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呪われた公爵令嬢は、騎士に幸せにされ続ける

作者: 犬飼
掲載日:2026/04/09

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 第一章 正しい夜


 王子殿下は、窓の外を見たまま口を開いた。


「明日の夜明けに処刑を執行する」


 部屋には私たち二人しかいなかった。蝋燭が一本、机の上で揺れている。石造りの壁が、その光を暗く吸っていた。


「……承知しました」


「ルーナ」


 名前を呼ばれたのは久しぶりだった。殿下はいつも私を「公爵令嬢」か「婚約者」と呼んだ。この一年、私たちの間にあったのはそれだけの距離だった。


「恨んでいるか」


「いいえ」


 嘘ではなかった。占師の言葉は王都中に広まっていた。その令嬢と婚姻を結べば、王国は十年以内に滅ぶ。 根拠の問題ではない。数百万の命と、私一人。どちらを選ぶかは、問いですらない。


 殿下がこちらを向いた。その顔をまともに見たのは、初めてかもしれなかった。疲れていた。目の下が暗く、唇が固く結ばれている。これが正しい判断を下した人間の顔だと思った。


「苦しませない。国のためだ。許せ」


「お国のために死ぬのなら本望ですわ。王国が存続するのなら喜んで死にましょう……」


 殿下は何か言おうとして、やめた。私も言わなかった。言葉はもう、どこにもなかった。


 扉が閉まった。蝋燭が揺れた。私は冷たい床に座って、夜が明けるのを待った。


 これが正しい。だから怖くない。


 前世の記憶が言う。死はただの終わりだと。終わりを恐れるのは、続きを望む者だけだと。


 私は何も望まなかった。ずっとそうだった。



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 第二章 名前のない理由


 騎士が石牢に来たのは、鐘が三つ鳴った後だった。


 王家直属討伐部隊の紋章。顔に見覚えがある。確か名をヴェルトという。寡黙で、任務に忠実だと聞いていた。処刑の執行を任されたのだろうと思った。


「立てますか」


「処刑は夜明けの予定では」


「立てますか」


 繰り返しだった。答えではなかった。


 私は立った。理由を聞こうとして、やめた。この男は答えないだろうと、なぜか分かった。


 三日かけて山の中腹に辿り着いた。小屋は古かったが、壁に隙間はなかった。薪が積んであった。誰かが用意したのか、彼自身がしたのか、私には分からなかった。


「ここに居てください」


 それだけ言って、翌朝から彼は森へ出かけた。


 私は縁側に座って考えた。なぜ助けたのか。命令に背いた理由は何か。けれど問いを重ねるほど、答えは遠ざかった。やがて私は考えるのをやめた。


 どうせまた同じことになる。


 この幸運がいつか終わることを、私は最初から知っていた。だから深く受け取らないでいようと思った。名前をつけなければ、失うものにならない。そう決めていた。


 夕方、彼が戻った。食事を作った。食べた。眠った。


 それだけのことが、翌日も続いた。



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 第三章 満ちていくもの


 季節がひとつ変わる頃には、私たちは同じ卓で食事をするようになっていた。


 ある朝、彼が林檎を持って帰ってきた。無言で差し出した。甘かった。彼はその様子を一瞬だけ見て、薪を割りに行った。


 これを幸せと呼ぶのだろうか。もし呼ぶなら、ずいぶん久しぶりだった。


 彼が初めて笑ったのは、私が前世の話をした夜だった。知らない言葉、知らない食べ物、馬より速い乗り物の話。彼はずっと黙って聞いていたが、最後に「馬より速いのですか」と言った。「ずっと」と答えたら、口の端が少しだけ上がった。


 それだけのことが、ひどく苦しかった。


 名前をつけないでいようと思っていたのに、もう遅いと気づいたのはその夜だった。


 森の空気、彼の作る料理、夜空の星、静かに揺れる蝋燭。気づけば私は毎朝、目が覚めるたびに今日も続くと思っていた。続くことを、当たり前のように期待していた。


 満ちている。満ちて、しまっている。


 その感覚に、かすかな恐怖が混じり始めたのもその頃だった。理由は、まだ分からなかった。



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 第四章 器のひび


 最初の兆しは夢だった。


 燃える王都。瓦礫の下の手。白い花が黒く染まっていく。目覚めても鼓動が収まらなかった。


 次は小さなことだった。川で足を滑らせた。林檎の木が嵐で折れた。森の道標が、理由もなく消えていた。


 単独ならただの不運だ。けれど私は知っていた。不運は連なるとき、意味を持つ。


 昔、図書館の奥で読んだ文献がある。邪神の呪いの記述。婚約が決まる前のことで、そのときは深く考えなかった。


 ――幸福の器。満ちるほど、ひびが入る。溢れたとき、器は砕ける。


 呪いの本質は不幸をもたらすことではない。幸福を最大化させてから、それと等しい絶望を与えることだ。


 だから王都では何も起きなかった。私はあそこまで幸せではなかった。婚約は政略で、殿下は遠かった。器は半分も満たされていなかった。


 ここへ来て、満ちた。


 林檎の甘さ、笑った顔、名前を呼ばれる瞬間。そのひとつひとつが器に落ちて、音を立てていた。


 満ちれば満ちるほど、来たるものは大きくなる。


 翌朝、私はヴェルトに言った。


「話があります」


 彼は薪を置いて、こちらを向いた。


「呪いの内容を、知っていますか」


「聞いています」


 短い答えだった。やはりこの男は何でも知っている。


「では分かるはずです。私が幸せになるほど、その後に来るものは大きくなる。あなたを巻き込むことになる。だからもうこれ以上、あなたは私に——」


「それは、嫌です」


 遮ったわけでもなく、怒ったわけでもなかった。ただ静かに、もうずっと前から決めていたことを確認するように言った。


「分かっていて——」


「分かっています」


「では——」


「分かっています……!」


 三度目は違う意味だった。この話は終わりだと、彼は立ち上がって外へ出た。


 私は泥の中に沈むような感覚がした。怒りではなかった。恐怖でもなかった。それよりずっと深いところにある何かが、ゆっくりと形を変えていた。



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 第五章 それでも


 翌日から、彼は変わらなかった。


 いや、変わった。


 黄色い野の花を摘んできた。無言で卓に置いた。夜、珍しく長く話した。故郷のこと、騎士になった理由、初めて剣を持った日のことを。私は黙って聞いた。


 川縁で私が転びそうになったとき、彼の手が素早く腕を掴んだ。そのまま少しの間、離さなかった。


「……ヴェルト」


「はい」


「なぜ、そうするのですか」


 彼はしばらく水面を見ていた。それから、私を見た。


「それしか、できないからです」


 その言葉が器に落ちた音を、私は確かに聞いた。


「やめてください」と言った。


「もう十分です」と言った。


「私のそばにいると、あなたが——」


 彼は翌朝も花を持って帰ってきた。今度は赤かった。私の好きな色だと、一度だけ話したことがある。それを覚えていた。


「やめてください」


「嫌です」


「なぜそんなに——」


「あなたが、笑っていたほうがいいからです」


 そのとき、私はずっと泣いていたことに気が付いた。

 泣きながら花を受け取った。泣きながら笑った。ひどいことだと思った。許されないと思った。それでも彼の名前を呼んだ。


「ヴェルト」


「はい」


「あなたは馬鹿です」


「そうかもしれません」


 声が少しだけ違った。私にはもう分かった。

 

その夜、彼が隣に座った。言葉はなかった。ただそこにいた。星が出ていた。風が冷たかった。彼の肩が温かかった。


 これが最大かもしれない、と思った。


 これ以上は、ない。


 器が、縁まで来ている。


 怖くはなかった。もう怖くはなかった。ただ、この夜が終わらなければいいと思った。終わりが来ることを知りながら、終わらなければいいと願えること自体が、もう十分すぎる幸福だった。


「ヴェルト」


「はい」


「ありがとう」


 彼は何も言わなかった。でも手が、私の手に重なった。


 夜が深くなった。


 遠くで、風が変わった。


 器が、鳴いた。


 私はヴェルトの手を握ったまま、目を閉じた。

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