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祠の影  作者: 西川 笑里
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図書館の午後

 藤尾ふじお町の図書館は、いつも静かだった。窓から差し込む秋の陽が、古い木の床に細長い影を落としている。藤尾由美子ふじおゆみこはカウンターで本の背表紙を拭きながら、遠くで鳴るカラスの声を聞いていた。50年近く生きてきて、この音に慣れない日はなかった。町の外れにある森から響いてくるその声は、どこか寂しげで、でも妙に耳に残る。彼女の手が本の埃を払うたび、小さな粒子が光の中で舞った。


 図書館は藤尾町の中心にありながら、訪れる人は少ない。過疎が進むこの町では、子供たちが学校帰りに寄るか、年寄りが新聞を読みに来るくらいだ。由美子はそれでいいと思っていた。本に囲まれていれば、孤独も悪くない。両親を早くに亡くし、兄弟もいない彼女にとって、この古びた建物は家と同じだった。いや、家以上に自分の居場所だと感じていた。


 入り口の戸が軋む音がした。見ると、近所の主婦、佐藤美津子さとうみつこが入ってくる。彼女の手には買い物袋がぶら下がり、少し肩が落ちているように見えた。白い息が吐き出され、秋も終わりが近いことを知らせていた。


「由美子さん、また本の整理?」


 美津子の声は明るいが、どこか疲れている。由美子は手を止めて笑顔を返した。


「子供たちが来る前に、ね。昨日は賑やかだったよ」


「そうね、うちの優太も楽しそうに絵本読んでたわ。あの子、本が好きで助かる」


 美津子が目を細める。由美子は、優太ゆうたの丸い顔と、読み聞かせで目を輝かせる姿を思い出した。小学校三年生の優太は、図書館に通う子供たちの中でも特に本好きだ。昨日も『オオカミと七匹の子ヤギ』を手に持って、「おばちゃん、これ面白いね」と笑っていた。


「昨日は図書館のあと、まっすぐ帰ったの?」


 優太は閉館前には図書館を出て行った。


「まさか。友達と遊んでたみたい。祠の近くで、って言うから叱ったんだけど」


「祠?」


 由美子の声に、少しだけ鋭さが混じる。祠は町外れの森にひっそり佇む古いものだ。苔むした石と朽ちかけた木の屋根が、子供の頃の記憶に残っている。母に「近づくな」と言われたことも、なぜか鮮明に覚えていた。あそこは誰も行かない場所のはずだ。


「そうよ。あそこ、気持ち悪いから行くなって言ってるのに……でも、最近ちょっと変なのよ」


 美津子が目を伏せる。由美子は胸の奥で何かが引っかかった。優太の笑顔と、「祠の近く」という言葉が頭の中で重なる。彼女はカウンターの端に置いた布を手に取り、無意識に握り潰していた。


「変って、どういうこと?」


「なんか、ぼーっとしてる時があるの。昨日も帰ってきたら、ぼんやりしてて……『神様が呼んでた』なんて言うから、気持ち悪くて」


 美津子の声が小さくなる。由美子は眉を寄せた。子供の空想だろうか。でも、優太はそんなことを言う子じゃない。いつもはっきりした口調で、本の感想を話してくれる子だ。


「祠の神様が?」


「うん。冗談かと思ったけど、目が変だったの。真剣っていうか……こっちを見てないみたいで」


 美津子が買い物袋を握り直す。由美子は言葉を探したが、何も出てこなかった。ただ、窓の外を見ると、森の輪郭が夕陽に溶けていくのが見えた。カラスの声が、また一鳴き響いた。


「気をつけた方がいいよ。子供って、変なこと拾ってくるから」


 由美子が言うと、美津子は小さく頷いて笑った。


「そうね。ありがとう、由美子さん。じゃあ、またね」


 美津子が戸を開けて出て行く。図書館は再び静寂に包まれた。由美子はカウンターに目を落とし、拭きかけの本を手に取った。だが、指先が止まる。優太の「神様が呼んでた」という言葉が、頭の中で反響していた。冗談にしては妙に引っかかる。祠のことを、もっと知っておくべきだっただろうか。


 外で風が木々を揺らす音がした。由美子は窓を見上げた。森の奥に、祠がある。あの場所が、なぜか今、遠く感じられなかった。

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