祠の裏側
藤尾由美子が再び森に足を踏み入れた時、日はすでに傾き始めていた。曇った空の下、木々の影が長く地面に伸びている。手に持ったノートにも書いた「藤尾家の土地」というメモが頭から離れない。優太のキーホルダーを美津子に渡した時の、彼女の震える手が思い出された。警察がそれで何か分かるかもしれない。だが、由美子には祠の記録が気になって仕方なかった。あの場所に答えがある気がして、足が自然と森へ向かっていた。
夕方の森の中はやはり静かだった。風が葉を揺らす音だけが響き、鳥の気配はない。由美子は祠への獣道を進んだ。昼間に見た石と崩れた屋根が、夕暮れの薄暗さの中でさらに不気味に見えた。木々の間から差し込む光が、祠の苔むした表面に淡い影を落としている。彼女は祠の前に立ち、目を凝らした。石の表面に刻まれた文字は、苔に埋もれて読めないままだった。風が吹き抜け、コートの襟を冷たく撫でた。由美子は首をすくめ、ノートを手に持ったまま深呼吸した。
子供の頃、母に「祠には近づくな」と言われた記憶が蘇る。理由は聞かなかった。ただ、母の声が妙に真剣だったことだけが、50年経った今でも耳に残っている。由美子は目を閉じ、その声を頭から追い出そうとした。だが、優太と翔太の顔が浮かぶ。あの二人を救うには、過去を知るしかないのではないか。由美子は目を開け、祠の裏に回った。
昼間に気づいた掘り返された土が、まだそこにある。由美子はしゃがみ、指先で土を触った。湿っていて、黒い泥が手に付く。誰かがここを掘ったのか。それとも、自然に崩れただけか。由美子は土をかき分け、何か手がかりがないか探した。指が何かに触れた。硬くて、小さいものだ。彼女はそれを引き抜いた。
古い布切れだった。汚れて茶色に変色しているが、端に細かい刺繍が残っている。由美子は目を細めてそれを見つめた。子供の服の一部だろうか。それとも、もっと古いものか。布の感触はざらつき、指先に土の湿り気が混じる。彼女は布切れをノートに挟み、立ち上がった。祠の周りをもう一度見回す。土の跡は、祠の裏側に集中していた。誰かがここで何かしたのだ。地面に残るかすかな足跡のような凹みが、夕陽に照らされて薄く浮かんでいた。
遠くで、木々が揺れる音がした。由美子は振り返った。森の奥から、かすかに人の気配がする。足音か、それとも風か。彼女は息を潜め、木の陰に身を寄せた。祠の近くに誰かが来るなら、見られずに様子を知りたい。気配が近づく。低い男の声が聞こえてきた。
「ここを早く片付けろ。町長が急いでる」
もう一つの声が応じる。
「分かってるよ。でも、こんな時に子供が消えて、まずくないか?」
由美子は静かに耳を傾けた。男たちは祠から少し離れた木の陰にいるようだ。声は聞き取れるが、姿は見えない。彼女はノートを握り、耳を澄ませた。木の枝が揺れる音に混じって、男たちの靴が土を踏むかすかな音が届く。
「関係ないさ。祠なんか、ただの迷信だ。土地さえ手に入ればいい」
「でも、藤尾の婆さんが反対してるって話だぞ」
由美子は息を止めた。藤尾の婆さん。町に藤尾姓は、自分と亡くなった両親以外ほとんどいない。母方の親戚に数人いたが、みな町を出て、今は連絡すら取っていない。由美子は50年近くこの町に住み、図書館で町史を読み漁ってきた。藤尾姓は珍しく、町の記録でも自分の家系しか出てこない。それなのに、「藤尾の婆さん」とは誰だ。過去の誰か、記録に埋もれた存在だろうか。彼女の胸がざわついた。
男たちの声が遠ざかり、足音が消えた。由美子は木の陰から出て、祠を見た。開発業者の会話だ。町長が絡んでいるなら、土地の過去を隠したい理由があるのかもしれない。彼女はノートを開き、「業者」「町長」と書き加えた。指先がまだ泥で汚れているのに気づき、コートの裾で軽く拭った。
由美子は祠の裏の土を見下ろした。布切れと掘られた跡。優太と山本さんとこの翔太君が消えた理由が、ここに埋まっている気がした。頭の中で、商店街の噂と祠の記録が絡み合う。藤尾家の土地が何を意味するのか、確かめなければ。町に戻って、もっと調べる必要がある。だが、その前に、もう少し祠の周りを見ておきたかった。彼女は祠の横に回り、石の隙間を覗いた。そこから冷たい風が吹き抜け、頬に当たる。由美子は目を細め、何か見えないかと目を凝らしたが、暗くて何も分からない。
祠の石が、夕陽に赤黒く染まっていた。由美子は背筋が寒くなり、慌てて森を出た。町の灯りが遠くに見える。どこかに答えがあるはずだ。由美子はノートを手に持ったまま、足早に町へ向かった。