1-4話:
「はぁ、クソ」
どれくらい時間が経っただろうか。
座り込んだままだった喜一郎は、苛立ちを腿にぶつけていた。
思い起こされるのは彼女の姿だ。
自分を守る術を、彼女は喜一郎という嘘に求めた。
けれど、その嘘が大切になってしまい。
結果、嘘を守るために自らを犠牲にした。
――さよなら、筵田くん。
喜一郎とは呼ばなかった、決別のセリフ。
その真意を、理解できないとはいわせない。
わだかまる気持ちは、正直今もある。
だが、赦しは神の専売特許だ。
許せないなんて、喜一郎に言う資格はない。
彼女は多くをくれた。笑顔も、優しさも、嬉しさも、喜びも、すべてを与えてくれた。
それに対し、自分はどうだ。何を与えてやれた。自分は彼女に、何をしてやれた。
愛は最高の奉仕であると、太宰は言った。
これぞ真理だと、喜一郎はおもう。
恋愛も、友情も、家族愛も。
すべては尽くすための方便だ。
自分を殺し、相手を助ける。
だったら殺すのは自分でいい。
彼女じゃなく、何もない自分で。
「ユリカ、とか言ったな」
立ち上がり、人波に逆らって街へと歩き出した。
当てなどない。
頼れる仲間など存在しない。
それでも、とまらない。
とまろうとも思わない。
胸にくすぶる炎がバチバチと弾けた。
記憶に残る制服を追って、ひたすら町中を練り歩く。
紺のカーディガンに赤のリボン。あれは、玉手高校のものだったはず。
そのときだ。喜一郎は、ファストフード店の二階に覚えのある顔を発見した。
静かに入店する。
アイスコーヒーを注文し、つい立てに隠れながら近場の席に陣取る。
一人、窓際の席に腰掛けている女は、まわりを考えずバカでかい声で喋っていた。
(別れたばかりにしては随分楽しそうだな)
電話だろうか。ときおり、キャハハと笑い声があがっている。
充電器を取り出し、コンセントを探すふりをしながら、喜一郎はさらに接近した。
「うわ、それわかるわー。やっぱ男って、顔だけじゃダメだよねー。ツカサ君に紹介してもらったけど、やっぱ自分で見つけないと」
集中しすぎた。隣の席からいぶかしげな目で見られる。
咳払いしながらストローを咥えると、ずずっと吸い込んだ。
(うっ、マズ。大人しくシェイクにしとけば)
一番早そうなメニューにしたことを後悔する。
仕方なく教科書を取り出し、勉強しているように見せかける。
息を潜めていると、何やら不穏な言葉が聞こえてきた。
「えー、なに、そっちも浮気なの? あ、じゃあさ、私が別れさせてあげよっか? なんか、だいたいわかっちゃたし」
(別れさせてあげよっか?)
「ちがうちがう。甘く見てないって。あーはいはい、借りた分は返すから。はーい…………あ、ごめん。そろそろ行かないと」
急に女が立ち上がる。
慌てて教科書を持ち上げ、顔を隠した。
(ゲッ、これ逆さまだ)
しかも保健体育。脂汗が流れる。
気付くな、気付くなっ!
そんな苦闘もよそに、女はゴミも片付けず階段を降りていく。
胸を撫でおろした喜一郎は、ふと、女が座っていた席に革製の何かが残っているのをみつけた。
「あの女のサイフ、か……?」
まわりをゆっくり見回すと、そろりとブランド製の財布を手に取った。
洗面所に駆け込み、中を開ける。
見た目どおりがさつな性格らしい。詰め込まれたレシートに思わず顔をしかめた。
「うわっ、汚ねぇ。学生証は、と……つか、カラオケの会員証ばっかじゃねえか。で、これはゴムか。陽キャってのもロクなもんじゃ…………あん?」
喜一郎は奥に捩じ込まれていた封筒を取り出した。
中には、名前や会社名が印字された紙が入っていた。
つまりは名刺だ。
他には、折り畳まれた金十万が入っていた。
「すげえ金。で、なになに。株式会社フリー……読めねえ。ったく、ちゃんと管理しろよ」
ヨレた名刺を引き延ばし、光にかざした。
「どっか読めるとこは…………別れさせ、工作担当?」
判読可能な文字を読み上げ、喜一郎は驚愕する。
すぐさま店を飛び出した。
人通りのある夜の街並みを全力疾走する。
見つけた。呑気なことに女は、アパレルショップに夢中だった。
喜一郎は迷うもその背を追う。
確かめようにも大通りは目立つ。
都合のいいことに、女はフラフラと人通りの少ない方に向かっていた。
(別れさせ工作、だとっ)
さっきまで喜一郎の中では、一つの疑念が首をもたげていた。
彼女が語った、ユリカという女の異常とも言える執着心。
尾行や複数回にわたる電話など。
一見、行き過ぎた感情の発露に見えなくもない。
だがそれにしては、去り際があまりにも淡白すぎやしなかったか。
事実、あれだけ構っておきながら、喜一郎が来た途端、やけにあっさり引き下がった。
恋は熱するも冷めるも一瞬とはいうが。
だが女の目的が、もしも自身のためではなく、彼女とその彼氏の仲を引き裂くことであったなら。
続けざま、盗み聞きした言葉が頭をよぎる。
『別れさせてあげよっか?』
十万という大金。女の言動。尾行に恫喝。
つまり、動機はある。
数あるピースが一つの絵になってゆく。
ふつふつと、激情が高まるのを感じていた。
一駅分くらいの尾行だっただろうか。
陽は落ち、辺りは闇に包まれている。
行くか、と思ったときだ。
誰か発見し、女は明るく手を振った。
「あー、ごめんなさーい。待たせちゃった?」
女は、その誰かに駆け寄った。
見覚えのあるシルエットだ。顔は闇にまぎれてうかがえない。
その誰か――女だ――が、うなずく気配がした。
「いや、構わないよ。だが、取り急ぎ依頼の報告をさせてもらって構わないかな?」
「はいはーい。あ、でも、わかりやすくねー」
(依頼の報告、だと?)
喜一郎は電柱の影から顔をのぞかせた。
どういうことだ?
あの女が黒幕ではないのか?
じわり手汗がにじむ。喉がカラカラに乾いた。
「では、君の恋人――松丘彰人の今後についてだが」
(君の、恋人……?)
嫌な予感がしなかった、と言えば嘘になる。
シルエットだけではない。少女の声も、このシチュエーションも、
そう、そうなのだ。
たしかに喜一郎は疑念をもった。
女の動機と行動が一致せず、期せず手に入れた「別れさせ工作」というピースをはめた。
でき上がったストーリーは、何の矛盾もないように思える。
しかし、しかしだ。
本当にその疑念は、あのユリカという女についてだったか?
いやそもそも、誰の言葉に疑念を抱いたんだ。
考えだすと嫌でも思い当たる。
なにせ喜一郎は、事の発端をしらない。
男の本名も、女の素性も、何もしらない。
知っているのは、また聞きしたことだけ。
ならば、だ。
もし事の前提がすべて「嘘」ならば。
それは、天地の逆転を意味しないだろうか。
ぞわりと喜一郎の背中を戦慄が駆け抜けた。
あり得ない可能性だ。
だが。
だが、それでも。
考えざるをえない。
なにせすべての情報は疑いもしない、
たった一人から、授けられたのだから。
闇の中にその姿が浮かび上がる。
もう少し、そう身を乗り出した瞬間だった。
視界が急にぼやける。
いや、それは防衛本能だろう。脳が、喜一郎を守ったのである。
「あ、か、はっ……!」
見覚えのある姿は、あまりに残酷だった。
ありえない。
いや、信じたくなかったのだろう。
それほどまで現実味のない光景だったのだ。
「――と、こんなところかな。で、約束の報酬だけれど」
少女が一歩、街灯のふもとに踏み出した。
その姿が白日の元にさらされる。
それに、喜一郎は憔然とするしかなかった。
絹のようにつややかな黒髪、
新雪を固めたような白い肌。
そして、喜一郎と同じ学校の制服。
見間違えようが、ない。
その少女は――喜一郎の、大切な……。
「えっ」
砂利を踏んだ音で、少女と目が合った。
声に釣られたのだろうか。
ふりむいた女が口を開けて叫んだ。
「あー! アンタはあんときのっ。ってことはアンタも? わー、スゴッ。いやーホントに凝ってるわ」
女は、喜一郎が持つ財布に目をとめた。
「って、アタシのじゃん。アフターサービスまでしっかりやってくれるなんてちょっと感動なんですけど。じゃあこれ、報酬の十万ってことで」
女は財布を開けると封筒を手渡してきた。
それで用は終わり、ということなのだろう。
女は「ありがとー」と明るく去っていた。
残された喜一郎はその少女と向かい合う。
毛繕いをした猫のように、少女はふふっと笑った。
「奇遇だね。筵田くん」
やあ、とその少女はピースをする。
まるで、朝の挨拶をするように。
飾らないからこそ、その異常性が際立った。
「しかし、彼女には参ったな。うかつなのは背中もだったらしい。まったく、困ったものだよ」
少女は、喜一郎の持つ封筒をひったくると、中の紙幣を数え出した。
「だが、勘定はできるようだ。そこは素直に賞賛しようじゃないか」
「……いったい、どういうことだ。これは」
「うん? ああ、相変わらずまだるっこしいな筵田くんは。いや、こういうべきかな? ”わかってるくせに。喜一郎くんのイジワル“」
少女がイタズラっぽく言う。
すさまじい嫌悪感が背中を駆け上がった。
「オレの質問に答えろ! なぜあの女と知り合いなんだ! おまえは彰人とかいう男のところに行ったんじゃないのか! あのときの涙はっ――いや、それにその金はっ!」
「そんな一度にいろいろ聞かないでほしいな。私は成績優秀であっても、聖徳太子ではないんだよ。まあいいか、まず、このお金だね。これは報酬だよ。お仕事の、ね」
飛びつくようにして、彼女が懐から取り出した名刺を奪う。
食い入るようにしてその名刺を凝視する。
『株式会社フリーダム。関西支部、別れさせ工作担当』
そして、印字された少女の氏名。
愕然とする喜一郎を少女は鼻で笑った。
「それから、彰人とかいう男のことか。彼も実に退屈な男だった。なにせ脳みそが下半身にある。自分は浮気に束縛とやりたい放題なのに、引っ掛けた気の弱い女に男がいると知って目の色が変わるんだよ。あはは、愚かを通り越して愉快だよ」
「あの話は、あれは嘘なのかっ!」
「ふう、バカだな筵田くんは。女の涙なんてほとんど嘘だろうに。ちなみに、彼と付き合うことになったのは三日前だよ。あの昔話は捏造八割、依頼人の話二割だね」
そして彼女は、依頼の流れを丁寧に説明した。
浮気症の彼氏「松丘彰人」に嫌気の差した依頼人「吉本百合果」が、しかし、別れようと切り出す度に引き留められ、困り果てていたこと。
そこに現れた彼女が、他に本命がいることで彼氏の気を引き、百合果への興味を薄れさせる作戦を立てたこと。
また、人気のある彼の浮気を原因とすることで、後腐れなく別れることができるということ。
そんな理屈を、語ってみせた。
「つまり、キミは当て馬だね。ふふ、とはいっても付き合って一週間のキミは本命ということになる。十分栄誉なことだろう?」
「……どこからだ。どこから仕組んでいた!」
「全部だよ。ソシャゲから始まった出会い、私の趣味、都合もね」
「それじゃ、お前は、お前は最初から」
「はぁ、まだわからないのかい? よくよく考えてみなよ。話もつまらなければ、特技も、優れた部分もない。そんなゴミのようなキミに、私のような完璧美少女が恋人になってくれると思うかい。それも、きわめてキミに都合のいい」
「おまえっ!」
「ああ、このあだ名もそうか。林檎ちゃん。君の幼馴染、モモちゃんに対抗してみたんだ。よかっただろう? 実に、幼稚で」
両手を広げた彼女は、喜一郎の取り巻くすべてを嘲笑した。
何がなんだか、さっぱりだ。
感情が振り切れて頭の中が真っ白になる。
喜一郎はよろめくようにして手をついた。
「いや、それにしても。今度の依頼はうまく行ったと思ったのだけれどね。まさかまさか、依頼人の方が尾行されるとは。最初はただの根暗かと思ったけど。普通、追いかけるなら私の方じゃないかい?」
「……んなこと、どうでもいい、どうでもいいんだよ」
口から漏れ出す、少女への糾弾。
それは、怒りではない。たとえようもない嫌悪だ。
喜一郎が知っている、優しい面影などない。
天真爛漫にふるまう姿も、
罪を打ち明けた弱々しい姿もない。
はかなく、夕焼けの中に消えていきそうな、
そんな少女はどこにもいないのだ。
あるのは、恒星のようにきらめく、血も、涙もない、ただひとりたたずむ怪人だった。
「お前は一体、誰だ……誰なんだ」
少女の眼差しが、どこまでも昏く、光を失う。
喜びも、悲しみも、怒りも、楽しみも、すべてがない。
ただひたすらに、この世のものではなく。それは異星人の輝きを思わせた。
「自己紹介はしたんだけれど。筵田くんは実に低脳だなぁ、まったく」
トレードマークであるピースサイン。
少女はその二本の指をピタリと閉じる。
チョキン、と何かが切れる音がした。
それこそ、本当の決別であった。
「別れさせ屋。別れさせ屋の、朽木氷織さ」