7.神崎真希(その2)
神崎真希は、龍香のように親に恵まれなかったわけでも龍二のように期待に沿えず道から外れていったわけでもない。
しかし、極めて貧しい生まれであった。
「神崎さん、また集金を滞納してるみたいだけど。」
「先生ごめんなさい、お金がないんです。」
そう言う少女の言葉に嘘はない。明日を生きるための一文にすら苦しみ、生活保護も受けられない父と共に暮らしていた。母はとうの昔に亡くなっていた。そこまで普通に過ごしていれば重篤にはならない病であったが、あまりの貧しさに治療を受けさせることもできずに病状が悪化し亡くなった。
「お父さん、いくら何でも学校の集金にすらお金を出せないというのは…」
「先生、わかってください。家には本当にお金がないんです。世の中には明日の一銭にすら苦しむ家庭があるんです。わかってください…」
家が貧しいことは学年が低いうちは気にならなかった。しかし、学年が上がるにつれ、それを出汁に真希をいじめる者が増えた。
「金も出さねえくせに飯食ってやんのー!」
「金なしー!金なしー!」
それも最初のうちは真希は気にすることはなかった。しかし、小学六年生の時。ついに我慢の限界が来た真希は激しくなじる者達についに攻撃に転じた。
「うるさい!好きで貧乏してるんじゃないんだよ!何さ、生まれがちょっと良かったくらいで!」
それが口だけでの反撃ならばよかった。しかし、真希は椅子で思い切り反撃に転じてしまった。その強烈な反撃を受けた少年は大怪我を負い、目には生涯治らないほどの深刻な傷害を負った。その少年は心にも深刻な傷が残り、誰とも話せず声をかけられるたびに錯乱するようになってしまった。
真希が手を出してしまったこと自体は悪いものの、手を出させる理由を作ったことやそうなったことは少年の自業自得である。しかしそれを負い目に感じた真希は、小学校の卒業を間近に控えながら小学校には登校しなくなった。お父さんのために働く、とその時から口にし始めたがもちろん真希は小学生。四月になっても中学生であり当然収入を得ることはできない。そして、進学に向けた準備もできない彼女は中学には進学はしたがもちろん通うことはなかった。そのまま中学に通えぬまま1年が過ぎたときに、事件が起こる。
生活も満足にできなくなった真希の父は遂に…いや必然にも闇金から金を借りるようになっていった。勿論、明日生活できるかがわからないほどの貧困に悩む人間がその法外な利息を払いきれるわけもない。
「返せねえんなら折角の上玉のお嬢ちゃんだ。身体で返してもらうしかねえなぁ。野郎ども、連れていけ!」
借金の利息のカタとして、真希は攫われた。
それからしばらくは真希は裏風俗で風俗嬢として生活していた。しかし父の借金の元金も中々減らない。そんな時に事件が起きた。客のうちの1人が、真希に麻薬を打つことを強要してきた。度重なる行為に加え、与り知らぬところで積み重なった借金のために身体を捧げそうまでしても終わりの見えない地獄。小学校の時などとは比べ物にならない過酷な生活にすでに限界を迎えていたところにどうなるかもわからない薬の接種までもを強要された真希は、我慢がついに効かなくなり男を思い切り突き飛ばした。風呂場で足元も悪く、倒れるほうに偶然浴槽があった不運な薬物中毒の男は頭を強打し血を垂れ流す。
その音を聞きつけ、支配人の男がやってくる。勿論、客を突き飛ばした嬢に待っているのは懲罰だ。
「真希、お前!」
「嫌だ!もう嫌だ!私何も知らない!!みんな、みんな大っ嫌い!!お前らみんな殺してやる!!」
しかし、とうに限界を迎えていた真希を取り押さえることはできなかった。ありったけの力で男を突き飛ばしその男から自動拳銃を奪った真希は辺り構わず乱射する。見境なく飛び交う凶弾はいくら荒事に慣れている暴力団の男たちでも避けることも止めることも叶わない。気が付けば無数の死体が出来上がり、弾切れを起こした後に真希は膝をつき途方にくれる。
「なんで…私が一体何をしてこうなったの…どうして私ばっかりがこんな目に…」
そしてその中、一人の女が歩いてくる。左手には刀を持ち、煙草に火をつけて吸いながら。
「チッ、仕事に来てみりゃこれたァ何が泡の国だよ。血の風呂屋なんて洒落たもん開く組があるたぁね。」
「貴女、誰?組の人?嫌だ!来ないで!!」
異様な光景にもたじろがないその女に、真希は恐怖を覚える。とうに弾など切らしている銃を向けるも、弾が切れていることも恐怖に慄いていることも理解していた女は、銃を向けられても全く動じることはなかった。それどころかどんどんと距離を詰め、足が届く範囲に入ると拳銃を持つ手を思い切り蹴り上げ無理やりに手を離させた。右手で煙草を指に挟み、銃を失った真希を見下げるその目はどこまでも冷たく暗い。
「お前が殺ったのか。まぁいい、少し寝ててもらう」
そう言い煙草から手を離すと血に染まった薄衣の少女に向けて女は黒い手袋を着けた右手を握りしめ、鳩尾を思い切り突く。避ける技術も気力もない真希に、その拳を止めることはできるはずもなかった。真希の視界は暗転し、その場に崩れ落ちる。
「もう人の道には戻れねえな。...仕方ねえ、面倒見てやるか」
…意識が吹き飛んだ真希が次に目を覚ました場所は、何処かもわからない事務所の中だった。目を開いた先にいたのは、あの血の海の上を踏み荒らし現れた女。
「目が覚めたか。」
「…!?貴女あのソープにいた…!」
「そうだよ。この事務所まで連れてきてやったんだ。奴らは全滅してるし生きてたとしてもわざわざ死ぬとわかってて私の事務所まで来たりもしない。私の名前は村山龍香だ。お前の名前は神崎真希だな?」
「どうして名前を?私をどうする気!?」
真希は完全に錯乱していた。龍香と名乗るその女は冷静に煙草に火をつけ、応える。
「とりあえず落ち着け。二つお前に話すことがあってな。まず一つはなぜ私があそこにいたのかだ。お前が働いていた…というより働かされていたあのソープは最悪の裏ソープでな。生で出させる割に嬢が孕んでも対処しねえ、一般人さらって無理矢理身体を使わさせた上にろくな賃金も寄越さねえ、挙句客に麻薬持ち込ませてヤク漬けにさせて嬢を二度と抜けらんねえ快楽地獄に陥れて用がなくなるまで奴隷として使い潰した挙句今度はそいつに麻薬押し付けてさらに金を巻き上げる…まぁ最悪中の最悪なクソみてえな店だ。そんな店の経営陣なんぞ裏でも恨みを買う。恨みを晴らすために私はあの店に踏み込んだ。勿論恨みの代行の為の誠意はもらった上でな。しかしまあ店入ってみりゃ驚きだ、お前がみんなコトを済ましてる。労せずメインタスクが片付いた私はお前を気絶させて車に乗せた後悠々と風呂掃除してここに帰ってきたわけだ。ついでだから攫われてあそこで奉仕させられてた連中を解放するのも目的だった。だから私はお前の事も知っている」
そこで一度言葉を切り、龍香は続ける。
「んでもって、話はもう一つある。私の所で働いてもらう。というか働け。」
「なんで、また…!」
「黙れよ。黄色い声を上げるな、クソガキ。」
反抗の意志を見せる真希を龍香は日本刀の光と自身の低く抑えた声で制止する。決して声を荒げてるわけでもなく、大きな音を立てたわけでもなく、彼女自身の体格は威圧感があるものでもない。しかしその女に対して真希が覚える恐怖は、今までのどんなものよりも大きかった。
間違いなく、この女は口をこれ以上挟めば迷いなく斬るだろう。理性をもって。二度の過ちを招いた彼女の堪忍袋の緒も、この本物の暗殺者の前には切れることはなかった。衝動的に人を殺した真希と違い、理を持ってして人を斬り続ける女のその本物の殺し屋の目は中途半端な小悪党とは全く別のものだった。
「お前に口挟む権利はねえ、というか頼んでるんじゃねえよ、命令だ。お前、自分が何人殺したと思っていやがる。仕事でターゲットの全滅が必要だから数えてやったが15人だ。んでもって私が殺害を依頼されてた連中は全滅してたが殺さないといけなかったのは全部で客含め12人、つまりてめえの乱射に巻き込まれた中に無理やり働かされてた連中や恨まれる理由がない客も3人含まれてる。私があの風呂屋全部掃除したし証拠隠滅専門の火葬屋であそこにあった死体全部焼いてやったし遺品も滅却したから99%表の世界にこのことが露見することもねえがこんな事が表沙汰になってもみろ、ブタ箱で済むわけがねえ私が斬るまでもなく一発で癇癪発絞首台経由地獄行きの片道特急券だ。」
そして刀から手を放すが、代わりに真希の前髪を掴み、顔を近づけ凄む。
「わかったか。どんな理由があろうともうお前に明るい世界の居場所はない。私と共に、人の道を踏み外した道を歩み続けるんだ。勿論仕事覚えて独立するのは自由だ。だが表の世界で生きていく術など私は教えない。一生他人に究極の理不尽を叩きつけて人を殺った業を殺った数だけ背負って生きていくんだ。」
強めの言葉をそこで1度きり、手を離すと今度は諭すような口調で続ける。
「...それにこれは私的には一応慈悲の部類に入るが仮にお前がこのことを忘れて普通に表社会に出たところで生き延びる術があるとも到底思えない。あそこで働かされてた奴ら全員の素性も私は調べてる。お前の乱射から幸い逃れられて助けてやった奴には素性を元に新しい仕事や訓練学校の紹介と依頼金からいくらか口止め料も払ってやった上で二度とこっちの世界に関わることのないようにした。でもお前中学すらまともに行ってねえんだろう。やったこと以前に金も身寄りも学も知識もねえ、やれることと言ったら嫌々身体を性欲の行き場もまともに見つけられねえ豚共に売ることしかないメスガキがどうやってここから真っ当に生き延びる?表に出たところでいずれ生きる手段を失って売女に戻るか首を括るかが関の山だ。息吸って吐けるだけでお前はもう死んだのと何ら変わりはねえ。」
「身寄りならいます。お父さんの所に戻ります。高校も出て…」
「お前に身寄りはいねえっつってんだろ。読解力ねえのか。お前の親父ならお前が攫われた後にあのクソ風俗の元締めのタコ部屋で無茶苦茶な強制労働させられてたらしいけど一ヶ月かそこらで自分から首括って死んだよ。借金と娘を失ったことで苦痛を我慢してでも生きていく希望を失くしたんだろう。そもそも身支度できねえのが理由で公立の中学にも通えなかったくせになんで高校通う金あると思ってんだ。一応言っとくがここまで嘘はついてないぞ。お前みたいなろくな技能も知識もねえ精々できることはどうしようもねえロリコン相手に股開くくらいしかねえ小便くせえガキだまくらかして組員として雇い入れるほど私は暇じゃないし非人道的でもない。」
人として生きる上で最大の過ちを犯した上に、冷静に振り返ると学校にすら通えなくなった真希には中学相当の学力も当然なく技能もない。父親が死んでいたとは俄には信じがたかったがこの女に実際嘘を言う理由もない。この女の言うことに、反論することは出来なかった。
「...わかりました。それで?また売春ですか?」
「させるわけねえだろ。他人に身体を売らすなんて行為はてめえが望んでもねえ限りはいっとう私が嫌いなことだ。やることは今いる私の手下にゃできねえ掃除屋だ。無論訳ありだがな。あと馬鹿じゃ困るから保証人や籍でっちあげて中学はこの辺のところで通わせてやる。」
龍香はその後、真希を龍二に紹介し三人で裏の事業を行うことになると説明した。しかし龍二は疑問を持っていた。なぜ極道であった自分には人殺しには関わらない仕事を行わせ、後から入った上に暴力団の組員でもなかった少女には殺しの仕事の手伝いや実際に殺害を行わせるのか、と。
その疑問は、この話によって融解する。
「…なるほどな。俺が一番、踏み込んでると思ってながら踏み込んでないってことですか。」
「そうだ。さっきも言った通りお前の仕事の能力は認めてるし、ここで働きたいって意思も尊重している。だからやめろとは言わないようにしているがいつでも人の道には戻れるようにする。今後もお前に殺しの仕事には関わらせる気はない。真希には言うなよ。あいつは学が破滅的にないだけで馬鹿じゃないからわかってはいるだろうがな。」
龍香はそう言うと煙草の火を消す。
「明日お前朝から運び屋の手伝いだろう。遅くまで起きてないでさっさと寝ろ」