妹には王都の伯爵令息、私には傷だらけの辺境伯――厄介払いのはずが、夫に溺愛されています
妹の花嫁衣装を仕立てるために、母は三人の職人を呼んだ。
私の衣装は、二年前の箱から出された。
「袖を替えれば着られるでしょう」
母が広げた白いドレスには、まだ私の体に合わせる前の仕付け糸が残っていた。
十六歳のとき、父の決めた縁談を断った。その相手との式に使うはずだったものだ。
「あちらへ嫁げば、流行など気にしなくて済むわ」
向かいでは、妹のマルゴが銀糸の刺繍を指でなぞっていた。
仕立屋が裾に真珠を縫いつける案を出すと、母は迷わず頷いた。
「お姉様も、よかったわね。今度は結婚できそうで」
私は、箱の底に落ちた針を拾った。
返事をすれば、また素直でないと言われる。
妹の相手は、王都に屋敷を持つラセル伯爵家の嫡男、バスティアン様だった。
舞踏会で二度踊っただけで、妹は彼の目の色も、乗っている馬の毛色も覚えていた。
私の相手について分かっているのは、北の国境を治めるヴェルネ辺境伯ということ。
二十五歳。未婚。
戦で負った傷が顔に残っていること。
「お気の毒よね。お顔に傷があるなんて」
妹は鏡の前で、首飾りを当て直した。
「でも、お姉様なら平気でしょう。怖い方にも、言い返せるもの」
私は拾った針を、針山へ戻した。
「まだ、お会いしていないわ」
「噂は聞いているでしょう?」
「だからこそ、会ってから考えるわ」
母が私のドレスを畳んだ。
「そういうところよ、サフィナ」
いつもの声だった。
妹が黙っていれば礼儀正しく、私が黙っていれば愛想がない。
妹が欲しがれば可愛らしく、私が希望を言えば面倒になる。
七歳の誕生日にもらった髪飾りを、私は一度もつけなかった。
六歳のマルゴが欲しいと泣くと、母は私の手から箱を取った。
「あなたはお姉さんでしょう。我慢できるわね」
妹の髪に私のリボンが結ばれ、私には菓子が一つ余分に渡された。
妹は小さい頃、よく熱を出した。
両親は付ききりになり、私には一人で寝るように言った。元気になっても、妹を泣かせてはいけなかった。
貸した人形を壊されると、貸した私が悪かった。
十歳のとき、妹が先に使った練習帳を渡された。
汚れた頁を避けて書くと、父は、なぜ初めから書かないのかと叱った。新品が欲しいと言えば、使えるものを粗末にするなと言われた。
妹の字は、上手になったと褒めた。私の字には、直すところだけを教えた。
妹が丈夫に育っても、扱いは変わらなかった。
甘えて抱きつく妹は可愛く、私は抱きつく時刻を探しているうちに大きくなった。
妹には明るい色が似合う。私には地味なものがちょうどよい。
妹の笑い声は楽しい。私が笑うと、声が大きいから控えなさい。
十八歳の今も、初めての人と話すときには、口元へ手を当ててしまう。
妹にはあって、私にはないものがあるのだろうと思っていた。
その私に、縁談が来た。
父は、お前でも欲しいと言う方がいる、と言った。
だから初めは、嬉しかった。
二年前、父が選んだ相手は、夕食の席で給仕の少年に酒をかけた。
少年が皿を落としたからだ。
その後、私の手首を掴み、妻になるのだから笑えと言った。
父に話すと、機嫌を損ねる方が悪いと叱られた。
母は、男の方にはそういうところがある、と言った。
縁談を断ったのは私だった。
父の名前を使わず、自分の名で手紙を書いた。
それまで年に一度だけ連れていかれた夜会にも、呼ばれなくなった。
母は、縁談の顔合わせ用に買ったドレスを何年も着られるよう、大きめに仕立て直させた。
妹には季節ごとに新しい服と靴が届いた。
「マルゴは家のことを考えてくれる」
父はそう言った。
断らなければ、父も一度くらい褒めてくれたのかもしれない。
けれど、あの人の手が私の手首へ近づくのを見ながら、何十年も暮らすことはできなかった。
妹には、親に可愛がられたまま結婚する道がある。
私は、ようやく見つかった相手まで、断ってしまった。
*
出発の日、父は私に封筒を渡した。
辺境伯への挨拶状だった。
「今度こそ、相手に恥をかかせるなよ」
私は受け取った封筒を鞄へ入れた。
妹の嫁入りは半月後だ。私が先に出れば、祝いの客に顔を合わせずに済む。
門の前には、辺境伯家の馬車が停まっていた。
迎えに来た老家令は、私を見るなり眉を動かした。
「お荷物は、こちらですべてですか」
旅鞄が一つと、ドレスの箱が一つ。
妹の荷物を運ぶために雇った荷馬車は、裏庭に三台並んでいた。
「はい。お願いします」
家令は何も尋ねず、私の鞄を自分で持った。
母は、向こうで不足があれば揃えていただきなさいと言った。
私は母の方を見たが、母は妹の髪についた糸くずを取っていた。
馬車に乗る前に、一度だけ振り返る。
父はもう屋敷へ戻ろうとしていた。
四日後、辺境伯の屋敷へ着いた。
石造りの壁は厚く、門には軍服の兵がいた。庭木は、王都より遅い若葉を開きかけていた。
玄関の階段を、一人の男の人が降りてくる。
背が高かった。外套を着ず、濃い灰色の上着の袖を少し捲っていた。
左のこめかみから頬にかけて、白く盛り上がった傷がある。
「サフィナ嬢。ロラン・ヴェルネです」
私が礼をすると、彼は片手を差し出した。
馬車から降りるための手だった。
「道中、ご不便はありませんでしたか」
「ありません。休憩も、十分に取っていただきました」
家令は日が傾く前に宿を取り、食事の間も私を急かさなかった。
手を借りて降りる。
辺境伯の手は大きく、甲にも細い傷が何本か残っていた。けれど、私を支える指は、痛いほど強く握らなかった。
「今日は休んでください。お話は明日でも」
「その前に、一つ伺ってもよろしいでしょうか」
今を逃せば、聞けなくなりそうだった。
「私に、何をお望みですか」
辺境伯は私を見た。
少し間が空き、隣の家令が荷物を持ち直した。
「まず、ここで暮らせるか確かめてほしい」
彼は屋敷の方へ顔を向けた。
「冬は長い。王都ほど店もありません。私も屋敷を空けることがある。結婚の前に、知っていただくべきことがあります」
「私は、結婚のために参りました」
「ええ。ただ、お会いするのは今日が初めてですから」
彼は私の手を離した。
「こちらからは、まず一月ほど滞在していただく案をお送りしたのですが」
知らなかった。
婚姻の届けは、着いたらすぐに出すものだと思っていた。
父は、辺境伯が急いでいると言った。
「……そのお話は、伺っておりません」
彼は私を問い詰めず、明日改めてお話ししましょうと言った。
客室には火の入った暖炉があった。
寝台の足元に湯たんぽが置かれ、卓には温かいスープとパンが並んでいる。
侍女が、翌朝は何時に起きるかと尋ねた。
「六時でお願いします」
「早いのですね。何かご予定がおありですか」
予定はなかった。
ただ、家ではその時刻に起きていた。遅れれば、食卓で嫌味を言われるからだ。
「……八時でも、よろしいでしょうか」
「もちろんです。朝食はこちらへお持ちしますね」
その夜は、寝台に入ってから足の先が冷たくならなかった。
*
翌日、辺境伯は父へ送った手紙の控えを見せてくれた。
一月の滞在。互いの意思を確認してからの婚姻。帰る希望があれば、護衛をつけて送ること。
父が口にしなかったことばかりだった。
「結婚を、お急ぎではないのですか」
「年内にできればと思っています。ですが、誰とでもよいわけではありません」
彼は、自分で私のカップへ茶を注いだ。
「私の家へ嫁ぎたいという方は、多くありません。理由は、ご覧のとおりです」
指先が、左頬の近くまで上がった。
彼は途中で手を下ろす。
「傷のことですか」
「それも。領地の場所や、私の仕事も」
「傷は、痛むのですか」
彼が顔を上げた。
「いえ。今は、ほとんど」
「では、よかったです」
傷について、他に何を言えばいいのか分からなかった。
怖くないかと聞かれたら、怖くないと答えられる。
けれど目の前の人は、私に戻る道まで用意していた。
「こちらで暮らしてみたいです。一月、置いていただけますか」
辺境伯は、持ち上げかけたカップを戻した。
「ええ。喜んで」
それから、屋敷を案内してくれた。
図書室で私の足が止まった。
窓際の棚に、旅行記が並んでいた。
実家では、買ってもらえなかった本だ。
「お好きですか」
「読んでみたかったんです。遠い土地の話を」
「部屋へ持っていって構いません」
私は二冊を選んだ。
一冊は彼もまだ読んでいないと聞いて、棚へ戻しかけた。
「先にお読みになってください」
「サフィナ嬢が先に読めば、私も早く読みたくなります」
彼が上の一冊を取った。
「部屋まで、ご一緒しても?」
私は頷いた。
廊下を歩きながら、彼は私の持っている本を指した。
「その著者は、宿の食事に厳しい人です」
「読まれたんですか」
「ええ。途中から、土地の話より何を食べるかが気になりました」
私はその晩、同じところで笑った。
翌朝の食卓で話すと、彼は分かっていただけましたかと言って、嬉しそうにパンを割った。
私が笑うと、彼も笑った。
慌てて口元へ手を上げる。
「失礼しました」
「何か、失礼なことがありましたか」
私は返事に困った。
大きな声を出したわけでも、食事中に口を開けたわけでもなかった。
「笑い方が、あまり綺麗ではないので」
彼は私の手から、顔へ視線を移した。
「私は、もう一度見たいと思いました」
手を下ろせなかった。
彼はそれを無理に動かさず、続けた。
「次に読まれた本の話も、伺いたいです」
私は頷いた。
彼とまた話せることが、楽しみだった。
*
六日目の午後、庭で辺境伯に会った。
彼は一本の木を見上げていた。周囲の木は葉を広げているのに、それだけ枝が黒かった。
「枯れているのですか」
「いえ。毎年、これだけ遅いのです」
彼は足元の草を靴先で避けた。
「戦から戻った年には、枯れたと思って切らせかけました。庭師が待ってくれと言うので、そのままにしたら、六月に葉が出た。それから毎年、少し気になります」
「では、まだ待つんですね」
「ええ。私が毎日見に来ても、早くはならないのですが」
彼は少し照れたように笑った。
私は、枝の先に目を凝らした。
十日目の朝、彼が言った。
「今日は川沿いの砦へ行きます。夕食には戻れそうにありません」
「承知しました」
「明日の午後、お茶をご一緒していただけますか」
私は彼を見た。
「お忙しければ、お気になさらず」
「私が、ご一緒したいのです」
彼は返事を待っていた。
私はカップを置き、はい、と答えた。
翌日、私がお茶の部屋へ行くと、彼は既に待っていた。
「おかえりなさい。あの木に、葉が出ていました」
挨拶の後、すぐに言ってしまった。
彼は立ち上がり、窓の外へ目を向けた。
「もう?」
「下の枝に一つだけ。私が先に見つけてしまいましたね」
彼は私を見た。
「覚えていてくださったのですか」
「気になると、おっしゃっていたので」
短い沈黙の後、彼は笑った。
いつもの小さな微笑みより、ずっと嬉しそうだった。
「お茶の後、案内していただけますか」
「はい」
卓には、蜜と木の実の菓子が並んでいた。
私が好きだと話したのは、前の朝食のときの一度だけだ。
「こちらこそ、覚えていてくださったんですね」
「ええ。昨日、砦から帰る途中も、今日はこれを出そうと思っていました」
彼は一つ取り、私の皿へ置いた。
「帰ってきてよかった。葉も見られるし、あなたにも会えた」
菓子を口へ運ぶまで、少し時間がかかった。
お茶の後は、庭を歩いた。
石畳の先で道が細くなり、私が裾を持ち上げると、彼が立ち止まった。
「この先は、足元が悪いので」
「腕をお借りしても、よろしいですか」
彼は一瞬、返事をしなかった。
私が手を戻しかけたところで、腕が差し出される。
「もちろん」
触れると、彼の腕が強張った。
嫌だったのだろうか。けれど、小さな葉を見つけた彼は、ありがとうと言った。
帰りも、私に差し出されたのは右腕だった。
食卓でも、彼はいつも私を右側に座らせる。こちらからは、傷がよく見えない。
翌日の午後、私は図書室で本を読んでいた。
彼が来て、隣の椅子へ座る。
やはり、私には右側の顔を向けていた。
「閣下」
「はい」
「私のことを、怖がっていらっしゃいますか」
彼は本を落としかけた。
「いえ。どうして」
「いつも、こちらへ顔を向けてくださらないので」
彼は黙った。
そして、閉じた本を膝に置いた。
「以前、小さな子を泣かせてしまったことがあって」
指先が、本の角を撫でた。
「大人でも、目を逸らす方はいます。あなたには、なるべく気にならないようにと」
私が嫌われていたわけではなかった。
胸の奥で、絡んでいたものがほどける。
私は立ち上がり、空いていた椅子を少し動かした。
彼の正面に座る。
「こちらの方が、お話ししやすいです」
彼は、ゆっくり私を見た。
左の頬の傷が見える。顎の近くにも、細い傷が一つあった。
目は、左右とも同じ色だった。
「驚きませんか」
「初めてお会いしたときは、少し。でも、もう何度もお会いしていますから」
怖くないと繰り返すより、本当のことを言いたかった。
「それより、腕をお借りしたのが嫌だったのかと、心配しました」
「違います」
すぐに返事があった。
「嬉しかったので。どう歩けばいいのか、一瞬、分からなくなった」
私の手が、膝の上で動いた。
彼は視線を落としてから、またこちらを見た。
「今度は、もう少しうまく歩きます」
私は笑った。
笑うと、彼もようやく笑った。
その日の夕食では、彼が自分の隣の椅子を引いた。
「今日は、こちらに座っていただけませんか」
「昨日より近くありません?」
「ええ。昨日、もう少し近くてもよかったと思ったので」
私は椅子に座る前に、一度、息を吸った。
向かいの席は、もう用意されていなかった。
*
一月が終わる前に、父から手紙が来た。
妹の婚礼が済んだこと。妹の嫁ぎ先のラセル伯爵家が北方との交易を望み、両親と共に訪れたいということ。
『閣下へ知らせておくように』
私が結婚したかどうかは、尋ねていなかった。
町へ行く馬車の中で、辺境伯に手紙のことを話した。
「商談でしたら、交易所へお申し込みいただけます」
「私からお願いすることに、なるのかもしれません」
「サフィナ嬢は、何を頼まれたのですか」
手紙を思い出す。知らせておけ。それだけだった。
「詳しいことは、何も」
「それなら、ご用件を伺ってからですね」
彼は、私に父の希望を言い当てろとは言わなかった。
私は、帰ったら申込方法だけを父へ書き送ろうと決めた。
町では、彼に服地の店へ案内された。
私の荷物を見た侍女から、冬には足りないと聞いたそうだ。
「ご用意いただいても、よろしいのですか」
「そのために来ました。好きな色を選んでください」
私は濃い緑の布に手を伸ばした。
実家なら、目立つ色は私に似合わないと言われる。
「こちら、いかがでしょうか」
辺境伯は、女主人の方を向かなかった。
私と布を見比べる。
「私は、とても好きです」
女主人が肩に布を当ててくれた。
鏡越しに、彼が見ている。
女主人が布を留め、髪を整えた。
鏡の中にいる人の、目が明るかった。いつもの大きすぎる茶色の服と違い、首や肩の線が綺麗に見える。
「瞳の色が、よく映えますね」
彼に言われ、私は初めて、自分の目をしっかり見た。
緑に、少し金色が混じっていた。
「こんなに明るく見えるんですね」
思わず口にすると、彼が近づいた。
「ええ。玄関でお会いしたときも、綺麗な色だと思いました」
あの日は、四日も馬車に乗っていた。
髪も乱れ、借りた肩掛けを握っていたはずだった。
私は鏡越しに彼を見た。
彼は布ではなく、私の顔を見ていた。
「この緑は、お気に召しましたか」
「私も、好きです」
「では、それにしましょう」
採寸の間、彼は外で待っていた。
店を出ると、温かい紙包みを渡される。
中には、焼きたての木の実の菓子があった。
「食事まで、少しありますから」
「ご自分の分は?」
「一つ先に。待っている間、匂いがしたので」
笑うと、彼が少し困った顔をした。
私は包みを向け、もう一つご一緒にと誘った。
道の端のベンチへ並んで座った。
菓子を食べ終えても、すぐには立ち上がらなかった。
「閣下」
「はい」
「私との結婚を、今もお考えですか」
隣で、紙包みを畳む手が止まった。
「ええ」
彼は私へ体を向けた。
「ここへ来ていただいた日より、ずっと強く」
「ここに来る前は、家へ戻らなくて済むなら、それでいいと思っていました。あなたに失礼だったと思います」
「来てくださらなければ、私はあなたに会えませんでした」
彼は微笑んでいた。
「今は、どうお思いですか」
「私には、何もありません」
言ってから、指を組み直した。
「マルゴのように、人を楽しませることもできません。社交にも慣れていませんし、今日のお支度も、皆さんにしていただきました」
辺境伯は、すぐには答えなかった。
「あなたは、私といるときも、楽しませなければと考えているのですか」
頷きかけて、止まった。
旅行記の話は、私がしたかった。今日も、この人と町へ行きたかった。
「初めは。でも、今は忘れているときがあります」
「私は、そのときのあなたが好きです。あの木の話をした日も、一緒に枝を見上げてくださったでしょう。私は、つまらない話をしたかと思っていた」
彼は、膝に置いた手を開いた。
「砦から戻って、葉が出たと教えてもらったとき、嬉しかった。私が気にしていることを、あなたも気にしてくれていた」
私は彼を見た。
「今日も、帰ったら何を話そうかと考えます。途中でおかしなことがあれば、あなたに聞いてほしい。何もなければ、何を読んでいたのか聞きたい」
彼は私の目を見たまま言った。
「あなたといると、帰るのが楽しみになる。そんな人が隣にいてくれたらと、思っています」
役に立てると約束しなくても、そばにいてよいのだろうか。
この人を好きだという気持ちだけなら、私にもあった。
「私も、冬の服を選びながら、冬もここにいたいと思いました」
声が震えた。
「夕食の席で、明日も隣に座れると思うと嬉しいです。砦へ行かれた日は、帰っていらっしゃるのを待ちました。私も、あなたとの結婚を望んでいます」
言い終わると、彼が長く息を吐いた。
「ありがとうございます」
それから、私の手へ視線を向けた。
「握っても、よろしいでしょうか」
私は手を差し出した。
馬車から降りた日に借りた手が、今度は両手で私を包む。
「サフィナ」
初めて、名前だけで呼ばれた。
「はい」
「私のことも、名前で呼んでいただけますか」
「……ロラン様」
彼は笑った。
私の指を包む手に、少し力がこもった。
「帰ったら、家令に話しましょう。あの人にも、心配をかけましたから」
「心配、ですか」
「あなたに会いたくて仕事の予定を組み直していたら、気づかれたのです。正式に申し込まなくていいのかと」
庭を歩いた日は、昼食も一緒だった。
たまたま仕事が少ない日なのだと思っていた。
私は繋いだ手を見下ろし、もう少し強く握った。
帰りの馬車でも、彼は私の隣に座った。
手は、屋敷へ着くまで離れなかった。
*
婚姻の届けを出したのは、それから十日後だった。
父には、私の意思で結婚することを記した手紙を送った。
返事は短かった。
『ようやく、家のためになることができたな』
読み終えて、しばらく紙を持っていた。
ロラン様には、父から了承が来たとだけ伝えた。
式は屋敷の小さな礼拝堂で挙げた。
初めてここへ来た日に迎えてくれた家令や侍女にも、見てほしかった。
衣装は、新しく仕立てた。
箱の中のものは別の縁談のために用意したと話すと、ロラン様は、何を着たいですかと尋ねた。
答えるまで、三日かかった。仕立屋は、私が決めるまで布を裁たなかった。
式の朝、新しい衣装に袖を通した。
首元に小さな刺繍があり、柔らかな袖が手首に沿っていた。
礼拝堂で待っていたロラン様は、私を見たまま動かなかった。
家令に袖を引かれ、ようやく一歩出てくる。
「似合いますか」
小さく尋ねた。
「綺麗です」
低い声だった。
「昨日まで、楽しみにしていたのですが。今は、どう歩けばいいのか、また分からない」
私は笑った。
差し出された手を、今度は自分から握る。
「ゆっくり、お願いします」
指輪を交わした後、彼は私を見た。
私が頷くと、唇が触れた。
一瞬のことで、目を閉じるのが遅れた。
その晩、二人で居間にいたときに、私がそう話すと、彼はすぐ隣へ座り直した。
「では、もう一度」
彼の手が、私の頬へ触れる。
「今度は、目を閉じてください」
従うと、昼間より長く、温かいものが触れた。
私は彼の上着を掴んだ。
離れた後も、彼は近くにいた。
「もう一度、お願いしても?」
私は、掴んだ上着を引いた。
彼が笑う気配がした。
*
両親と妹夫婦が北へ来たのは、婚姻から一月後だった。
ラセル伯爵も同行していた。交易所へは両家で面談を申し込み、私たちの屋敷には一晩だけ泊まる予定だった。
母は、迎えに出た私の緑のドレスを見た。
「ずいぶん、揃えていただいたのね」
「私が、サフィナと一緒に選びました」
ロラン様が答えた。
妹は彼の顔を見てから、夫の腕へ手を掛けた。
私はロラン様の腕に手を添え、屋敷へ入った。
夕食の前、妹に廊下で呼び止められた。
「明日の商談、よろしくね。閣下に、北の倉庫を安く使わせていただきたいの」
「商談には、私は入らないわ」
「旦那様でしょう? 少しおねだりすれば済むことよ」
私は首を振った。
妹は、私が冗談を言ったような顔をした。
「お義父様には、私からお願いするとお話ししたの。困らせないでね」
返事を待たず、妹は食堂へ行った。
食卓では、ラセル伯爵が北の道について尋ねた。
ロラン様が雪の時期を説明していると、料理が運ばれてきた。ここで好きになった包み焼きだった。
「熱いので、ゆっくり」
彼が私へ顔を寄せる。
母がそれを見て、笑った。
「手を掛けていただいているのね。家では、何でも自分でやりたがる子でしたのに」
自分でやれと言われていたのだ。
ナイフを置くと、妹が口を開いた。
「お姉様は、もともと丈夫ですもの。私なら、北の冬を越せるか分からないわ」
そして、ロラン様へ笑いかける。
「お姉様には、こちらの縁談しか残っていなかったのです。王都の縁談を私に譲ってくださったようなものね」
「マルゴ。私たちの縁談は、別の話よ」
妹が唇を結んだ。
父は咳払いをした。
「閣下、扱いにくいでしょう。昔から、素直でない娘でして」
私が答える前に、ロラン様が言った。
「私は、妻が自分の望みを話してくれるようになったことを、喜んでいます」
父の笑みが消えた。
「夕食に出してほしいものも、行ってみたい場所も。結婚を望むという言葉も、彼女からいただきました。私は、その返事を待っていたのです」
卓の下で、彼の手が私に触れた。
私は握り返した。
ラセル伯爵が、父へ顔を向けた。
「お嬢様との仲は、良好なのではなかったのですか」
「親子ですから、多少厳しいことも申しますが」
「北での仲介を、お嬢様が引き受けてくださると伺っていました」
私は伯爵を見た。
「私は、お引き受けしておりません」
伯爵の視線が、父から妹へ移った。
バスティアン様も、妻を見る。
「マルゴ。手紙で確認したと言っていたね」
「お父様が、お話ししてくださると」
「だが、返事をもらったと言ったのは君だ」
妹の目が、私へ向いた。
父も続けた。
「サフィナ。知らせておくようにと、手紙に書いたはずだ」
「読みました。交易所への申込方法を、お返事しました」
「そのような形式的な話ではなく――」
「商談でしたら、明日、交易所の担当者がお話を伺います」
ロラン様が父の言葉を止めた。
「親族であることを理由に、倉庫の審査や費用を変えることはありません」
ラセル伯爵が眉を寄せた。
「費用は免除されると、伺っていたのですが」
父が椅子の上で動いた。
「それは、閣下とご相談すれば」
「相談済みというご説明でした。私はその条件で、王都の倉庫を解約する手配をしています」
父は、私を見た。
母が身を寄せてくる。
「今からでも、あなたからお願いすればいいでしょう」
嫁ぐとき、不足するものは向こうで揃えてもらえと言った人だった。
今度は、自分たちの欲しいものまで取ってきてほしいと言う。
「お願いしません」
母が目を見開いた。
「私は、ロラン様と暮らしたくて結婚しました。お父様の約束を守るためではありません」
彼の手が、私の手を包み直した。
ラセル伯爵が、父へ向き直る。
「合同の申込みは取り下げます。当家だけで、通常の条件による面談を受けたい」
「お待ちください。私どもも、一緒に」
「確認していないことを確定したとおっしゃる方に、今後の荷を任せることはできません」
父は黙った。
「解約の取り消し費用についても、帰都後にお話しします。ご提示いただいた条件の手紙は、保管しています」
母が父の袖を掴んだ。
父は私を見たが、私は頷かなかった。
妹が、掠れた声で呼ぶ。
「お姉様。私が困っても、平気なの?」
「私が困っていたとき、あなたは笑っていたわね」
妹の頬が赤くなった。
「そんなつもりでは」
「ここでも、私にはこの縁談しか残っていなかったと、おっしゃったでしょう」
妹は夫の袖へ手を伸ばした。
バスティアン様は、その手を見てから妻を見た。
「君の言葉で、私は父に約束をしてしまった。今後は、先方の返事を私にも見せてくれ」
妹は俯いた。
伸ばしかけた手が、膝へ戻った。
私は伯爵へ、今後も仲介はしないと伝えた。
伯爵は頷き、これ以上、私に何も頼まなかった。
私は包み焼きを食べた。
少し冷めていた。隣でロラン様が、飲み物を寄せてくれた。
*
翌朝、両親と妹夫婦は出発した。
ラセル伯爵は町に残り、交易所との面談へ行った。
玄関で、父が私へ言った。
「お前のために、選んだ縁談だったのだぞ」
私は二人を見た。
「出発の日は、今度こそ相手に恥をかかせるなとおっしゃいましたね。私が幸せかどうかは、一度もお尋ねになりませんでした」
母が、ロラン様の方を見た。
彼は私の隣で、話し終えるのを待っていた。
「こちらで幸せに暮らしています。これからは、私の名前で約束をしないでください」
父は了承しなかったが、私に命じることもできなかった。
馬車に乗る前、妹が私の緑の袖を見た。
「その色、私も好きだったのに」
「私も好きよ」
妹は続きを言えず、夫が開けた扉から馬車へ乗った。
門が閉じると、膝から力が抜けた。
ロラン様が腰を支え、居間へ連れていってくれた。
「昨日のうちに、帰っていただいてもよかった」
長椅子の隣へ座った彼が言った。
「あなたが、あのように言われていたとは」
「私も、もっと早く話せばよかったです。でも、また私の方が間違っていると言われたらと思って」
彼が私の手を取った。
「話すのは、簡単ではなかったでしょう」
私は彼へ寄りかかった。
「父が、あなたに失礼なことを言ったのが、一番嫌でした」
「私も、あなたに言われた言葉が、一番嫌でした」
腕が背へ回る。
顔を上げ、彼の頬へ触れた。傷の縁を避けず、そっと指を添える。
「痛くありませんか」
「ありません」
彼の目が少し細くなった。
私が近づくと、今度は彼から唇を重ねた。
*
父がラセル伯爵家から請求を受けたことは、冬の初めに届いた母の手紙で知った。
王都の倉庫の解約を取り消す費用だった。
父は払わずに済ませようとしたが、免除が確定したと書いた自分の手紙を示され、結局、支払ったという。
父の家が請け負うはずだった荷の運送も、別の商会へ回った。
予定していた仲介料は入らず、両親は来春の長期滞在に使うはずだった王都の貸家を解約した。
母は、私からラセル伯爵へ話してほしいと書いていた。
私は、取り次ぎはしないと返事をした。
父が条件を偽って約束したことと、私の結婚は、別だった。
妹からも、一通届いた。
社交の招待を受けるにも、今は夫へ先に知らせなければならないという。
以前は、自分が知っている人なら大丈夫だと、夫を連れていけたそうだ。
『お姉様が、少しくらい合わせてくだされば』
その一文に、返す言葉を考えた。
けれど、食堂で伝えたことを、もう一度説明しても同じだと思った。
私は手紙を畳み、しまった。
机の上には、開いた旅行記が残っていた。
ロラン様が帰ったら、湖に浮かぶ町の話をしたかった。
その夜、初めて雪が降った。
夕食の前にロラン様が帰ってきて、外套を家令へ預けた。
髪に小さな雪の粒が残っている。
「おかえりなさい」
私が近づくと、彼は足を止めた。
「ただいま」
見ているうちに、雪が溶けた。
私はハンカチを取り出し、彼の髪に残った雫を押さえた。
「外は、寒かったですか」
「ええ。ですが、温かいところへ帰ってきました」
彼の手が、私の腰へ添えられる。
抱き寄せられてから、私は廊下にいることを思い出した。
「ロラン様。皆が見ています」
「見られて困ることは、していません」
言い終わって、彼が私の額へ口づけた。
家令が、外套を持って向こうを向いた。
「それは、少し困ります」
「では、後ほど」
私は彼の袖を掴んだ。
「……なくしてとは、言っていません」
彼は笑った。
頬の傷も、一緒に動いた。
食堂へ行くと、椅子は二つ並んでいた。
彼が私の椅子を引き、その隣へ座る。
「明日は、雪が積もるかもしれません」
「庭を見に行っても、いいですか」
「ええ。私も一緒に」
「お仕事は?」
「朝のうちに済ませます。あなたと、初めての雪を見たいので」
私は、卓の下で彼の手に触れた。
すぐに握り返される。
父の手紙では、私はようやく家のためになった娘だった。
妹の手紙では、今も、都合を合わせてくれない姉だった。
ここでは違う。
「ロラン様」
「はい」
「明日も、こちらに座りますね」
彼は私の椅子を見て、それから私を見た。
「明後日も、その次も、お願いします」
私は頷いた。
窓の向こうでは、雪が降り続いていた。




