廊下
行きつけの銭湯の、廊下の突き当りに、そのポスターは貼られていた。この町に演歌歌手がやってくる。
廊下を幾度となく行ったり来たりする。行きは突き当りを左に曲がり、帰りは右に曲がり、その度に大写しにされた演歌歌手の肖像を目にすることになる。
彼女、その演歌歌手の目の形は左右で違っている。厚ぼったい唇。天真爛漫な片えくぼ。面相と合ってないピンクの和服。彼女の特徴をだいぶ把握するに至った。彼女は隣町の出身であり、母校の先輩なのだった。
母校の、正面玄関の突き当りには大きな古い姿見があった。創立当初の校長が、身だしなみを整えるように、と設置したものと伝えられていた。姿見の前を通る度、何となく覗き込んだものだ。ネクタイを直したり。ダダダダ!姿見の前を、体力を持て余した生徒が駆けていく。彼らが羨ましかった。灰色の校舎の、廊下の窓から、建物に囲まれた中庭が見える。何もかもが灰色の刑務所みたいだった。勉強も運動も不出来、人付き合いも苦手となれば、そう思うのも無理はない。あくまで自分自身の問題であるが。
演歌歌手の先輩も姿見を覗き込んだはずである。芸能人になるような人だ、きっと有意義な学校生活を送っていたに違いない。勝手にそう決めつけた。
朝起きて、支度して、ドアを開ける。目の前はアパートの廊下。右手には階段があり、左手に西の空が広がっている。運よく残業が無くて、晴れた夕べであれば、見事な夕焼けを目に出来る。白のペンキが塗られた薄汚い廊下がピンク色に染まる。なんと素敵な眺めだろう。
夏の間はクモの巣と、虫たちの死骸と、カエルだらけのジャングルになる。ある夜。やっと残業から解放され、アパートの階段を上がると、蛍光灯にブンブンと大きな虫がやって来た。オスのカブトムシ。去年の今頃、同じ蛍光灯にメスのカブトムシがやって来たのを思い出した。「惜しかったな」思わず声が出た。カブトムシ君は来るのが一年遅かったのだ。次の朝、カブトムシ君は我が部屋の前でひっくり返って死んでいた。この廊下に、虫の墓標がまた一つ。
遅番は独りで残って戸締りをする。暗い廊下からゴーゴーという音がする。男子トイレの換気扇は大抵はスイッチが切られており、女子トイレの換気扇はいつも回ったままだ。女子トイレのドアを開ける。ゴー!という音が、男子である我が身への非難のようではないか。非難したいのはこっちだ。ちゃんとスイッチを切ってくれないか。
更衣室で着替え、順に蛍光灯のスイッチを切っていく。小さな小窓から月明りが差し込んできた。刑務所の廊下の、鉄格子をはめられた小窓からも月明りは入ってくるはずだ。階段を降りる前に階段の蛍光灯を切ってしまった。足元にぽっかり広がる暗黒空間。危ない。残業残業、遅番遅番、灰色だ。生徒時分と何も変わらない・・・
裁判所の廊下はやけに明るい。外の光がたっぷり入ってくる。そこへ集まる人々の心中とは裏腹に。
調停室に呼び出される前に、紛争当事者が待機する場所がある。やたらにオドオドした者や、弁護士と何か話し合っている者、毅然とした表情で前を見据えている者。実に様々な表情が見られる。トイレに行こうと廊下へ出た。何もかもが清潔で整然として、無味乾燥である。
裁判所の、玄関から入り、エレベーターに乗って、調停室に入るまで。経路は決まっている。招集時間も綿密に決定されているに違いない。当事者同士が鉢合わせしないためのシステム。よく出来ているじゃないか。万が一鉢合わせしたとしても問題無かったろう。調停室に現れたのは妻ではなく、弁護士だったからだ。実に鮮やかだ、離婚調停というものは。
・・・再びスイッチを入れると、目の前に階段が現れた。慎重に一歩ずつ階段を下りる。ポケットをまさぐる。車のキーがない。事務室に置いてきてしまった。スマートフォンの明かりを頼りに事務室に侵入する。懐中電灯のような明かりが暗がりを照らす。ガラス戸にそんな姿が映った。まるで泥棒!監視カメラにも記録されたに違いない。盗まれたのは私の車のキー。私が私の車のキーを盗む。つまり私は泥棒ではない。受刑者でもない。
廊下にはもう、女子トイレの換気扇の音はしていない。社屋のカギをかける前にセキュリティをかける。ピッ!ピッピッピッ、余韻に浸るヒマも無く、ここから出なくてはならない。モタモタしているとアラームが鳴ってしまう。外へ出て重い扉を閉める。これで終わり。「鍵をかける」という実感はないが、ともかくこれでいい。
自由だ!私はやっと残業から解放されたのだ。12時間後。出勤し、再び同じドアを開けた。廊下は午前の光に満ちていた。事務室からは活気のある声が聞こえ、女子トイレはゴーゴーいっている。
着物でトイレに行くのは大変だろうな、ふと、片えくぼの演歌歌手の先輩が思い出された。次の休みはやはり銭湯へ行こう。廊下の突き当りで、ポスターの彼女が待っていてくれるはず。




