すより、本当のことを言いたかった。


「それより、腕をお借りしたのが嫌だったのかと、心配しました」

「違います」


 すぐに返事があった。


「嬉しかったので。どう歩けばいいのか、一瞬、分からなくなった」


 私の手が、膝の上で動いた。

 彼は視線を落としてから、またこちらを見た。


「今度は、もう少しうまく歩きます」


 私は笑った。

 笑うと、彼もようやく笑った。


 その日の夕食では、彼が自分の隣の椅子を引いた。


「今日は、こちらに座っていただけませんか」

「昨日より近くありません?」

「ええ。昨日、もう少し近くてもよかったと思ったので」


 私は椅子に座る前に、一度、息を吸った。

 向かいの席は、もう用意されていなかった。


     *


 一月が終わる前に、父から手紙が来た。

 妹の婚礼が済んだこと。妹の嫁ぎ先のラセル伯爵家が北方との交易を望み、両親と共に訪れたいということ。


『閣下へ知らせておくように』


 私が結婚したかどうかは、尋ねていなかった。


 町へ行く馬車の中で、辺境伯に手紙のことを話した。


「商談でしたら、交易所へお申し込みいただけます」

「私からお願いすることに、なるのかもしれません」

「サフィナ嬢は、何を頼まれたのですか」


 手紙を思い出す。知らせておけ。それだけだった。


「詳しいことは、何も」

「それなら、ご用件を伺ってからですね」


 彼は、私に父の希望を言い当てろとは言わなかった。

 私は、帰ったら申込方法だけを父へ書き送ろうと決めた。


 町では、彼に服地の店へ案内された。

 私の荷物を見た侍女から、冬には足りないと聞いたそうだ。


「ご用意いただいても、よろしいのですか」

「そのために来ました。好きな色を選んでください」


 私は濃い緑の布に手を伸ばした。

 実家なら、目立つ色は私に似合わないと言われる。


「こちら、いかがでしょうか」


 辺境伯は、女主人の方を向かなかった。

 私と布を見比べる。


「私は、とても好きです」


 女主人が肩に布を当ててくれた。

 鏡越しに、彼が見ている。

 女主人が布を留め、髪を整えた。

 鏡の中にいる人の、目が明るかった。いつもの大きすぎる茶色の服と違い、首や肩の線が綺麗に見える。


「瞳の色が、よく映えますね」


 彼に言われ、私は初めて、自分の目をしっかり見た。

 緑に、少し金色が混じっていた。


「こんなに明るく見えるんですね」


 思わず口にすると、彼が近づいた。


「ええ。玄関でお会いしたときも、綺麗な色だと思いました」


 あの日は、四日も馬車に乗っていた。

 髪も乱れ、借りた肩掛けを握っていたはずだった。

 私は鏡越しに彼を見た。

 彼は布ではなく、私の顔を見ていた。


「この緑は、お気に召しましたか」

「私も、好きです」

「では、それにしましょう」


 採寸の間、彼は外で待っていた。

 店を出ると、温かい紙包みを渡される。

 中には、焼きたての木の実の菓子があった。


「食事まで、少しありますから」

「ご自分の分は?」

「一つ先に。待っている間、匂いがしたので」


 笑うと、彼が少し困った顔をした。

 私は包みを向け、もう一つご一緒にと誘った。

 道の端のベンチへ並んで座った。


 菓子を食べ終えても、すぐには立ち上がらなかった。


「閣下」

「はい」

「私との結婚を、今もお考えですか」


 隣で、紙包みを畳む手が止まった。


「ええ」


 彼は私へ体を向けた。


「ここへ来ていただいた日より、ずっと強く」


「ここに来る前は、家へ戻らなくて済むなら、それでいいと思っていました。あなたに失礼だったと思います」

「来てくださらなければ、私はあなたに会えませんでした」


 彼は微笑んでいた。


「今は、どうお思いですか」


「私には、何もありません」


 言ってから、指を組み直した。


「マルゴのように、人を楽しませることもできません。社交にも慣れていませんし、今日のお支度も、皆さんにしていただきました」


 辺境伯は、すぐには答えなかった。


「あなたは、私といるときも、楽しませなければと考えているのですか」


 頷きかけて、止まった。

 旅行記の話は、私がしたかった。今日も、この人と町へ行きたかった。


「初めは。でも、今は忘れているときがあります」

「私は、そのときのあなたが好きです。あの木の話をした日も、一緒に枝を見上げてくださったでしょう。私は、つまらない話をしたかと思っていた」


 彼は、膝に置いた手を開いた。


「砦から戻って、葉が出たと教えてもらったとき、嬉しかった。私が気にしていることを、あなたも気にしてくれていた」


 私は彼を見た。


「今日も、帰ったら何を話そうかと考えます。途中でおかしなことがあれば、あなたに聞いてほしい。何もなければ、何を読んでいたのか聞きたい」


 彼は私の目を見たまま言った。


「あなたといると、帰るのが楽しみになる。そんな人が隣にいてくれたらと、思っています」


 役に立てると約束しなくても、そばにいてよいのだろうか。

 この人を好きだという気持ちだけなら、私にもあった。


「私も、冬の服を選びながら、冬もここにいたいと思いました」


 声が震えた。


「夕食の席で、明日も隣に座れると思うと嬉しいです。砦へ行かれた日は、帰っていらっしゃるのを待ちました。私も、あなたとの結婚を望んでいます」


 言い終わると、彼が長く息を吐いた。


「ありがとうございます」


 それから、私の手へ視線を向けた。


「握っても、よろしいでしょうか」


 私は手を差し出した。

 馬車から降りた日に借りた手が、今度は両手で私を包む。


「サフィナ」


 初めて、名前だけで呼ばれた。


「はい」

「私のことも、名前で呼んでいただけますか」

「……ロラン様」


 彼は笑った。

 私の指を包む手に、少し力がこもった。


「帰ったら、家令に話しましょう。あの人にも、心配をかけましたから」

「心配、ですか」

「あなたに会いたくて仕事の予定を組み直していたら、気づかれたのです。正式に申し込まなくていいのかと」


 庭を歩いた日は、昼食も一緒だった。

 たまたま仕事が少ない日なのだと思っていた。

 私は繋いだ手を見下ろし、もう少し強く握った。


 帰りの馬車でも、彼は私の隣に座った。

 手は、屋敷へ着くまで離れなかった。


     *


 婚姻の届けを出したのは、それから十日後だった。

 父には、私の意思で結婚することを記した手紙を送った。

 返事は短かった。


『ようやく、家のためになることができたな』


 読み終えて、しばらく紙を持っていた。

 ロラン様には、父から了承が来たとだけ伝えた。


 式は屋敷の小さな礼拝堂で挙げた。

 初めてここへ来た日に迎えてくれた家令や侍女にも、見てほしかった。


 衣装は、新しく仕立てた。

 箱の中のものは別の縁談のために用意したと話すと、ロラン様は、何を着たいですかと尋ねた。

 答えるまで、三日かかった。仕立屋は、私が決めるまで布を裁たなかった。


 式の朝、新しい衣装に袖を通した。

 首元に小さな刺繍があり、柔らかな袖が手首に沿っていた。


 礼拝堂で待っていたロラン様は、私を見たまま動かなかった。

 家令に袖を引かれ、ようやく一歩出てくる。


「似合いますか」


 小さく尋ねた。


「綺麗です」


 低い声だった。


「昨日まで、楽しみにしていたのですが。今は、どう歩けばいいのか、また分からない」


 私は笑った。

 差し出された手を、今度は自分から握る。


「ゆっくり、お願いします」


 指輪を交わした後、彼は私を見た。

 私が頷くと、唇が触れた。

 一瞬のことで、目を閉じるのが遅れた。


 その晩、二人で居間にいたときに、私がそう話すと、彼はすぐ隣へ座り直した。


「では、もう一度」


 彼の手が、私の頬へ触れる。


「今度は、目を閉じてください」


 従うと、昼間より長く、温かいものが触れた。

 私は彼の上着を掴んだ。

 離れた後も、彼は近くにいた。


「もう一度、お願いしても?」


 私は、掴んだ上着を引いた。

 彼が笑う気配がした。


     *


 両親と妹夫婦が北へ来たのは、婚姻から一月後だった。

 ラセル伯爵も同行していた。交易所へは両家で面談を申し込み、私たちの屋敷には一晩だけ泊まる予定だった。


 母は、迎えに出た私の緑のドレスを見た。


「ずいぶん、揃えていただいたのね」

「私が、サフィナと一緒に選びました」


 ロラン様が答えた。

 妹は彼の顔を見てから、夫の腕へ手を掛けた。

 私はロラン様の腕に手を添え、屋敷へ入った。


 夕食の前、妹に廊下で呼び止められた。


「明日の商談、よろしくね。閣下に、北の倉庫を安く使わせていただきたいの」

「商談には、私は入らないわ」

「旦那様でしょう? 少しおねだりすれば済むことよ」


 私は首を振った。

 妹は、私が冗談を言ったような顔をした。


「お義父様には、私からお願いするとお話ししたの。困らせないでね」


 返事を待たず、妹は食堂へ行った。


 食卓では、ラセル伯爵が北の道について尋ねた。

 ロラン様が雪の時期を説明していると、料理が運ばれてきた。ここで好きになった包み焼きだった。


「熱いので、ゆっくり」


 彼が私へ顔を寄せる。

 母がそれを見て、笑った。


「手を掛けていただいているのね。家では、何でも自分でやりたがる子でしたのに」


 自分でやれと言われていたのだ。

 ナイフを置くと、妹が口を開いた。


「お姉様は、もともと丈夫ですもの。私なら、北の冬を越せるか分からないわ」


 そして、ロラン様へ笑いかける。


「お姉様には、こちらの縁談しか残っていなかったのです。王都の縁談を私に譲ってくださったようなものね」

「マルゴ。私たちの縁談は、別の話よ」


 妹が唇を結んだ。

 父は咳払いをした。


「閣下、扱いにくいでしょう。昔から、素直でない娘でして」


 私が答える前に、ロラン様が言った。


「私は、妻が自分の望みを話してくれるようになったことを、喜んでいます」


 父の笑みが消えた。


「夕食に出してほしいものも、行ってみたい場所も。結婚を望むという言葉も、彼女からいただきました。私は、その返事を待っていたのです」


 卓の下で、彼の手が私に触れた。

 私は握り返した。


 ラセル伯爵が、父へ顔を向けた。


「お嬢様との仲は、良好なのではなかったのですか」

「親子ですから、多少厳しいことも申しますが」

「北での仲介を、お嬢様が引き受けてくださると伺っていました」


 私は伯爵を見た。


「私は、お引き受けしておりません」


 伯爵の視線が、父から妹へ移った。

 バスティアン様も、妻を見る。


「マルゴ。手紙で確認したと言っていたね」

「お父様が、お話ししてくださると」

「だが、返事をもらったと言ったのは君だ」


 妹の目が、私へ向いた。

 父も続けた。


「サフィナ。知らせておくようにと、手紙に書いたはずだ」

「読みました。交易所への申込方法を、お返事しました」

「そのような形式的な話ではなく――」

「商談でしたら、明日、交易所の担当者がお話を伺います」


 ロラン様が父の言葉を止めた。


「親族であることを理由に、倉庫の審査や費用を変えることはありません」


 ラセル伯爵が眉を寄せた。


「費用は免除されると、伺っていたのですが」


 父が椅子の上で動いた。


「それは、閣下とご相談すれば」

「相談済みというご説明でした。私はその条件で、王都の倉庫を解約する手配をしています」


 父は、私を見た。

 母が身を寄せてくる。


「今からでも、あなたからお願いすればいいでしょう」


 嫁ぐとき、不足するものは向こうで揃えてもらえと言った人だった。

 今度は、自分たちの欲しいものまで取ってきてほしいと言う。


「お願いしません」


 母が目を見開いた。


「私は、ロラン様と暮らしたくて結婚しました。お父様の約束を守るためではありません」


 彼の手が、私の手を包み直した。

 ラセル伯爵が、父へ向き直る。


「合同の申込みは取り下げます。当家だけで、通常の条件による面談を受けたい」

「お待ちください。私どもも、一緒に」

「確認していないことを確定したとおっしゃる方に、今後の荷を任せることはできません」


 父は黙った。


「解約の取り消し費用についても、帰都後にお話しします。ご提示いただいた条件の手紙は、保管しています」


 母が父の袖を掴んだ。

 父は私を見たが、私は頷かなかった。


 妹が、掠れた声で呼ぶ。


「お姉様。私が困っても、平気なの?」

「私が困っていたとき、あなたは笑っていたわね」


 妹の頬が赤くなった。


「そんなつもりでは」

「ここでも、私にはこの縁談しか残っていなかったと、おっしゃったでしょう」


 妹は夫の袖へ手を伸ばした。

 バスティアン様は、その手を見てから妻を見た。


「君の言葉で、私は父に約束をしてしまった。今後は、先方の返事を私にも見せてくれ」


 妹は俯いた。

 伸ばしかけた手が、膝へ戻った。


 私は伯爵へ、今後も仲介はしないと伝えた。

 伯爵は頷き、これ以上、私に何も頼まなかった。


 私は包み焼きを食べた。

 少し冷めていた。隣でロラン様が、飲み物を寄せてくれた。


     *


 翌朝、両親と妹夫婦は出発した。

 ラセル伯爵は町に残り、交易所との面談へ行った。


 玄関で、父が私へ言った。


「お前のために、選んだ縁談だったのだぞ」


 私は二人を見た。


「出発の日は、今度こそ相手に恥をかかせるなとおっしゃいましたね。私が幸せかどうかは、一度もお尋ねになりませんでした」


 母が、ロラン様の方を見た。

 彼は私の隣で、話し終えるのを待っていた。


「こちらで幸せに暮らしています。これからは、私の名前で約束をしないでください」


 父は了承しなかったが、私に命じることもできなかった。


 馬車に乗る前、妹が私の緑の袖を見た。


「その色、私も好きだったのに」

「私も好きよ」


 妹は続きを言えず、夫が開けた扉から馬車へ乗った。


 門が閉じると、膝から力が抜けた。

 ロラン様が腰を支え、居間へ連れていってくれた。


「昨日のうちに、帰っていただいてもよかった」


 長椅子の隣へ座った彼が言った。


「あなたが、あのように言われていたとは」

「私も、もっと早く話せばよかったです。でも、また私の方が間違っていると言われたらと思って」


 彼が私の手を取った。


「話すのは、簡単ではなかったでしょう」


 私は彼へ寄りかかった。


「父が、あなたに失礼なことを言ったのが、一番嫌でした」

「私も、あなたに言われた言葉が、一番嫌でした」


 腕が背へ回る。

 顔を上げ、彼の頬へ触れた。傷の縁を避けず、そっと指を添える。


「痛くありませんか」

「ありません」


 彼の目が少し細くなった。

 私が近づくと、今度は彼から唇を重ねた。


     *


 父がラセル伯爵家から請求を受けたことは、冬の初めに届いた母の手紙で知った。

 王都の倉庫の解約を取り消す費用だった。

 父は払わずに済ませようとしたが、免除が確定したと書いた自分の手紙を示され、結局、支払ったという。


 父の家が請け負うはずだった荷の運送も、別の商会へ回った。

 予定していた仲介料は入らず、両親は来春の長期滞在に使うはずだった王都の貸家を解約した。


 母は、私からラセル伯爵へ話してほしいと書いていた。

 私は、取り次ぎはしないと返事をした。

 父が条件を偽って約束したことと、私の結婚は、別だった。


 妹からも、一通届いた。

 社交の招待を受けるにも、今は夫へ先に知らせなければならないという。

 以前は、自分が知っている人なら大丈夫だと、夫を連れていけたそうだ。


『お姉様が、少しくらい合わせてくだされば』


 その一文に、返す言葉を考えた。

 けれど、食堂で伝えたことを、もう一度説明しても同じだと思った。


 私は手紙を畳み、しまった。

 机の上には、開いた旅行記が残っていた。

 ロラン様が帰ったら、湖に浮かぶ町の話をしたかった。


 その夜、初めて雪が降った。

 夕食の前にロラン様が帰ってきて、外套を家令へ預けた。

 髪に小さな雪の粒が残っている。


「おかえりなさい」


 私が近づくと、彼は足を止めた。


「ただいま」


 見ているうちに、雪が溶けた。

 私はハンカチを取り出し、彼の髪に残った雫を押さえた。


「外は、寒かったですか」

「ええ。ですが、温かいところへ帰ってきました」


 彼の手が、私の腰へ添えられる。

 抱き寄せられてから、私は廊下にいることを思い出した。


「ロラン様。皆が見ています」

「見られて困ることは、していません」


 言い終わって、彼が私の額へ口づけた。

 家令が、外套を持って向こうを向いた。


「それは、少し困ります」

「では、後ほど」


 私は彼の袖を掴んだ。


「……なくしてとは、言っていません」


 彼は笑った。

 頬の傷も、一緒に動いた。


 食堂へ行くと、椅子は二つ並んでいた。

 彼が私の椅子を引き、その隣へ座る。


「明日は、雪が積もるかもしれません」

「庭を見に行っても、いいですか」

「ええ。私も一緒に」

「お仕事は?」

「朝のうちに済ませます。あなたと、初めての雪を見たいので」


 私は、卓の下で彼の手に触れた。

 すぐに握り返される。


 父の手紙では、私はようやく家のためになった娘だった。

 妹の手紙では、今も、都合を合わせてくれない姉だった。


 ここでは違う。


「ロラン様」

「はい」

「明日も、こちらに座りますね」


 彼は私の椅子を見て、それから私を見た。


「明後日も、その次も、お願いします」


 私は頷いた。

 窓の向こうでは、雪が降り続いていた。


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