パスワードは《》
「ごめんね、悠真」
千穂は、お隣の玄関先で改めて謝った。つい先ほど、パソコンの調子が悪くなったのだ。今週は大学のレポートが立て込んでいる。そういう時に急にフリーズするとか、本当にやめて欲しい。
「何度も謝らなくていいよ。千穂ちゃんのお願いなら、いつでも大歓迎だから」
千穂を招き入れつつ、悠真は人懐っこい顔で笑う。
「先に僕の部屋へ行ってて。飲み物持ってくから」
「おかまいなく」
「千穂ちゃん、焦って来たでしょ。水分摂らないと、冬でも脱水症になるよ」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
「かしこまりました〜」
悠真は軽やかにキッチンへと入っていった。
2階へ上がった千穂は、勝手知ったる様子で悠真の部屋に入った。ローテーブルに教科書とノートを広げ、レポートの概要をまとめていく。
整然とした空間のおかげだろう。焦っているはずなのに思考はクリアになり、行き詰まっていた箇所も難なく解決した。千穂の部屋も無駄な物は置いていないが、ここまでではない。
「あれっ?」
悠真が不思議そうな声を上げた。トレーを片手に持っている。
千穂は、ずいぶんと集中していたらしい。悠真が来たことに気づかなかった。
「パソコン、使ってて良かったのに」
「それは悪いよ。持ち主がいないのに」
「千穂ちゃんならオッケーだよ。パスワードは《5年目の金魚》ね」
「……は?」
千穂はシャーペンを持ったまま固まった。聞き違い──
「立ち上げるね。……《5年目の金魚》」
ではなかった。悠真が軽やかにキーボードをタイピングすると、デスクトップに写真が現れた。そこにはたしかに──金魚がいた。
泳いでいる瞬間を留めたような、真っ赤な金魚。それはかんざしで、浴衣を着て笑っている千穂の黒髪によく映えていた。
画面いっぱいの写真を見つめたまま絶句する千穂に、悠真はふわりと笑う。
「本当はね、『出逢ってから5年目の8月13日、金魚を髪につけた大好きな子』にしたかったんだ。そしたら、『そのような長いパスワードは受けつけできません』ってAIに断られちゃった」
残念、と肩をすくめる悠真。
千穂は、ふるふると震えたかと思うと、
「……バッカじゃないのっっっ!?」
渾身の力をこめて、声を張り上げた。
千穂は自分でも、照れ隠しだとわかっていた。たぶんそれは、悠真にも伝わっていただろう。やさしい眼差しが変わらなかったから──
どうやら、レポートの続きは頬の熱が治まるまで待たなければならないらしい。
使用キーワード『5年』『金魚』『パスワード』
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