1.召喚、失敗
――……突然、俺は水中から解放された。
水の浮力を失い、重力が俺の身体に圧し掛かる。
「……?」
冷たい地面を感じながら目を開けると、そこは研究室のような場所だった。
映画や漫画で観たことのある、いかにも怪しげなカプセルや機材がところ狭しと並べられている。
照明は最低限といった感じで薄暗く、壁面は岩肌が露出している部分がかなり多い。
そして俺は、研究室の中でも少し高台の、まさに中心の部分にいるようだった。
「くぁっ、くぁっ、くぁっ……。
成功じゃ! ついに儂の実験が成功したんじゃ!!」
高台から階段で下りたところの横の機材。
その傍らにいる老人が、俺を見上げながら狂ったような笑みを浮かべていた。
老人は白衣のような外套に、俺の見慣れない大きな装飾を身に付けているが――
……何だ? ここはどこだ? 日本では……ないのか?
他の情報を探すため、俺は改めて、研究室の中をゆっくりと見渡した。
しかし最初に目に入ってきたもの以外には、特にこれと言ったものは見つけられない。
ただ、俺の後ろの巨大で透明なカプセルが、中央の繋ぎ目から綺麗に割れていた。
そこからは、中に残った臭い液体が少しずつ、ぽたりぽたりと滴り落ちていた。
……きっと俺は、あのカプセルの中にいたのだろう。
そしてカプセルが割れて、中から流されるまま外に出されて、今の四つん這いのような状態になっているのだろう。
「ここは……どこだ?」
ようやく発せられた俺の言葉に、一番驚いたのは俺自身だった。
いつもの俺の声ではない。
何というか……威厳に満ちた、とても渋い声をしている。
少し困惑しながらも、俺は自身の足で立ち上がった。
「おお! しっかり喋れているな……!
よしよし、神経回路の構築は上手くいったか……。設計通りじゃな……くぁっ、くぁっ、くぁっ!」
老人は俺の質問には答えず、相変わらず一人でひたすら、狂ったように喜んでいた。
その様子に、俺はイラっとしてしまう。
「……おい」
「おお、おお……。
すまん、すまん。長年に渡る儂の研究が、ようやく実を結んだのでな。
ようこそ、異世界の住人にして儂の可愛い息子よ!!」
「異世界……、だと?」
突然の言葉に、俺はそれをそのまま返してしまった。
その言葉は今までに耳にしたことはあるが、実際口にするのは初めての、少し気恥ずかしさのある言葉だった。
「うむ。
ここは貴様のいた世界とは異なる世界。儂の研究の最後の鍵として、貴様の魂を召喚したんじゃ」
「俺の……魂を?」
――俺の名前は朝比奈遥、日本人。
社会人5年目の、いわゆる普通のサラリーマンだったはずだが――
……いやいや。
そもそも何で急に、こんなおかしな展開になっているんだ?
「うむ、貴様の魂を召喚したのは儂じゃ。
……それで、新しい身体はどうじゃな?
元の身体は知らんが、それよりも格段に良いじゃろう?」
そう言いながら、老人は機材の陰から長い木製の杖を手に取り、俺の身体を指し示した。
俺の身体……。
今までは、腹筋がうっすらと割れているか割れていないかの、そんな普通のボディだったわけだが――
……改めて自分の手を見る。
腕を見る。腹を見る。脚を見る。足を見る。
「……何だ? これは――」
俺の目に映ったのは、色黒の、筋肉が隆々とした身体。
見下ろす地面はいつもより遠く、何もかもがひとまわり小さく見える。
自分が自分でないような、そんな明確な違和感……。
「くぁっ、くぁっ、くぁっ!
その身体こそ、儂が築き上げてきた魔法技術、錬金技術、生命技術の集大成よ!!
竜族や魔族、聖遺物や暗黒物質、さらには虚無に横たわる永遠の闇……。
それらを混ぜ合わせ、因果律を操作し、この世界の理を超越させ、結実させた儂の大傑作……ッ!!」
「……ほう」
本当なら『な、なんだってー!?』くらいの驚き方をしたかったが、そんなお茶目はこの身体には似合わないだろう。
俺は何となくそれを察して、威厳のある低い声を老人に返していた。
「そしてな、その身体にふさわしい持ち主を異世界から呼び出したんじゃ。
それこそが偉大なる魂、『破壊と暴風の覇王』たる貴様の魂よ!!」
破壊と暴風の覇王――
……って、何だそれ? 俺はただの、しがないサラリーマンだったわけだが……。
そう思いながら、俺はここに来る前の記憶を探り始めた。
俺の最後の記憶と言えば……確か、巨大な台風が荒れ狂っていた日曜日だったっけ。
電車も車も止まっている中、俺は嫌な上司から突然の出社命令を受けていた。
俺の家は、不幸にも全社員の中で一番会社に近かった。
だからこそ上司の無茶振りが俺に直撃し、台風が直撃する酷い暴風の中を外に出て――
……そして、会社のビルの屋上で作業していた俺は、ひときわ強い風に身体がさらわれたんだっけ?
身体を落下防止用のフェンスに叩き付けられ、あまりの強さに、俺はそのまま遥か下に転落して――
……って、あれ?
元の世界の俺、もしかして死んじゃった……?
ということは、この状況っていわゆる転生した……ってこと?
そういう話は物語としては密かに好きで、それを題材に扱った漫画も何冊かは読んだことがあったけど――
「……覇王、か」
ある程度の状況を察した俺は、何となくニヒルな感じで呟いてみた。
俺も余裕があるというか、ノリが良いというか……。
「おうとも!
破壊の嵐が吹き荒ぶ中、その大空に悠然と揺蕩う者……。
どうじゃ? まさに貴様のことじゃろう!?」
「ふ……っ。間違いでは、無いな」
「ふむ、さすがの貫禄じゃ!
くぁっくぁっくぁっ! 儂の召喚術も、大成功のようじゃな!!」
……すいません、残念ながら大失敗です。
俺の前世は、何の力も持たないただの人間です。
激しい台風の中、高いビルから吹き飛ばされて空を落ちていただけです。
近い要素は少しはあるけど、正解では……限りなく、ないです。
老人の長年の研究を無駄にしてしまった……そんな悲痛な感覚を覚えながらも、俺はとりあえず聞いてみることにした。
「――状況は分かった。
それで? お前は俺に、何を望む?」
「理解が早いのう。
儂の望みは、世界の破滅じゃ。人を殺し、魔を滅し、神を堕とす――
……どうじゃ? 最高じゃろ!!」
うーん?
物語としては面白いのかもしれないけど、それを俺がやるのはちょっとなぁ……。
……ほら? 今まで殺したことがあるのなんて、正直なところ虫くらいだし。
いや、豚とか牛の肉は普通に食べていたけど、それは俺が命を奪ったわけじゃないから……ノーカンで。
俺は話をどう進めようかと思いながら、何となく自分の腕に力を込めてみた。
見るからに筋肉質な腕は、見た目以上の力を一気に満ちさせる。
……何だか凄く、強そうだ。
正直、この老人に負ける要素なんて無いのではないだろうか。
あれ? つまり老人の言うことなんて、聞かなくても良いんじゃないかな?
それなら――
「……くだらん」
「な、何じゃと!?」
俺の言葉に、老人は明らかに焦った。
恐らく、『破壊と暴風の覇王』の言葉としては信じられないものだったのだろう。
「その滅びが何を生む。
滅びの先に、何があるというのだ」
俺はノリノリだった。
元の世界では、絶対に言わないような台詞。
漫画やアニメで出てきても、俺は気恥ずかしさを感じてしまったかもしれない。
しかし今の俺は、『破壊と暴風の覇王』なのだ。
それならば、ある程度のファンタジーをこの老人に見せてあげても良いだろう。
「な、ななな……!?
わ、儂の目的が理解できない、じゃと……!?」
「ああ、お前の望みは叶えてやらん。
だが安心しろ。俺はこの世界で、ずっと生きていってやる」
……正直、元の世界に戻る方法も分からないし。
それにここにずっといたら、老人のくだらない野望の片棒を担がされるに違いない。
だから俺は、もうこの場所からはさっさと離れたくなっていた。
「ぐぬぬ……。
勝手な真似はさせんぞ!!」
「ほう? お前のか弱い身体で、俺に歯向かうと言うのか?」
俺はとりあえず、指をボキボキと鳴らしてみせた。
野太い音が、迫力を出しながら辺りに響いていく。
「くぁっくぁっくぁっ……!
貴様を召喚するのに、儂が何の策も講じていないと思ったか?
否ッ! 断じて否ッ!!
貴様の魂には、深く重い鎖を付けてやっておるわ!!」
「……何だと?」
俺の言葉を遮るように、老人は聞き取れない声で何かを呟き始めた。
しかしそう思った瞬間、老人の杖からは眩い光が放たれ、それは俺を包み込んで――
「くぁっくぁっくぁっ!
どうじゃ、苦しいじゃろう!? 身体にッ!! 魂にッ!! 激痛が走るじゃろうッ!!?」
「……いや、別に?」
「な、なにぃっ!?」
老人の自信満々の笑みは、俺の一言で吹き飛ばされてしまった。
今はアゴが外れそうなほどに大きな口を開け、呆けたように固まっている。
……確かにそういえば、頭の奥がぴりっとだけ痛い……かもしれない。
しかしこんな痛み、風邪の初期症状みたいなものだ。
「何かしたのか?」
「そ、そんなはずは……。
貴様は……『破壊と暴風の覇王』は、純然たる悪意の塊のはずッ!!
儂はその悪意、魂の根元に、呪いを掛けてやったというのに――」
……ああ、なるほど。
つまり本物の『破壊と暴風の覇王』だったら、ここで従わざるを得ない流れだったのね。
しかし俺は、残念ながら元はただのサラリーマン。
だから大それた悪意はなんてあるわけは無いのだが……。
とはいえ、少しは痛んでしまった分、悪意が皆無というわけでは無いのだろう。
「……無駄骨だったようだな。
だが、俺をこの世界に呼んだのだけは感謝してやる。
故に、命だけは助けてやろう」
俺はそう告げると、老人を後にして、外に出られそうな扉へと歩き出した。
「ま、待て――」
老人は何かを言い続けたが、扉までの距離はそこまであるわけでもない。
俺は扉まで辿り着くと、軽く力を入れて、外への扉を開け放った。
――まぶしい光。
身体を撫でる、冷たい空気。
それ自体は元の世界と何も変わらない。
満ち足りている。
ひとつ不満があるとすれば、後ろの老人がやかましいことくらいだ。
……さて。
とりあえず、一人になれる場所を探すとするか――




