呪われた公爵令嬢は、騎士に幸せにされ続ける
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第一章 正しい夜
王子殿下は、窓の外を見たまま口を開いた。
「明日の夜明けに処刑を執行する」
部屋には私たち二人しかいなかった。蝋燭が一本、机の上で揺れている。石造りの壁が、その光を暗く吸っていた。
「……承知しました」
「ルーナ」
名前を呼ばれたのは久しぶりだった。殿下はいつも私を「公爵令嬢」か「婚約者」と呼んだ。この一年、私たちの間にあったのはそれだけの距離だった。
「恨んでいるか」
「いいえ」
嘘ではなかった。占師の言葉は王都中に広まっていた。その令嬢と婚姻を結べば、王国は十年以内に滅ぶ。 根拠の問題ではない。数百万の命と、私一人。どちらを選ぶかは、問いですらない。
殿下がこちらを向いた。その顔をまともに見たのは、初めてかもしれなかった。疲れていた。目の下が暗く、唇が固く結ばれている。これが正しい判断を下した人間の顔だと思った。
「苦しませない。国のためだ。許せ」
「お国のために死ぬのなら本望ですわ。王国が存続するのなら喜んで死にましょう……」
殿下は何か言おうとして、やめた。私も言わなかった。言葉はもう、どこにもなかった。
扉が閉まった。蝋燭が揺れた。私は冷たい床に座って、夜が明けるのを待った。
これが正しい。だから怖くない。
前世の記憶が言う。死はただの終わりだと。終わりを恐れるのは、続きを望む者だけだと。
私は何も望まなかった。ずっとそうだった。
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第二章 名前のない理由
騎士が石牢に来たのは、鐘が三つ鳴った後だった。
王家直属討伐部隊の紋章。顔に見覚えがある。確か名をヴェルトという。寡黙で、任務に忠実だと聞いていた。処刑の執行を任されたのだろうと思った。
「立てますか」
「処刑は夜明けの予定では」
「立てますか」
繰り返しだった。答えではなかった。
私は立った。理由を聞こうとして、やめた。この男は答えないだろうと、なぜか分かった。
三日かけて山の中腹に辿り着いた。小屋は古かったが、壁に隙間はなかった。薪が積んであった。誰かが用意したのか、彼自身がしたのか、私には分からなかった。
「ここに居てください」
それだけ言って、翌朝から彼は森へ出かけた。
私は縁側に座って考えた。なぜ助けたのか。命令に背いた理由は何か。けれど問いを重ねるほど、答えは遠ざかった。やがて私は考えるのをやめた。
どうせまた同じことになる。
この幸運がいつか終わることを、私は最初から知っていた。だから深く受け取らないでいようと思った。名前をつけなければ、失うものにならない。そう決めていた。
夕方、彼が戻った。食事を作った。食べた。眠った。
それだけのことが、翌日も続いた。
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第三章 満ちていくもの
季節がひとつ変わる頃には、私たちは同じ卓で食事をするようになっていた。
ある朝、彼が林檎を持って帰ってきた。無言で差し出した。甘かった。彼はその様子を一瞬だけ見て、薪を割りに行った。
これを幸せと呼ぶのだろうか。もし呼ぶなら、ずいぶん久しぶりだった。
彼が初めて笑ったのは、私が前世の話をした夜だった。知らない言葉、知らない食べ物、馬より速い乗り物の話。彼はずっと黙って聞いていたが、最後に「馬より速いのですか」と言った。「ずっと」と答えたら、口の端が少しだけ上がった。
それだけのことが、ひどく苦しかった。
名前をつけないでいようと思っていたのに、もう遅いと気づいたのはその夜だった。
森の空気、彼の作る料理、夜空の星、静かに揺れる蝋燭。気づけば私は毎朝、目が覚めるたびに今日も続くと思っていた。続くことを、当たり前のように期待していた。
満ちている。満ちて、しまっている。
その感覚に、かすかな恐怖が混じり始めたのもその頃だった。理由は、まだ分からなかった。
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第四章 器のひび
最初の兆しは夢だった。
燃える王都。瓦礫の下の手。白い花が黒く染まっていく。目覚めても鼓動が収まらなかった。
次は小さなことだった。川で足を滑らせた。林檎の木が嵐で折れた。森の道標が、理由もなく消えていた。
単独ならただの不運だ。けれど私は知っていた。不運は連なるとき、意味を持つ。
昔、図書館の奥で読んだ文献がある。邪神の呪いの記述。婚約が決まる前のことで、そのときは深く考えなかった。
――幸福の器。満ちるほど、ひびが入る。溢れたとき、器は砕ける。
呪いの本質は不幸をもたらすことではない。幸福を最大化させてから、それと等しい絶望を与えることだ。
だから王都では何も起きなかった。私はあそこまで幸せではなかった。婚約は政略で、殿下は遠かった。器は半分も満たされていなかった。
ここへ来て、満ちた。
林檎の甘さ、笑った顔、名前を呼ばれる瞬間。そのひとつひとつが器に落ちて、音を立てていた。
満ちれば満ちるほど、来たるものは大きくなる。
翌朝、私はヴェルトに言った。
「話があります」
彼は薪を置いて、こちらを向いた。
「呪いの内容を、知っていますか」
「聞いています」
短い答えだった。やはりこの男は何でも知っている。
「では分かるはずです。私が幸せになるほど、その後に来るものは大きくなる。あなたを巻き込むことになる。だからもうこれ以上、あなたは私に——」
「それは、嫌です」
遮ったわけでもなく、怒ったわけでもなかった。ただ静かに、もうずっと前から決めていたことを確認するように言った。
「分かっていて——」
「分かっています」
「では——」
「分かっています……!」
三度目は違う意味だった。この話は終わりだと、彼は立ち上がって外へ出た。
私は泥の中に沈むような感覚がした。怒りではなかった。恐怖でもなかった。それよりずっと深いところにある何かが、ゆっくりと形を変えていた。
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第五章 それでも
翌日から、彼は変わらなかった。
いや、変わった。
黄色い野の花を摘んできた。無言で卓に置いた。夜、珍しく長く話した。故郷のこと、騎士になった理由、初めて剣を持った日のことを。私は黙って聞いた。
川縁で私が転びそうになったとき、彼の手が素早く腕を掴んだ。そのまま少しの間、離さなかった。
「……ヴェルト」
「はい」
「なぜ、そうするのですか」
彼はしばらく水面を見ていた。それから、私を見た。
「それしか、できないからです」
その言葉が器に落ちた音を、私は確かに聞いた。
「やめてください」と言った。
「もう十分です」と言った。
「私のそばにいると、あなたが——」
彼は翌朝も花を持って帰ってきた。今度は赤かった。私の好きな色だと、一度だけ話したことがある。それを覚えていた。
「やめてください」
「嫌です」
「なぜそんなに——」
「あなたが、笑っていたほうがいいからです」
そのとき、私はずっと泣いていたことに気が付いた。
泣きながら花を受け取った。泣きながら笑った。ひどいことだと思った。許されないと思った。それでも彼の名前を呼んだ。
「ヴェルト」
「はい」
「あなたは馬鹿です」
「そうかもしれません」
声が少しだけ違った。私にはもう分かった。
その夜、彼が隣に座った。言葉はなかった。ただそこにいた。星が出ていた。風が冷たかった。彼の肩が温かかった。
これが最大かもしれない、と思った。
これ以上は、ない。
器が、縁まで来ている。
怖くはなかった。もう怖くはなかった。ただ、この夜が終わらなければいいと思った。終わりが来ることを知りながら、終わらなければいいと願えること自体が、もう十分すぎる幸福だった。
「ヴェルト」
「はい」
「ありがとう」
彼は何も言わなかった。でも手が、私の手に重なった。
夜が深くなった。
遠くで、風が変わった。
器が、鳴いた。
私はヴェルトの手を握ったまま、目を閉じた。




