1-2話:
「でねでね、仕立て小屋に連れて行かれそうになったアーニャが言うの。『アーニャ売り飛ばされるー!』って。これがすっごくおかしくって」
少女が笑顔でまくし立てる。
喜一郎は相槌を打ちながら、その横顔を眺めていた。
(これがオレの彼女、か)
彼女の名前は朽木氷織。
喜一郎と同じ柏原高校に所属し、普通科である彼とは違って、国際教養科という名の進学クラスに属する才女だった。
女子の比率が高いそのクラスは、偏差値や見た目もあって派手で、他多数の普通科などよりも話題を呼ぶ存在だ。
その中でも彼女は、一際目立つ存在と言っていいだろう。
眉目秀麗、才色兼備を地でいくらしく、定期試験では大体トップスリーに入ってくる。
うわさによると、運動もできるらしい。らしいというのは、あくまでも聞き耳を立てた程度でしか知らないからだが。
そして、何より目立つのはその容姿だ。
闇のように黒い髪、雪のように白い肌、
丸みを帯びた身体、ほそく伸びる手足。
完璧に配置された顔のパーツに、何頭身なんだと思わせるようなスタイル。
神様が右手で描いた造形美は、誰もが嫉妬せずにはいられないだろう。
そんな、どこにでもいない平々凡々以下な喜一郎とは正反対な、非の打ち所のない少女が自分のカノジョだった。
「ねえねえ聞いてる、筵田くん?」
小首をかしげながらも少しむくれている。
けれど、冗談だとわかるよう大げさに。
悪いと謝れば、またふふっと笑い出す。
それだけで心が重くなった。
「で、それでね。とくにヨルさんが好きなの。でもね、弟の吉樹ったらキレイ系だろって譲らなくて。筵田くんはどっちだと思う?」
「あ、ああ。オレも、おもしろいとおもう」
「へっ? え、ああ、そうだよね。ヨルさん、天然系だし。わたしもそう思ってたんだ。でね――」
ああ、馬鹿かオレは。キレイ系の反対はかわいい系に決まっているだろうに。
言って、すぐ後悔する。
一瞬キョトンとしてから、すぐさまフォローしてくれた彼女に一層のみじめさを感じた。
人と話すのは苦手だ。
気心のしれた幼馴染なら勝手はわかる。教師であれば気を使わなくていい。
でもそれ以外となれば、とたんに口数が減ってしまう。
『筵田って、ちょっと……アレだな。頭悪い系?』
『アスペかよ。マジで話の通じねえやつ』
『アンタさ、空気読めないって言われない?』
いつも話が噛み合わなくて馬鹿にされる。
悪気がないのは、喜一郎とて知っている。
だからこそ、何気ない本音が口を重くするのだ。
チラリと彼女に視線をおくる。
気分を害された様子もなく、楽しそうに右へ左へと話題を振ってくる。
それだけで心が鬱屈するのを感じた。
「……っぅ、また」
「あーどうした? 何回も携帯見てるけど」
「あ、ああううん。その……なんでもないの。あ、でねでね。来月の職場見学なんだけど、一緒にところ希望しない?」
「あー、それはよしとくわ」
断るまでもなく、喜一郎には彼女がいたことがない。
だから始め、何を話せばいいかわからなかった。
気まずくなりやすいはずの二人。それがうまくいっているのは、たぶん、共通の話題があるからだった。
幼馴染に付き合わされる喜一郎には、サブカル系の知識が豊富にある。
そして意外なことに、彼女は、こういったジャンルに詳しかった。
また、好きなスポーツはサッカーらしい。
とくに海外サッカーが好きらしく、中学時代サッカー部だった喜一郎とは驚くほど話が合った。
(なんか、陽希とモモを合わせたみたいな)
出会いは、合同授業のふとしたことから。
クラスに馴染もうと始めたソシャゲが会話のきっかけで。
林檎というあだ名はそれのハンドルネームだ。
告白も彼女から。
デートの計画、毎日の予定も彼女からだった。
下校時間を合わせてくれて、遊びに行くのも疲れない三時間ぐらい。ほとんど無趣味な喜一郎のため、途切れることなく会話を続けてくれる。
すべてがすべて、こちらに都合が良い。
居心地の良さにおぼれそう。そんな風に考えながら下校している最中だった。
「あの、ね。筵田くん……」
影が伸びだした放課後。喜一郎たちはいつもの春日台公園で、隣り合って座っていた。
「な、なんだ?」
「そ、その。もう付き合って一週間も経つし、喜一郎くんって呼んでも、いいかな?」
「あ、ああ」
「じゃ、じゃあその、私のことも林檎じゃなくて、名前でいいから、ね」
話す彼女と聞く喜一郎。そんな風になりがちだけど、今日はどこか湿っぽい空気が流れる。
沈黙もどこかむず痒い。
身動ぎすると、体重を預ける右手に彼女の指先が触れて。
あっ、と思って顔をあげると、彼女もこちらをまっすぐ見ていた。
「喜一郎くん……」
動悸がした。彼女の長い睫毛、耳元の産毛までがはっきりと見える。
うるんだ瞳も、朱の走った頬も、色づいた唇も。
そのすべてが、誰に断るでもなく手の中にある。
それに、まるで現実感がなくて。
そっと目を閉じる彼女と、何もできずに呆然とする自分。
そのまま、何もできない時間がたつ。
そうやって見つめ合っていると、ふと、彼女の携帯がけたたましく鳴り響いた。
「あ、あの、ごめんね。ちょっとだけ、待ってて。その……用事が、あるんだ」
「別に、いいけど」
助かった、と正直思った。
責められているように感じたのだろうか。彼女は近づいてくると、少し周りを見渡し、
「ごめんね」
と、触れ合うぐらいに優しくハグしてきた。
抱き合うというより、縋りつくように弱々しく。
髪の匂いが鼻先をかすめていく。抱きしめるべきか、両手がさまよった。
その間に離れた彼女は、寂しそうな瞳を瞬かせた。
「もし遅くなったら、先に帰ってくれていいから!」
いつもの笑顔でピースをした彼女が、そういいながら走ってゆく。
まだ残る感触をおもいながら、喜一郎は天を仰ぐ。
(なんでオレなんかと付き合ってくれてんだろうな。それこそ、陽希なんかのほうがずっと)
こんなど底辺のなにが良いんだろう。
容姿は普通以下で。
勉強もできなくて。
運動は、まあ人並みぐらいはできるけれど。
人と会話するのは誰よりもできない。
陽希の言うように美人局であって欲しかった。
彼女はいつか、自分以外を好きになる。
それを想像するだけで、痛くて、苦しくて。
燃えるような劣等感に支配される。ならいっそ、自分から壊してしまえばって。
ぐるぐる、ぐるぐる。
劣等感の渦にのまれて、沈んで。
そうだ、やめたんだ。
期待なんてするのはもう、やめたんだ。
哀れな深海魚は、いみじくも見上げるだけ。
かすかな光を夢見て、海の底で朽ち果てる。
それでいいって、諦めたから。
どれくらいそうしていただろうか。十分、二十分と経ち、三十分を回ってから、喜一郎は立ち上がった。
「帰ってもいい、とは言ってたが。さすがに遅いな」
この一週間で、彼女の性格はわかっている。
連絡なく帰るタイプではないだろう。二人で入れた位置情報アプリを起動すると、喜一郎は歩き出した。
(トラブルとかは、嫌だしな)
遠くない距離にいるらしい。
駅前を通り過ぎて商店街をくぐると、シャッター通りへと差しかかる。
人通りのない隘路で立ち止まり、端末情報とを見比べた。
「この先、か」
とくに何かがありそうな場所ではない。
首をひねっていると、トレンチコートの男とぶつかった。
「悪いな、少年」
目深に帽子をかぶったその男は、早足でその場を立ち去っていった。
(いまの声、どっかで……)
「何か言ったらどうなの、この泥棒猫!」
わずかな疑問が短い怒声にかき消される。
その瞬間、喜一郎は駆け出していた。
この先に彼女はいる。
はやる心を抑え、曲がり角を曲がった。
「大丈夫っ――」
暴漢か、はたまた喧嘩か。
そう勇足で飛び込むも、喜一郎は急停止を余儀なくされた。
いや、それはそうだろう。
状況があまりにも理解できなかったのだ。
なにせ、自分の彼女が名も知らぬ女に詰め寄られていたのだから。
しかも、名も知らぬ男に庇われるという形で。
「なの、か…………?」
尻切れトンボのように語気が弱まってゆく。
掴み合い寸前だった三人がこちらを向いた。
「なによ、アンタ。見せ物じゃないわよ!」
「ちょ、ユカリ。失礼だよ、そんな風に言うのは。……すみません。申し訳ないんですけど、よければ向こうを――」
キレ散らかす女と、宥めようとする男。
そして、肩身を狭くする自分の彼女。
意味がわからなくて喜一郎は立ち尽くす。
とりあえず一言、
「り、林檎?」
と声をかけるが、依然として俯いたままだ。
それどころか、逃げるように顔をそむける。
喉から「えっ」という間抜けな音がもれた。
「えっと、その制服。もしかしてヒオリちゃん、知り合いなのかな?」
仲裁していた男が、立ち去らないことを訝しみはじめる。
優しげな雰囲気が一変し、どこか目の色が変わった。こちらをジロリと値踏みしてくる。
だが、喜一郎が気になったのはその気安さだ。
ヒオリ、ちゃん……?
そんなことを思っていると、男は眉間に皺をよせ、ぐっと彼女の手を引いた。
「今さ、僕が聞いたよねヒオリ。この男、誰?」
うつむきながら耐えていた彼女は、さらに目を伏せて黙り込む。
男が力を込めてもふり払う様子もない。
ただじっと、口をつぐんでいる。
一方、何かを察したらしい女は、地面に唾を吐き捨てた。
「何それ、くっだらない。あーはいはい、そういうことね。彰人だけじゃなく、この女までそういうこと。とーってもお似合いじゃん」
「ゆ、ユリカ。これは何かの間違いだって」
「もうどうでもいいんですけど? 二股同士、仲良くやったらっ!」
ユカリと言われた女は、ガンと配管を蹴り付ける。
それっきり振り返ることなく去っていった。
狭い路地に、ただ風を切る音が鳴いた。
男はクシャクシャ頭をかき混ぜると、言った。
「ハァァ、めんどくさ。チッ、あいつ思い込み激しいんだよな。
で、そっちは何か用? こっちが込み入った話をしてるってわかんなかった?」
「あんたは……」
「何、バカ? まだ俺たちがトクベツな関係に見えないの? カレシだよ、カレシ」
そういうと、男は彼女の長い髪をそっと梳いた。
彼女のすべてをかき分けるようにして。
まるで、自らの所有物だといわんばかりに。
「どういう、ことだ」
「ごめん、なさい。喜一郎くん」
ひやりと背筋に氷塊が流れ落ちる。
雷に撃たれたような衝撃が喜一郎を襲った。
激しい劣等感が身体中を焼き尽くす。
けれど、現実はすべてを物語っている。
認めたくなくても、認めるしかない。
自らの意思で立ったはずの彼女は、
誰の強制でもなく、
自らの意思で、
喜一郎ではなく、男の側に立ったのだから。
「彼の言う通り、私、彼と付き合っているの」